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第十八章 雪解けと若芽
百六十二話 翠蝶が通る
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ときは春、春は朝。
庭の木々は露に満ち、カタツムリが枝を這い、ヒバリの鳴き声が可愛らしく主張する、そんなのどかな司午(しご)屋敷、その日に。
「まさか、このような手をあらかじめ打たれているとは……」
突然に暴れ出した、翠(すい)さま。
異常な様子の翠さまに飛びかかられたのをとっさに避けて、百憩(ひゃっけい)さんが悔しげに呻いた。
「ななな、なにが起きてるんですか一体?」
驚く私と。
「……なにものかに、操られているのか?」
翠さまの様子を瞬時に観察し、あり得そうな推測を口にする翔霏(しょうひ)。
歯噛みしながらそれに答えた百憩さんの説明は。
「外から他者が解呪を施そうとしたときに、それを阻害する術式があらかじめ仕込まれていたようです。意識の本当に奥深くに隠されていたのでしょう、不覚にも拙僧は気付けませなんだ」
「おのれごときに邪魔されてたまるものか。わしらがこの娘を眠らせるためにどれだけ手間をかけたと思っている」
冷たく、重く翠さまの口を借りた「誰か」が言った。
「なにもこの娘を殺そうとしているわけではないのだ。貴様らは指を折りながら気長に目覚めの日を待っておればいいものを。余計なことをしたせいでほれこのとおり」
呪いに縛られた翠さまの手が、寝台の横に置かれた立派な花瓶を、軽々と持つ。
それを大きく振りかぶって、百憩さんの頭頂部に喰らわせようと振り下ろした、そのとき。
「貴妃どの」
「ごめんっ」
ブオン、と空気が揺れた。
翔霏が二人に分身したのだ。
一人は翠さまの上半身を後ろから羽交い絞めにして、もう一人は翠さまの太腿あたりにタックルを仕掛けるように腕で抑えた。
「怪我をさせずに長い時間を抑えるのは無理だ! 今のうちになにか考えろ!!」
呆けている百憩さんに、翔霏が叫ぶ。
広い場所でなかったり、まだ明るい時間であったりと、様々な要件が重なって二体にしか分身できなかったのか。
もしくは翠さまの体を傷つけないように制圧するためには、精密な力加減が必要になるために、多く分身しない方が良いと判断したのかも。
とにかく長い時間、翔霏が翠さまを安全に押さえ続けるのは難しいようで、私たちは別の対処法をすぐさま考えなければいけない。
状況は、そうなっているのだけれど。
「んなっ……!?」
武術と制圧術の達人である翔霏に、体を戒められながらも。
「小賢しい真似を。この亥(いのしし)の娘に宿る力を甘く見ているのか」
身体の上下を二人がかり? で固められているのにもかからわず、翠さまの体はずい、ずいとゆっくり、しかし確実に前に進んでいる。
翔霏も信じられないと言った顔で、なすがままに引きずられてしまっていた。
体力とか筋力とかでは説明のつかない、まさに猪突するがごとき強さと気迫で、翠さまの体はへたり込んでいる百憩さんへと近付いて行く。
「腕が使えなくとも歯がある。固く厚い頭蓋の骨がある。一人や二人の痩せた坊主を始末するには十分よ」
ぐわあ、と大口を開ける。
百憩さんの喉笛を噛みちぎろうとでも言うのか。
それがダメだとしても、渾身の頭突きをぶちかますつもりなのかもしれない。
「な、なんて力だ……! かくなる上は……!」
最後の手段が頭に浮かんでいることを、翔霏の顔から私は読み取る。
足の関節を折るか外しかして、翠さまの前身を物理的に止めようとしているのだ。
しかし、さすがにそんなことを翠さま相手に簡単にできようはずもなく、苦悶と迷いが翔霏の中でせめぎ合っている。
みんな、頑張っているのに、私は。
私が一番、翠さまの力にならなければいけないのに。
ここで竦んで、なにもできないままでいいのか!?
神台邑(じんだいむら)を焼かれたときに、なにもできずに泣いていただけの、役立たずの臆病者のままでいいのか!?
「翠さまーーーーーっ!!」
私は翔霏の分身を引きずりながら力強く歩く翠さまめがけて突進し。
そのお身体を、真正面から抱き締めた。
むぎゅう、と全力ハグを試みた私の、肩の肉を。
「邪魔だ小童」
がぶぅ、と翠さまの口が、歯が、ためらいもなく噛んだ。
「あんギィ!!」
幸いにも頸動脈なんかに傷は付かなかったと思うけれど。
昂国(こうこく)八州(はっしゅう)に流れ着いて、北方の草原までもいろいろと旅をして。
大小あちこちに負った、今までのどの傷よりも。
一番、今のが、痛い!!
「ギギギィ、負けるもんか、へっちゃらだい、全然痛くないもんねー!!」
私は強がりを口にして、自分を鼓舞する。
いや、痛いけれどさ。
でもこれは、翠さまがくれた傷。
一心同体にも、魂の双子にも思えた翠さまが、はじめて私の身体に刻んだ痛み。
だから。
「泣かないもん! 哀しくないもん! 翠さまがお目覚めしてくれるなら、こんなの傷の内に入らないし!!」
涙よ、どうか溢れてくれるな。
私の声よ、叫びよ。
「いつまで寝ぼけてるんですか、翠さまぁーーーーーーーーッ!!」
翠さまの心に、届け!
呪いなんかに負けないで!
あなたはそんなに弱い女じゃないはずだ!!
「早く起きないと、顔にヒゲとか落書きしちゃうんだからーーーーッ!!」
目を固く閉じて、腹の奥底から。
私はありったけ叫び、全力で翠さまを抱きしめる。
体中が焼けるように熱くなっていることを感じた、そのとき。
「ひ、光が、二人を……」
寝台の脇にいる玉楊さんが、弱弱しく呆けるように言った。
視力が薄弱であっても、光は捉えられるという場合は多く、彼女もそうなのかもしれない。
毛蘭(もうらん)さんと翔霏も、息を飲んで見守ってくれているのが、音と空気の感じだけでもわかった。
私の肩肉に歯を立てていた翠さまが、ふっと力を抜き、口を離す。
「やはり央那さん、あなたは……」
百憩さんがなにか言っているけれど、どうでもいい。
だって。
私が目を開けた、そのすぐ近くに。
「……あたしいったいなにをしてるの?」
眠りから覚め、ぱっちりとお目眼を開けた翠さまのお顔が、あったのだから。
こみ上げる涙を必死でこらえて、私は言う。
翠さまがお目覚めになったときに、まず真っ先に、私が言うのだと決めていた言葉を。
涙なんて伴わずに言いたいと、ずっと思っていたからだ。
「おはようございます、翠さま。よく眠れましたか?」
「どうかしら。長い夢を見ていた気がするわ」
暴れて乱れてしまった翠さまの髪。
私は手櫛でそれをぱささっと整えて、こう言った。
「夢の内容を、当てて見せましょうか」
「良いわよ。言ってごらんなさいな」
「翠さまが私になって、後宮の小間使いをしたり、北方を旅をする夢でしょう」
私の回答を聞いた翠さまは、きょとんと驚いたのち、すぐに泣き笑いの顔になって。
「やっぱりあんたはなんでもわかるのね」
ぎゅうう、と私をハグして、ひっくひっくと泣いた。
「あたしのせいでまたみんなが大変な思いをしちゃったわ。あたしはどれだけ間抜けなご主人さまなの」
呪いに眠らされていた翠さまだけれど。
そもそも頭も勘も良い人である。
この状況がなにを示しているか、自分がどうなっていたのかを、おぼろげながらも理解したに違いない。
私は。
翠さまのせいなんかじゃありませんよ、と言おうとして、その言葉を引っ込めた。
代わりに言った言葉は、本当の、私の心からの正直な気持ちで。
「翠さまのためなら、翠さまのせいなら、地獄だって楽しく行けちゃいますよ」
むぎゅむぎゅ、ナデナデ、さすさすと、たっぷり翠さまと愛しい抱擁を交わし、私は続けた。
「私は、翠さまの身代わり侍女ですから。翠さまのために、翠さまの代わりに、なんだってしちゃうんです。辛いことなんて、これっぽっちもありゃしません」
「でもでもこの傷だってあたしが……」
ぺろ、ちゅ、と翠さまが私の肩の噛み痕を優しく舐め、吸う。
ジンジンして痛過ぎて気が遠くなりそうだけれど、私はにへらと笑って答えた。
「あの翠蝶(すいちょう)貴妃殿下に噛まれた痕なんですって言えば、どこに行っても大受けですよ。鉄板の滑らないネタをありがとうございます」
「やっぱりあんたはおかしな子だわ」
二人ともすんすんと泣きながら笑って、私たちは何度も抱擁を重ねた。
「あたしなんでこんなもの持ってるのかしら?」
途中で翠さまが、手にしているゴツい花瓶を気にした。
それを皮切りに、翔霏も、百憩さんも。
「くっくく……」
「ははは、いやいや、これはなんとも」
毛蘭さんも、玉楊さんも。
「良かった、本当に良かったわ……」
「翠蝶、目覚めの気分はどう?」
みんな、揃って笑った。
騒動はあっと言う間に起こり、あっという間に過ぎ去ったのだ。
半分の月が昇る、晩春の夕刻。
「あれ、ヒメさんひょっとして起きてる?」
到着した軽螢(けいけい)が、屋敷に流れる空気が変わったことを敏感に悟る。
いつの間にか悪い呪いが消し飛んでいたことが、呪術を身に着けている彼にはわかったのだろう。
「そりゃめでたいな。おい巌力(がんりき)、宴会の用意だ」
「貴妃のお身体に触るようなことは、如何かと存じますが」
同じく訪れた椿珠(ちんじゅ)さんを、巌力さんが窘めながら迎えてくれた。
「メエエエエエエエ」
良いことがあったのだと分かっているように、ご機嫌でヤギが鳴く。
「うわ、また来たのかいこのヤギ。邑(むら)にいてその辺の草でも食ってろよな」
想雲(そううん)くんが不本意そうに、その相手をしている。
玄霧(げんむ)さんは、祖先を祭る祭壇に今もなお、解呪成功の感謝の祈りを捧げていた。
我らの貴きご主人、翠蝶さまはこうして、お腹の子とともに健康のまま、長い眠りから覚めたのだった。
色々と難しいこと、ややこしいこと、厄介な問題は外に沢山あるけれど。
「まったく、負ける気がしないね」
最高のご主人が復活した私にとって、すべてが小さく、チンケなことのように思えた。
庭の木々は露に満ち、カタツムリが枝を這い、ヒバリの鳴き声が可愛らしく主張する、そんなのどかな司午(しご)屋敷、その日に。
「まさか、このような手をあらかじめ打たれているとは……」
突然に暴れ出した、翠(すい)さま。
異常な様子の翠さまに飛びかかられたのをとっさに避けて、百憩(ひゃっけい)さんが悔しげに呻いた。
「ななな、なにが起きてるんですか一体?」
驚く私と。
「……なにものかに、操られているのか?」
翠さまの様子を瞬時に観察し、あり得そうな推測を口にする翔霏(しょうひ)。
歯噛みしながらそれに答えた百憩さんの説明は。
「外から他者が解呪を施そうとしたときに、それを阻害する術式があらかじめ仕込まれていたようです。意識の本当に奥深くに隠されていたのでしょう、不覚にも拙僧は気付けませなんだ」
「おのれごときに邪魔されてたまるものか。わしらがこの娘を眠らせるためにどれだけ手間をかけたと思っている」
冷たく、重く翠さまの口を借りた「誰か」が言った。
「なにもこの娘を殺そうとしているわけではないのだ。貴様らは指を折りながら気長に目覚めの日を待っておればいいものを。余計なことをしたせいでほれこのとおり」
呪いに縛られた翠さまの手が、寝台の横に置かれた立派な花瓶を、軽々と持つ。
それを大きく振りかぶって、百憩さんの頭頂部に喰らわせようと振り下ろした、そのとき。
「貴妃どの」
「ごめんっ」
ブオン、と空気が揺れた。
翔霏が二人に分身したのだ。
一人は翠さまの上半身を後ろから羽交い絞めにして、もう一人は翠さまの太腿あたりにタックルを仕掛けるように腕で抑えた。
「怪我をさせずに長い時間を抑えるのは無理だ! 今のうちになにか考えろ!!」
呆けている百憩さんに、翔霏が叫ぶ。
広い場所でなかったり、まだ明るい時間であったりと、様々な要件が重なって二体にしか分身できなかったのか。
もしくは翠さまの体を傷つけないように制圧するためには、精密な力加減が必要になるために、多く分身しない方が良いと判断したのかも。
とにかく長い時間、翔霏が翠さまを安全に押さえ続けるのは難しいようで、私たちは別の対処法をすぐさま考えなければいけない。
状況は、そうなっているのだけれど。
「んなっ……!?」
武術と制圧術の達人である翔霏に、体を戒められながらも。
「小賢しい真似を。この亥(いのしし)の娘に宿る力を甘く見ているのか」
身体の上下を二人がかり? で固められているのにもかからわず、翠さまの体はずい、ずいとゆっくり、しかし確実に前に進んでいる。
翔霏も信じられないと言った顔で、なすがままに引きずられてしまっていた。
体力とか筋力とかでは説明のつかない、まさに猪突するがごとき強さと気迫で、翠さまの体はへたり込んでいる百憩さんへと近付いて行く。
「腕が使えなくとも歯がある。固く厚い頭蓋の骨がある。一人や二人の痩せた坊主を始末するには十分よ」
ぐわあ、と大口を開ける。
百憩さんの喉笛を噛みちぎろうとでも言うのか。
それがダメだとしても、渾身の頭突きをぶちかますつもりなのかもしれない。
「な、なんて力だ……! かくなる上は……!」
最後の手段が頭に浮かんでいることを、翔霏の顔から私は読み取る。
足の関節を折るか外しかして、翠さまの前身を物理的に止めようとしているのだ。
しかし、さすがにそんなことを翠さま相手に簡単にできようはずもなく、苦悶と迷いが翔霏の中でせめぎ合っている。
みんな、頑張っているのに、私は。
私が一番、翠さまの力にならなければいけないのに。
ここで竦んで、なにもできないままでいいのか!?
神台邑(じんだいむら)を焼かれたときに、なにもできずに泣いていただけの、役立たずの臆病者のままでいいのか!?
「翠さまーーーーーっ!!」
私は翔霏の分身を引きずりながら力強く歩く翠さまめがけて突進し。
そのお身体を、真正面から抱き締めた。
むぎゅう、と全力ハグを試みた私の、肩の肉を。
「邪魔だ小童」
がぶぅ、と翠さまの口が、歯が、ためらいもなく噛んだ。
「あんギィ!!」
幸いにも頸動脈なんかに傷は付かなかったと思うけれど。
昂国(こうこく)八州(はっしゅう)に流れ着いて、北方の草原までもいろいろと旅をして。
大小あちこちに負った、今までのどの傷よりも。
一番、今のが、痛い!!
「ギギギィ、負けるもんか、へっちゃらだい、全然痛くないもんねー!!」
私は強がりを口にして、自分を鼓舞する。
いや、痛いけれどさ。
でもこれは、翠さまがくれた傷。
一心同体にも、魂の双子にも思えた翠さまが、はじめて私の身体に刻んだ痛み。
だから。
「泣かないもん! 哀しくないもん! 翠さまがお目覚めしてくれるなら、こんなの傷の内に入らないし!!」
涙よ、どうか溢れてくれるな。
私の声よ、叫びよ。
「いつまで寝ぼけてるんですか、翠さまぁーーーーーーーーッ!!」
翠さまの心に、届け!
呪いなんかに負けないで!
あなたはそんなに弱い女じゃないはずだ!!
「早く起きないと、顔にヒゲとか落書きしちゃうんだからーーーーッ!!」
目を固く閉じて、腹の奥底から。
私はありったけ叫び、全力で翠さまを抱きしめる。
体中が焼けるように熱くなっていることを感じた、そのとき。
「ひ、光が、二人を……」
寝台の脇にいる玉楊さんが、弱弱しく呆けるように言った。
視力が薄弱であっても、光は捉えられるという場合は多く、彼女もそうなのかもしれない。
毛蘭(もうらん)さんと翔霏も、息を飲んで見守ってくれているのが、音と空気の感じだけでもわかった。
私の肩肉に歯を立てていた翠さまが、ふっと力を抜き、口を離す。
「やはり央那さん、あなたは……」
百憩さんがなにか言っているけれど、どうでもいい。
だって。
私が目を開けた、そのすぐ近くに。
「……あたしいったいなにをしてるの?」
眠りから覚め、ぱっちりとお目眼を開けた翠さまのお顔が、あったのだから。
こみ上げる涙を必死でこらえて、私は言う。
翠さまがお目覚めになったときに、まず真っ先に、私が言うのだと決めていた言葉を。
涙なんて伴わずに言いたいと、ずっと思っていたからだ。
「おはようございます、翠さま。よく眠れましたか?」
「どうかしら。長い夢を見ていた気がするわ」
暴れて乱れてしまった翠さまの髪。
私は手櫛でそれをぱささっと整えて、こう言った。
「夢の内容を、当てて見せましょうか」
「良いわよ。言ってごらんなさいな」
「翠さまが私になって、後宮の小間使いをしたり、北方を旅をする夢でしょう」
私の回答を聞いた翠さまは、きょとんと驚いたのち、すぐに泣き笑いの顔になって。
「やっぱりあんたはなんでもわかるのね」
ぎゅうう、と私をハグして、ひっくひっくと泣いた。
「あたしのせいでまたみんなが大変な思いをしちゃったわ。あたしはどれだけ間抜けなご主人さまなの」
呪いに眠らされていた翠さまだけれど。
そもそも頭も勘も良い人である。
この状況がなにを示しているか、自分がどうなっていたのかを、おぼろげながらも理解したに違いない。
私は。
翠さまのせいなんかじゃありませんよ、と言おうとして、その言葉を引っ込めた。
代わりに言った言葉は、本当の、私の心からの正直な気持ちで。
「翠さまのためなら、翠さまのせいなら、地獄だって楽しく行けちゃいますよ」
むぎゅむぎゅ、ナデナデ、さすさすと、たっぷり翠さまと愛しい抱擁を交わし、私は続けた。
「私は、翠さまの身代わり侍女ですから。翠さまのために、翠さまの代わりに、なんだってしちゃうんです。辛いことなんて、これっぽっちもありゃしません」
「でもでもこの傷だってあたしが……」
ぺろ、ちゅ、と翠さまが私の肩の噛み痕を優しく舐め、吸う。
ジンジンして痛過ぎて気が遠くなりそうだけれど、私はにへらと笑って答えた。
「あの翠蝶(すいちょう)貴妃殿下に噛まれた痕なんですって言えば、どこに行っても大受けですよ。鉄板の滑らないネタをありがとうございます」
「やっぱりあんたはおかしな子だわ」
二人ともすんすんと泣きながら笑って、私たちは何度も抱擁を重ねた。
「あたしなんでこんなもの持ってるのかしら?」
途中で翠さまが、手にしているゴツい花瓶を気にした。
それを皮切りに、翔霏も、百憩さんも。
「くっくく……」
「ははは、いやいや、これはなんとも」
毛蘭さんも、玉楊さんも。
「良かった、本当に良かったわ……」
「翠蝶、目覚めの気分はどう?」
みんな、揃って笑った。
騒動はあっと言う間に起こり、あっという間に過ぎ去ったのだ。
半分の月が昇る、晩春の夕刻。
「あれ、ヒメさんひょっとして起きてる?」
到着した軽螢(けいけい)が、屋敷に流れる空気が変わったことを敏感に悟る。
いつの間にか悪い呪いが消し飛んでいたことが、呪術を身に着けている彼にはわかったのだろう。
「そりゃめでたいな。おい巌力(がんりき)、宴会の用意だ」
「貴妃のお身体に触るようなことは、如何かと存じますが」
同じく訪れた椿珠(ちんじゅ)さんを、巌力さんが窘めながら迎えてくれた。
「メエエエエエエエ」
良いことがあったのだと分かっているように、ご機嫌でヤギが鳴く。
「うわ、また来たのかいこのヤギ。邑(むら)にいてその辺の草でも食ってろよな」
想雲(そううん)くんが不本意そうに、その相手をしている。
玄霧(げんむ)さんは、祖先を祭る祭壇に今もなお、解呪成功の感謝の祈りを捧げていた。
我らの貴きご主人、翠蝶さまはこうして、お腹の子とともに健康のまま、長い眠りから覚めたのだった。
色々と難しいこと、ややこしいこと、厄介な問題は外に沢山あるけれど。
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