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丙の巻 草原の群狼

参ノ弐 勝負、男たちの昼下がり

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 相撲で一回、弓矢による小動物の狩りで一回、そして馬に乗った長距離レースで一回。
 三種類の競技で勝敗を決しようではないか、というのが倭吽陀(わんだ)の言い分であるらしい。

「最初は相撲からでいいな。言うまでもないが、足の裏以外が地に着いたほうの負けだ」

 包屋(ほうおく)の外、まだうっすらと雪が残っていたり、溶けて地面が見えていたりする野っぱら。
 靴を脱いで裸足になった斗羅畏(とらい)が、湿った地に屹立して宣言した。

「お、おうっ! できらぁーっ!!」

 こうなってはもう引っ込みがつかないので、倭吽陀も靴を脱いで応じる。
 おかしなことになった、とは斗羅畏も思ってはいない。
 覇聖鳳(はせお)の遺族に会うということは、子に会う流れになるのも当然。
 子どもの言動が行き当たりばったりなことくらい、斗羅畏にも分かっている。
 そう言うこともすべてひっくるめて、自分はこの地を受け継いだのだ。
 逃げて避けて通るという選択肢は、斗羅畏の中には存在すらしなかった。

「いくぞー、いいんだなー、にげるならいまのうちだぞー?」
「早く来い」

 中腰になって倭吽陀と目線を合わせ、立ち合いを構える斗羅畏。
 毛ほども油断してくれる気配がない。
 しかし、倭吽陀にも秘策があった。

「でりゃあー! どっすこーい!」

 元気な掛け声とともに、駆け出す倭吽陀。
 手には、さっき靴を脱ぐときに握っておいた、泥の塊が隠されている。
 張り手に見せかけてびゅんと手を振った倭吽陀は、斗羅畏へ泥による目潰しを仕掛けたのだ。
 どうやら斗羅畏は片目を怪我しているらしく、開いている方の目さえ汚してくらませば、勝機は得られる。
 倭吽陀は彼なりに、破れかぶれではなく考えて戦っていた。

「ふっ」

 しかし、斗羅畏は一瞬だけ目を閉じて、泥が眼球に入るのを防いだ。
 そのとき、少しだけ笑っていた。
 さすが、あの親にしてこの子ありだなと思ったのである。
 斗羅畏の片目を負傷させたのは、父である覇聖鳳なのだから。

「よいしょー! うんしょー!」

 一瞬とは言え、目を閉じて倭吽陀を見失ってしまった斗羅畏。
 その短い間に小さな敵はいつの間にか、自分の横側面から足腰に絡みついていた。
 片足を引っかけて転ばせられれば勝てる競技なので、狙いは悪くない。
 もっとも、子どもと大人の体格差、筋力差、経験の差はどうしたって残酷なものだ。
 地面に踏ん張る斗羅畏を転ばせられるだけの技術は、倭吽陀には備わっていなかった。

「ぬんっ」
「うぎぃっ!」

 斗羅畏は「のど輪」と呼ばれるような、掌で相手の喉首を押す突っ張りの一種で密着していた倭吽陀の身体を引き離す。
 わずかに開いた間合いを上手く使い、倭吽陀の腰帯をしっかりと握った。
 そのまま流れるように、投げを打つために腕と足腰を連動させ、回した。
 右からの下手投げ、というものだろう。
 騎馬民族の壮健な男子が相撲の熟達者であることは、洋の東西を問わないのである。

「あぎゃっ」

 斗羅畏の足腰を支点に綺麗にくるりと回った倭吽陀の身体が、見事に背中から地面に落ちた。
 勝負がつく瞬間、倭吽陀が自分の後頭部を左手で庇っていたのを斗羅畏は見逃さなかった。
 頭も良く、勘も鋭く、勝負への執念も強い。

「どこか痛むところはあるか」

 倭吽陀の身体を引き起こしてやり、服に着いた泥や砂をぱらぱらと叩き落としながら、斗羅畏が聞く。

「ぜ、ぜーんぜん、いたくないもんなー! とらいはたいしたことねーなー!?」

 涙と鼻水を滲ませながら、倭吽陀が減らず口を叩いた。
 普段は気の抜けていた父の覇聖鳳よりも。
 ひょっとすると、輪をかけて激しく烈しい男に成長するかもしれないな。
 斗羅畏はいつか来る日を思って、楽しげに微笑した。
 ともあれ、最初の相撲の勝負は誰がどう見ても、順当に斗羅畏の勝利で終わったのだった。

 「あっちのおかに、ウサギとかキツネのすがあるんだ。かりごっこするときは、よくそこでやるんだ。タヌキはまぬけだから、しとめてもえらくないんだ」

 気を持ち直した倭吽陀が、二戦目の勝負の場所へと斗羅畏を誘う。
 重雪峡(じゅうせつきょう)の平地と崖地の入り組んだ合間に、小さい山、丘のように出っ張った箇所がある。
 倭吽陀は立派に馬に乗って先導し、目的の地点まで斗羅畏を連れるために出発した。
 
「ところで倭吽陀、お前、今年でいくつになった」

 道中、なにげない質問が斗羅畏から倭吽陀に投げかけられる。

「えーと、なな! じゃなくて、はち!」
「そうか」
「にいちゃんも、いもうとも、はち! おそろい!」
「三つ子なら、そうだろうな」
「とらいはのとしは、どれだけだー?」
「俺は今年で二十六だ」

 そう言われて倭吽陀は、自分の指を何度も折り重ねて。

「かあちゃんと、おんなじ、くらいか……?」

 自信なさそうに言った。

「邸瑠魅の歳なんぞ知らん」
「かあちゃんはなー、とうちゃんより、としがちっちゃいんだ」
「そうなのか」

 斗羅畏は覇聖鳳の年齢までを詳しく知らないが、会った記憶から三十歳前後だろうと思っている。
 邸瑠魅は服と頭巾で体を厚く覆っていたので、若いのかそうでないのかもわからない。
 会話した第一印象で、姉さん女房なのかとも思っていたが、違うらしい。
 首をひねりながら、倭吽陀が続きの、彼なりに気になることを話す。

「でもなー、とうちゃんはもうしんじゃったから、としをとらないんだ。かあちゃんのほうが、としがおっきくなっちゃうのか?」
「それは……」

 斗羅畏に答えることはできなかった。
 故人があの世で年齢を重ねるかどうかなど、知らない。
 死んだ時点で時間が止まるのであれば、生者である自分たちがいずれ覇聖鳳の享年を追い越す。
 しかし、死んだ人間は歳を取らないなどと、誰が決めたのだろうか?
 あの世に行って、死者に会って実際に確かめたものなど、いるはずもないのに。
 
「わからん、俺には」
「そっかー、とらいにもわからないのかー」

 斗羅畏は、子どもが相手であっても、わからないことを素直に認められる男だった。

「このへんで、いいとおもう!」

 少しばかり馬で移動した程度の近場に、二戦目のフィールドである丘は存在した。
 冬から春を跨ぐ季節である。
 人が分け入って動物を脅かせば、雪庇に隠れた巣穴から狐だの兎だの、狸だの山鼠だのが、ひょっこりと出てくるだろう。
 すでに近隣のものが先に狩りを楽しんだ形跡があり、雪の薄くなった丘陵に点々と人や獣の足跡が見られた。

「よし。矢はお互い、五本ずつだったな」
「おう! ごほんもあれば、おれならやまほどしとめちゃうなー! とらいがしくじったら、わけてやるからあんしんしろ!」

 どこまでも調子のいいことを言う小僧である。
 ずむっ、しゃくっ、と雪原を踏みしめながら、倭吽陀がいっぱしに弓を構えて丘を登り始めた。
 狩猟の訓練も、おそらくはそこから派生して戦闘の訓練も。
 倭吽陀は、小さいながらに一人前の男として、周囲の大人に仕込まれているのだろうと、斗羅畏は思った。

「俺が八つの頃は、なにをしていただろうな……」

 勇んで駆けて行く倭吽陀に続いて、斗羅畏も丘に足を入れる。
 幼少期、祖父である阿突羅(あつら)の膝の上で、古来の物語や祖父たちの闘いの記憶を聞かされていたのは確かだ。
 同年代の叔父である突骨無(とごん)よりも、自分の方がなぜか可愛がられていた自覚はあった。
 大人になった今は、その理由が微かにわかる。
 突骨無は生意気で賢く。
 自分は、愚かで単純だったからだ。
 小さい頃から弁が立ち、大人たちと対等に意見を交わしていた突骨無のようなことは、斗羅畏にはできなかった。
 怒りんぼで、泣き虫で、口下手で、変に意地っ張りで。
 気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起して、手足を振り回して駄々をこねるような自分だったからこそ。
 出来の悪い、可哀想な孫だと思われて、祖父の愛情を最も多く、受けることができたのだ。
 それだけ、祖父の阿突羅は情が深い男なのである。
 もちろんこれからは、そんな自分から一皮も二皮も、急いで剥ける必要がある。
 自分の肩に、背中に。
 倭吽陀をはじめとした、多くの子の命が、乗っかっているのだから。

「あ! ウサギみーっけ! まてーーっ!!」

 軽快な声が丘に響いた。
 雪面に紛れる白い毛の兎が、ひょこひょこと飛び跳ねて倭吽陀から逃げていた。

「先に見つけられたか」

 斗羅畏の立つ場所からは若干の距離がある。
 しかし、倭吽陀から逃げている兎の動きをよく観察し、その行方を予測すれば、問題なく射殺せるだろう。
 誤って倭吽陀を傷つけないように、斗羅畏は慎重に斜線と視界を確認して、矢をつがえた。
 斗羅畏は、剣や槍よりも弓矢が達者な武人に育った。
 真っ直ぐに獲物に向かって飛んで行く矢が、斗羅畏は好きだった。
 けれど、将たるものとしては前線に立って剣を振り、仲間を鼓舞しなければならない。
 後ろから弓矢で狙い撃ちをするのは、雑兵や卑怯者のすることだと、いつしか思い込むようになり。
 さほど大きくない体でありながら、馬上で剣を振るう生き方を選んだのだった。

「ン……?」

 指を離せば、間違いなく兎を仕留められると確信した、そのとき。
 丘の木々の間から覗き見える影に、斗羅畏は気付いて。

「倭吽陀! 走れ! こっちに戻って来い!!」

 大声で叫び、倭吽陀を驚かせた。
 なにごとかと、きょとんとした顔で倭吽陀が問い返す。

「な、なんだよー! いいところだったのに、じゃますんなよー!」

 兎を夢中で追いかけていた倭吽陀は、その異常に気付かない。

「阿呆! 熊の怪異がいるんだ! 早く逃げろ!!」

 倭吽陀に状況を知らせた斗羅畏は、毒のついている矢を弓につがえ直した。
 念のために用意しておいて良かったと、珍しく自分を褒めてやりたい気持ちで。

「勝負の邪魔を、するなっ」

 弓をきつく引き絞り、必中の矢を、ヒグマ型の大きな怪魔の鼻面へ向けて放った。
 風を切り裂いて真っ直ぐに飛ぶそれは、寸分の過ちもなく、怪魔の鼻頭に突き刺さり。

「グゥオォアーーーーーー!!」

 怒声を上げた怪魔の左目、右目と、順に間を置かず次々と矢が突き刺さって行った。

「す、すっげ……」

 腰を抜かしてしまった倭吽陀が見上げるその光景。

「グァ、グバアアアァァ……」

 目鼻を射抜かれ、脳に瞬く間に毒が回った熊の怪魔は、ずしぃんと静かに重い音を立てて、雪の丘に斃れたのだった。
 倭吽陀の下に駆け寄った斗羅畏が、ぺしっと頭を叩いて叱る。

「逃げろと言ったらすぐに逃げろ。食われるところだったぞ」
「う、うん、はい……」

 ぽーっ上気して斗羅畏を見つめる倭吽陀、その瞳。
 恐怖でも、叱られた悲しみでもない、別の光が溢れんばかりに輝いていた。
 その視線に気づくことなく、斗羅畏が現場を見渡して言った。

「獲物を先に追い立てたのはお前だ。兎には逃げられたしな。この勝負は引き分けでいいだろう」
「お、おーう! もうひとしょうぶだ、とらい!」

 満面の笑みで、少年は最高の返事を、偉大な好敵手へ返した。
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