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第四章 皇城の泡沫(うたかた)

二十八話 中書堂で出会うのは書か人かそれとも

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 朱蜂宮(しゅほうきゅう)の正門を出て南東に100メートルほど歩く。
 昂国最高の文士と書物、それの叡智が集積する中書堂(ちゅうしょどう)は、静かに厳かに建っている。
 建物そのものの役割は図書館兼事務所兼会議室と言ったものだ。
 人が出入りするのに特に制限はない。

「どのようなご用向きでしょうか」

 入ると若手官僚や書生さんで手の空いた人が応対してくれる。
 今日は若いのに顎鬚を長く垂らした、仙人気取りの書生さんが相手をしてくれた。
 特に決まった司書係や受付係はいないようだ。
 たまたまそのタイミングで入り口の近くにいた人が、なんとなく来客の相手をするというのが、習慣になっているのかな。

「翠蝶(すいちょう)貴妃殿下の部屋で下働きをしているものです。お勉強のために本を借りたいと思いまして」

 うん、なにひとつ嘘は言っていないぞ。
 私が個人の事情で読書をしたいのか、翠さまの下で働くために必要な読書をしたいのか、そんなことはわざわざ口に出さない。
 相手が私の発言をどう受け取るかまでは、私の知ったことではないのだ。
 翠さまの名前を出したのが功を奏したのか、若仙人はフムフムと納得したように頷き。 

「どのような書をお探しか教えていただければ、小官がお手伝いいたしますが」
「ありがとうございます。ぜひお願いします」

 一応、ただの書生さんではなく、官職にある役人さんのようだ。
 帽子をかぶっていないのでわからなかった。
 私は彼の助力で、水銀や硫黄、ヒ素などの毒性鉱物に関する本を入手することができた。

「虫よけや肥料、防腐剤に役立つと聞きまして」

 なんて言い訳をしながら。
 しかし。

「北の戌族(じゅつぞく)に関するめぼしい資料は、先ほど別のものが持って行ってしまいましたな」
「そうですか。残念」

 一番欲しい本は、借りられ中であった。
 私は力を貸してくれた仙人ヒゲの若手官僚さんに丁重にお礼を言って。
 さて帰ろうか、もう少し中書堂を探検しようか、考える。

「百憩(ひゃっけい)さん、なんか得体が知れなくて苦手なんだよな」

 先日の葬儀に当たって、沸教のお坊さん、百憩さんの力を大いに借りた。
 自分を「未熟な学僧」なんて言っていたから若手の僧侶なのかと思いきや、実に経験豊富そうに堂々としていて、葬儀の細々とした対応も見事なものだった。
 そのおかげで翠さまが楽できたのは事実だ。
 中書堂に足を運んだ手前、挨拶がてら改めてお礼を述べるのも、渡世の義理であろう。
 しかし私は百憩さんを見ていると、どうも気持ちが不安定になり、落ち着かない。
 若いのか若くないのか謎なうえに、手も首筋もほっそりとしていて胸板も薄い、中性的な妖しさがあるからだろうか。

「これも偏見なのかな。まあいいや、ご機嫌伺いくらいはしてから帰ろう」

 するかしないか迷っているなら、した方がいい。
 私は初夏の焼かれた邑の真ん中で、そう決断したはずだった。
 したことへの後悔は反省と事後対処ができるけど、しなかった後悔は、取り戻せないのだから。
 そう思って、百憩さんのいる三階への階段を登り始めたときだった。

「ヒィ、ヒィ。重い。いったい全体、誰やねんな、こんな急な階段をこさえたアホは」

 大量の書物を抱えて、中書堂名物の急角度階段を登れず、立ち往生しているバカがいた。
 階段に文句を言う前に、重いなら一冊ずつ運べばいいだろうに。
 横着するから痛い目を見るんだよ。

「手伝いますよ」

 哀れな愚か者に貸す些細な力くらいなら、私にもある。
 彼の持っていた本の山から半分を奪い取り、私は階段を登った。
 本はそれほど重くなかったので、コイツの体力がどれだけ低いかという話である。

「おおきに、おおきに。いやあ助かったわあ。このまんま、行くも帰るもようせんうちに、ここで往生するとこやった」

 体力のないバカ男は、屈託のない笑顔で言った。 
 白髪交じりの頭に、同じく白髪交じりの口髭を生やした、コイツもコイツで年齢不詳の優男である。
 本ばっかり読んでるから、なまっちろいし体力がつかないんだよと、私は自分を棚に上げて思う。
 もっとも、もやしっ子の私だったけど、神台邑(じんだいむら)での農作業と、後宮での雑務庶務のおかげで、すっかり逞しくなってしまったよ。

「どういたしまして。では、私はこれで」

 百憩僧人のデスクへ向かおうとする私を、若白髪のヒョロガリ男は呼び止めて。 

「助けてもろてなんなんやけど、僕の机、五階なんや。頼めるやろか?」
「えぇー」

 結局私は断りきれずに、中書堂のキツイ階段を五階まで登って、バカの机に書物を置く羽目になった。
 さすがに五階まで運ぶと、けっこう疲れた。

「堪忍なあ、嬢ちゃん。冷たいお茶とお菓子を持ってくるさかい、一休みしてってや」
「はあ」

 これもひょっとすると新手のナンパではなかろうかと思ったけど、お菓子は欲しいので素直に饗応を受ける。
 先に声をかけたのは私の方からだし、この男性から、いやらしさが全く感じられなかった。
 私に男を見る目があるわけじゃないけど、邪念や、がっついた勢いはかけらも感じられない。
 まるで老人を、親戚の年とったおじちゃんやお爺ちゃんを相手にしているような、不思議な気持ちである。
 ふー、とお互いに茶で喉を湿らし一息ついて、貧弱バカ男は頭を下げた。

「僕、除葛(じょかつ)言うねん。名前は姜(きょう)や。本当にありがとうな、おかげで助かったわ。嬢ちゃんは?」

 除葛、姜と彼は名乗った。
 除、葛姜ではないらしい。
 葛(くず)を除く、という姓か。
 神台邑で雑草を夢中で食べていたヤギのことを思い出してしまい、私は努めて追憶をシャットアウトする。

「私は後宮の西苑(さいえん)に侍女として仕えている、麗と申します。下の名前は央那(おうな)です」
「変わったお名前やね。どちらの奥さまのとこで働いとるん?」

 お茶の席での世間話だろうけど、除葛書生は質問を重ねて来た。
 暗くなる前に百憩さんに挨拶して、さっさと帰りたいんだけどな。
 階段で助けないで、放置すればよかったと後悔しながら、私は答える。

「司午(しご)翠蝶(すいちょう)貴妃殿下のお部屋で、下働きをしております」
「わあ角州(かくしゅう)、司午本宗家の貴妃さまかいな。いやあ、それは大変なお勤めやろなあ。ご苦労さまです」

 私ごときを、なにか偉い人でもあるかのように、除葛書生は頭を下げながら言った。
 うう、なんか、くすぐったいな?
 偉いのは翠さまであって、私は一介の侍従でしかないのだから。

「い、いえ、そんな。それほどでも。私は誠心誠意、日々のお勤めを果たすだけです」

 照れくさくて除葛書生の眼を見れない私は、視線を泳がせて、ふと。
 私が半分以上を運んで彼の机に置いた、書籍の表紙書きを見て。

「北方国境の軍事記録と、戌族に関する本ですか」

 私が借りようとしていた本を、除葛書生が先に借りていたのを知るのだった。
 戌族が、覇聖鳳(はせお)たちが、どのように暮らし、生きて、そしてどんな動乱や戦争を起こしてきたのか。
 それが記録されている資料は、私が今、喉から手が出るほどに欲しい、一級のお宝である。
 うう、貸して欲しいなあ。

「せやせや、僕は南の方で働いとったんやけど、秋から北辺に行くことになってしもてな。その前に中書堂に寄り道して、調べ物のために机を貸してもろたんや」
「北に赴任する途中で立ち寄った、ということですね」

 どうやら除葛さんは、皇都である河旭城より南の州で働いていたお役人さんであるらしい。
 転任の辞令があって北の国境沿いに配置換えになるので、戌族のことを改めて調べ直してるんだな。
 要職にあるかどうかは知らないけど、軍事的に緊張状態にある北辺に転任になるということは。
 こう見えて結構「デキる」人なのかもしれない。

「そう言うこっちゃ。中書堂もなんや久し振りに来たけど、そんときの知り合いはみんな偉くなってここを出てしもて、すっかり様子が変わったわ。ま、十年以上も経てばそうなるわな」

 若く見えるけど、それなりに年齢は重ねているらしい。
 まばらに混じる白髪に相応した、ベテランのお役人さんのようだ。

「大変なお務めでしょうけど、どうか北辺をよろしくお守りください」

 私はこの人を軽く見ていた気持ちを反省し、敬意を持って頭を下げた。
 玄霧(げんむ)さんの手紙には、私が来た翼州(よくしゅう)と、その東隣の角州の防衛規模を高める、とあった。
 その二州は北の境界で戌族の領域と接している。
 奴らがこの昂国(こうこく)を荒らしに来るなら、真っ向から受けて立つぞ、という軍事外交上の意思表示だ。
 その動きの中に、彼、除葛さんもいるのだと思うと、私の中で勝手に仲間意識が芽生えて来た。

「いやいやそんな、嬢ちゃんが頭を下げなあかんこたあないよ。僕なんか屁でもない作戦屋や。前線で頑張ってる将兵さんのが、よっぽど大変やねん」

 除葛さんは自分を卑下して、作戦屋、と言った。
 文字通り作戦を考える仕事に就いている役人さんだろう。
 ん?
 でも、それって。
 皇都のブレーン、シンクタンクである中書堂に、十年以上前に出入りしていて。
 北の政局が厳しくなったこの時期に、わざわざ遠い南の州から、最前線に赴けと言う辞令を出されて。
 ひょっとしてこの人、軍師とか参謀とか言われるレベルの人じゃないの!?
 私が驚いて言葉を繋げないでいるのを、どう思っているのか。
 あくまでも知らぬ顔で、しみじみと除葛軍師は語る。

「でも、そう思てくれてる子が都(みやこ)にいてるってことは、行った先の翼州で、ちゃんと伝えさせてもらうわ。嬢ちゃんみたいな可愛い子が応援してくれるなんて知ったら、みんな勇気百倍やでっ」

 子供のような若々しい笑顔で、除葛軍師はそう言うのだった。
 私は胸いっぱい感無量になってしまい、やめろと言われているのに、頭を下げることしかできなかった。
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