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第十九章 翠の翅を得た毒蚕

百六十三話 比翼と成るか連理と成るか

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「央那(おうな)」

 夏の訪れを感じられるほど暖かくなってきた、ある日のこと。

「はっ、なんでしょう翠(すい)さま」

 呼びつけられて、私はシュババッと翠さまが座る椅子の傍に駆け寄る。
 私は目覚めた翠さまの身の周りのお世話に従事する、幸せな日々を過ごしていた。
 妊娠安定期のまま眠りから目覚めた翠さまは、気力も体力も十分に満ちており、臥せって過ごす日というのは滅多にない。
 病み上がり、呪い明けとは思えないくらいにエネルギッシュに自分も動き、同時に私たち侍女をもキリキリと動かしていた。

「今日は州公さまが来るのよね。あんたも顔見知りみたいだし同席しなさい」
「かしこまりました」

 今まで屋敷を訪れてくれたお客さんに会えなかった分、翠さまは積極的に角州の要人たちと面談している。
 本日の予定では春に新しく州公に就任した得(とく)さん、猛(もう)犀得(せいとく)その人が、司午(しご)屋敷を訪れることになっている。
 司午家と猛家は以前から家族ぐるみでも、州のお仕事を通しても付き合いがある。
 翠さまと得さんも昔からの顔馴染みであるため、それほど格式ばった席ではない。
 私が末席に控えて話を聞いていても問題はなかろう。
 なんて冷静で的確な判断力なんだ、と私は自分のご主人の有能さに惚れ惚れする。

「得ちゃんじゃなかった州公になにかいやらしいこと言われたりされたりしたら遠慮なく蹴っ飛ばしてやっていいからね。翠さまのお許しがありますって言えば向こうも文句言えないから」
「わかりました。ぜひとも喰らわせてやりたいです」

 得ちゃんだってさ、可愛いね。
 いや、可愛げのないセクハラおやじですけれど?
 でもなんだろう、不思議な「愛嬌」のようなものが得さんにはあるのだよな。
 人それぞれ、積み重ねた年輪で個性はさまざまに表れるもんやのう。

「州公がいらっしゃいました」

 巌力(がんりき)さんの報告を受けて、私たちは応接のための客室に集まる。
 先に部屋に入っていた得さんにウインクされたけれど、無視。
 私はお茶出し係も兼ねているので、翠さまが座る席の後ろに控えて立つ。
 他に同席者と言えば玄霧(げんむ)さんと、司午家の番頭さんのような役回りの人たちと、あとは。

「なんで椿珠(ちんじゅ)さんもいるんですか」

 フーテンの椿さんまで、実に堂々とした表情で当たり前のように座っていた。

「金や商売の話も多少は出るだろうからな。ご意見番をやってくれと玄霧(げんむ)の旦那に頼まれたんだよ」
「へー」

 セクハラ傾向の強い男子が場に増えた、以上の感想など私にはない。
 翠さまの前ではなんびとたりとも、下品な不埒は許さんぞ!

「お前から質問して来たんだから、少しは興味持ってくれ……」

 今言われて気付いたけれど、どうも私、計算や勉強が好きな割には商売というものにあまり興味関心を持てないタイプなのかもしれない。
 おそらく私自身が、埼玉でも神台邑(じんだいむら)でも後宮でも、今いる司午屋敷でも。
 経済的に困窮した経験がないし、逆に「凄く儲かっちゃった! なんでも好き放題できるワァ~♪」という経験もないからだろう。
 お金の多寡を意識せず今まで生きて来られたのは、お母さんや軽螢(けいけい)、そして椿珠(ちんじゅ)さんたちが、私の代わりにお金のことを監督してくれた事実の裏返しでもある。
 感謝の心を持ち、少しは彼らの苦労を理解しないと、いけないのだよな。

「さて、まずは俺からいくつか報告がある。相談ごとはその後にすっかね」

 得さんが皮切りに話し始めた。

「市場で老旦那を襲った刺客だが、薬を抜いて角州(かくしゅう)の美味いメシをたっぷり食わせてやったのが功を奏して、ぼちぼち情報を話すようになった。やはり赤目部(せきもくぶ)のモンらしい。仕事がなくて路頭に迷ってた頃、阿片をエサに暗殺者として仕込まれたんだったよ」

 話を聞き、首をひねる翠さま。

「阿片をエサにってのがよくわからないわ。腹の足しになるものでもないでしょうに」

 質問に対して、得さんはえげつない解答を教示するのだった。

「食い詰めモンを拾って来ては、簡単な仕事を与えて上手く行けばヤクとメシを褒美にくれてやる。そうして小さい頼みごとから始めて繰り返せば、最終的にどんな厄介な頼みでも喜んで聞くような、前後不覚の刺客が出来上がるって寸法よ」
「タチの悪い洗脳じゃんそれ!」

 人道に外れた行いに、つい大声を上げる私。
 悪魔のようなことを考えるやつが世の中にはいるなあ。
 薬の力で意識も善悪の判断も曖昧になり、脳の報酬系がズタズタにぶっ壊されてしまっては、後先考えずに要人貴人を殺す鉄砲玉なんてインスタントに作れちゃうね。
 恐ろしく悪辣な手法、私でなくても見逃せないのは自明の理であり。

「ふざけた連中がいるもんね。元締めや親玉みたいなやつはわかったの?」

 翠さまが不快感を露わにして訊いた。
 しかし得さんは首を振る。

「赤目部はもともと、大小の頭目が好き勝手やる気風の土地だ。いくつかの氏族は昂国(こうこく)にも協力的なんだがな。そうでない連中も山のように跋扈してやがる。捕まえたやっこさんもそこだけは頑として口を割らねえ。こっちの調査は停滞気味ってこったな」
「こっちの、と言うことは」

 腕を組んで静かに話を聞いていた玄霧さんが、会議の場に着いて初めて口を開く。

「翠蝶(すいちょう)の体に呪いをかけた連中の調べには、進展があったということか」

 得さん相手に玄霧さんはタメ口であった。
 幼馴染らしいし、立場や年齢差は別として気の置けない関係なのだろう。
 玄霧さんの言う通りらしく、得さんはドヤ顔を決めて明るく報告した。

「おう、連中が船で角州(かくしゅう)から逃げた経路を丁寧に洗ったらよ、爪州(そうしゅう)の港や街のいくつかでそいつらを見たって情報が集まってな。文官と武官の両面から追跡させてるが、時間の問題でとっ捕まえてくれるだろうよ」

 角州が北東に伸びる半島なら、爪州は南東に伸びる半島である。
 雑に言えば千葉県の房総半島と神奈川県の三浦半島のようなお向かいさんの関係であり、両地域は海上交通で密接なつながりを持っている。

「それはなによりだ。明るい話を聞かせてくれてありがとう」

 ウムウムと小さく頷いている玄霧さんが、顔色以上に喜んでいるのがわかった。

「大まかな報告はそんなとこだ。あとで調査報告書の写しをこっちにも届けるからよ。細けえ部分はそいつを参照してくれや」
「わかったわ。ところで相談したいことってなんなのよ。そっちが本題みたいだけど」

 牛乳を飲み、干した杏子をつまみながら翠さまが得さんに訊いた。
 お腹が大きくなってからというもの、翠さまはお酒もお茶も飲まなくなったし、大麻の煙を吸うこともしなくなった。
 刺激物はなるべく赤ちゃんから遠ざけよう、と思っているのだろう。
 もともとそこまでお酒や大麻をたしなむ人ではなかったので、なければないで平気らしい。
 得さんは懐から一枚の紙を取り出して、説明しながら言った。

「これは、国から割り振られた北方諸部との商売の免状なんだがよ」

 紙を見て椿珠さんが興味深そうに目を丸める。
 以前は環家(かんけ)ばかりに優先的に与えられていた、北方諸外国との貿易取引の許可証と、その限度額や禁制物品の目録である。
 表情を変えない玄霧さんが、冷淡な口調で訊ねた。

「角州にも多くの額が割り当てられたのは知っている。先ごろ開催された市場も、この免状を根拠に成立したのだろう」
「その通りよ。俺ぁ近いうち、せめて夏の間にもう一回、最初よりでっけえ規模で斗羅畏(とらい)たちとの親睦のために、国境でまた市場を開催したいと思ってるんだがな」

 得さんの話に、ふーんと軽く興味を示した翠さまが言う。

「大いにやればいいじゃないの。最初の市(いち)ではその斗羅畏って頭領さんは来なかったんでしょ? 仕切り直しの本格で今度こそ第一回だーって告知すれば前より多くの人が来てくれるかもしれないわね」

 私も翠さまの意見に完全同意なので、水飲み鳥の玩具のよう後ろでウンウンと頷くしかない。
 素敵なご主人に同意するBOTと化していた。
 得さんとしては、そのときにまた司午家に力を貸してもらうことになるけれど、という話をしたかったのだろう。
 玄霧さんと翠さまが「どんどんやりなさい」と言ってくれたことで、その案件はすんなりと話がついた。
 私のご主人は、話が早いことを好むのである。
 相談の種が瞬時に片付いた得さんは、笑って別の話題に移った。

「そう言ってくれてなによりだぜ。そしてこれは俺から翠への快気祝いだが」
「あらなにかくれるのかしら。貰えるものはなんでも貰うわよ」

 得さんは卓に置かれた免状を指差し、続けた。

「司午家の裁量で、北方のどの氏族、領域とも自由に商売をしていい取引額の枠を、州庁からの委任って形でおめえさんたちに分けてやろうと思うんだ。とりあえず今年の冬至、冬の半期までの分で、一万金くらいだな」
「自由にやりたいようにやっていいってのか!?」

 まず色めき立って叫んだのは、椿珠さんだった。
 じろりと翠さまが椿珠さんを睨んで、釘を刺す。

「司午家(うち)の話よ。あんたに勝手させるわけじゃないんだからね」
「これは失礼した。州公どの、説明の続きをどうぞ」

 子どものように叱られて小さくなる椿珠さんを見て、くくっと嗤った得さん。
 彼の言うことには、こうだ。

「俺と玄ちゃんの個人的なやりとりでこんなことをしちまうと、癒着だなんだと余計な茶々を入れられっちまう。だが幸いにも今、この家には腹ボテの翠がいるからよ。いずれ生まれる御子への先祝いってえ名目なら、誰も文句は言えねえだろう」

 むう、といろいろ考えているのか、玄霧さんがやや重い口調で答えた。

「我が家にとってはありがたいことだが、それを行うことで州公としての犀得にどういう利益が、大義と理屈がある?」

 もっともな話である。
 得さんは、司午家に商業権の一部を委託することで、いったいなんの意味を見出しているのか、ということだ。
 可愛がってた翠さまへ、得おじさんからのお祝い、お小遣い、というのなら、こんなに政治的な要件を持って来なくてもいいはずだ。
 その疑問に得さんは、直接的ではない答えを匂わせた。

「角州は、州是(しゅうぜ)として斗羅畏の領を支援することを決めた。だから仮に斗羅畏の敵がなにもんかわかっちまったら、そいつらのご機嫌まで伺うことはできねえ」
「そりゃそうだろうな。同盟相手への裏切りになる」

 当然のことだと椿珠さんが頷き。

「ん、角州としては……か?」

 なにかに気付いたように、独り言を漏らした。
 椿珠さんが理解してくれたことを確信し、得さんは席を立つ。

「そういうこった。州の役人である『俺たちは』斗羅畏以外の北方勢力を支援できねえ。しかし州庁の枷を一段、飛び越えられる女がこの屋敷にはいる。朱蜂宮(しゅほうきゅう)の西苑(さいえん)を統括する、人臣の外側にいる貴妃さまがな」

 これ以上は自分の口からは言えない。
 そんな雰囲気だけ残し、得さんは去って行った。
 あ、そうか。
 これはいわゆる、押すな押すなの理屈で。
 できないし、やるなと匂わせたことを、こっちにやって欲しいわけだ。

「なるほどね。得ちゃんにしては回りくどい搦め手だわ」

 聡明な翠さまも、得さんが司午家に期待していることを察した。
 そして私に、こう命じたのだ。

「白髪部(はくはつぶ)の新しい大統は突骨無(とごん)って人だったわよね。手紙を書くから央那も手伝いなさい。顔見知りなんでしょ?」
「は、はいっ、かしこまりました!」

 翠さまのお名前のもとに。
 私たちは敢えて、斗羅畏さんの敵になるかもしれない、突骨無さんと接触を図る。
 突骨無さんがなにか、無茶無謀を通そうとしているのだとしても。

「昂国皇帝の御子を宿している翠蝶貴妃殿下の取り成しなら、突骨無も無視するわけにはいかねえか……」

 呟いて椿珠さんは。誰に命じられるまでもなく、忙しそうに部屋を出る。
 突骨無さんや白髪部への挨拶の品々を用意してくれるのだろう。

「争いは、回避できるかもしれない」

 私の希望的観測を、翠さまは部分的に否定した。

「できるかもじゃなくてやるのよ。夢の中のあたしにはできたんだから」

 ああ、翠さまは。
 夢の中できっと、私よりもアグレッシブに、北方を旅していたんだろうなあ。
 もう、さすがとしか言いようがねえよ、うちのご主人さまは。
 
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