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乙の巻 失われた奇書を求めて

弐ノ肆 探したけれど見つからないのに

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 河旭(かきょく)から見て南方にある、高山(こうざん)のふもと。

「なんにしても、怪しい場所と胡散臭い『なにか』はあるってことだな」

 現地の邑で情報を集めた椿珠(ちんじゅ)が、簡単にまとめた。
 大きく深い河を超えたところに、あなぐらか石窟が存在するのは確かなようだ。

「ち、小さな怪魔くらいでしたら、僕がどうにでも。軽螢(けいけい)さんの緊縛呪術もあることですし」

 神経質に手持ち武器の鉄剣をチェックし、想雲(そううん)が言った。
 その希望的観測に水を差すことを、軽螢が教える。

「陽の光が届かんようなあなぐらの中じゃ、俺の呪縛は使えないぜ」
「え、そ、そうなのですか……」

 なにひとつとして好材料が増えないその情報に、想雲が顔を歪める。
 軽螢の縛術は太陽の光を根源的なエネルギーとして使うため、真夜中や閉暗所では役に立たない。
 やれやれと思いながら、一行のまとめ役である椿珠が荷物袋から数枚のお札を取り出した。

「想雲、ちょっと指に針を刺していいか? 血を少しだけもらいたいんだ」
「あ、はい。突符(とつふ)のお呪(まじな)いですね」

 椿珠が用意した札は、困難を打開するためのお守りのようなものである。
 八畜(はっちく)の亥(いのしし)を祖先神に持つ、司午家(しごけ)の嫡男、想雲。
 彼ら亥族(がいぞく)の心身の奥深くには、自分たちの運命を阻む良くないものを、猪の突撃のように力づくで打ち破るエネルギーが宿っていると、広く信じられている。
 先日に塀氏(へいし)の紅猫(こうみょう)貴妃が用いた鎖符(さふ)とは、対極に位置する霊的エネルギーの発露である。
 囲んで縛る力があるように、一方ではそれを打開する力もあるわけだ。

「少し痛むぞ」
「大丈夫です」

 ちくり、と椿珠は想雲の左手小指に針を刺して、真っ赤な血を浮き出させた。
 その血液で札に「凸」の字に似た記号を書き、霊的な護符を作成する。
 気休めには違いないが、やらないよりはマシというものだ。
 
「メエ! メエエ!」

 一連の流れを見ていたヤギが、自分にもそのお守りを寄越せと言うようにやかましく吠える。

「果たして畜生にこんなお守りが必要なのでしょうか」
「俺も分からん……」

 首をひねりながらもうるささに負けて、想雲と椿珠はヤギの分も護符を作り、首輪にくくりつけた。

「こいつをあんまりバカにしない方が良いぜ。俺たちより力は強いんだし」

 軽螢は北方の旅において、このヤギが戌族(じゅつぞく)の荒武者が駆る名馬を体当たりの一撃で昏倒悶絶させたシーンを、強く記憶している。
 現時点、椿珠たち男子三人合わせた白兵戦闘力よりもヤギの方が強いのではないかと思われるほどだ。
 想雲は自分の佩いている鉄剣と、ヤギの立派なツノを見比べる。
 まともにぶつかり合えば、剣の方が折られるかもしれないと、身震いした。

「邸瑠魅(てるみ)の姉だか妹だかいう、緋瑠魅(ひるみ)って女の馬を倒した話か。俺は見てねえんだよな……」

 居合わせなかった椿珠が、少し悔しそうに言った。

「いなくて良かったよ。あんなやつ、二度とお目にかかりたくねえや。今になっても思い出すだけでぞっとするンだ」

 それは幸運なのだと軽螢は言ったが、椿珠はそう思わなかった。
 世間の珍しい話、面白い場面に遭遇できないこと。
 その機会を失してしまうこと。
 なるほど、と椿珠は自分の心と対話する。
 自分が一番、心から残念だと思うことは、どうやらそういう領域らしい。
 機会損失こそ最大の不利益である。
 結局のところは、商人の本能が彼の根っこに、強く存在するのだろう。

「この橋を渡らないと、対岸には行けないみたいですね」

 準備と情報収集を終えた一行。
 渦を巻いている濁流の上に架けられた、古びた吊り橋を前に足を停めた。
 目的とするあなぐらは橋を越えた先にある。

「一回に十人以上は渡るべからず、って書いてあんな」

 軽螢が吊り橋のたもとに立てられている看板の文字を読み上げる。
 これほどまでシビアな重量制限のある粗末な橋を渡ったことがない想雲は、背筋と下半身に寒気を覚えた。

「注意書きに十人とあるんだから、実際は二十人くらい大丈夫だろ」

 まったく根拠のないことを堂々と口にして、椿珠は怖気づくこともなく橋を渡る。
 その後ろ姿に想雲も安心して、後に続く。

「お守りもあるしな、心配ねえよ」
「メエェ」
 
 軽螢は本来、パラノイアにも似た警戒心をこういうときに持つタイプである。
 しかし先に作っておいた護符の効能を信用しているのか、もしくは十人まで大丈夫という看板の案内を疑わないのか、迷いもなく橋に足を踏み入れた。
 ぐらぐらと揺れ、ギィギィと嫌な音は鳴るものの、三人とヤギは問題なく橋を渡り切って対岸に着いた。
 のだが。

「あっ」

 最後に想雲が対岸の土地を踏んだとき。

 ミキミキッ、ガコォン。

 切ない音とともに、吊り橋を支えていた木製の支柱が折れ崩れ、崖下の川面に落ちて行った。
 橋を形成していた縄と木の板も、バラバラと水面に落ち、散らかって流されて行った。

「か、帰り道、どうするんですか!?」
「上流か下流に歩けば、別の橋があるだろ」

 雑に言って椿珠は先を進んだ。
 壊れた橋のことをどうこう言ってもなににもならないので、今は別のことを気にした方が良い。
 決して椿珠は楽天家ではない。
 しかし、考えても仕方ないことに悩むのは、個人的な青春の懊悩についてだけで十分だと割り切っている節がある。
 逡巡と足踏みこそ、損失を招く最大の要因であると考えていて、その感覚では麗央那たちと似ている部分があった。
 要するに、そろいもそろって麗央那の周りにはせっかちな人間が多いのだ。
 当の麗央那は、二回目の後宮暮らしの影響もあってか、その感覚が若干薄れて落ち着き始めているが、別の話。

「怪魔も嫌だけど、崖が崩れても嫌だなあ」

 岩肌に沿う細い山道を歩きながら、軽螢がボヤく。

「赤土が多いということは、山が雨を受けるたびに表面が崩れる可能性が高いということで……」

 変に知識を付けてしまったせいで、この場に対する恐怖心が増してしまった想雲が恐る恐る答える。
 知識は人にとって武器であるが、それは諸刃の剣でもあるのだ。
 現に、細かいことを知らない二人とヤギは、どんどんとあなぐらがあると伝わる場所へと足を進めている。

「軽螢、怪魔の雰囲気はあるか?」
「今のところはねえよ。水晶も悪い予感はしてないみたいだし」

 前を歩く椿珠と軽螢がそう話していたので、想雲もそのときばかりは安心したものの。

「メ、メメメェ!?」

 ヤギが突然、変な鳴き方をして騒いだ。
 なにが起きたのか。
 必要以上にビクビクして、周囲を観察していた想雲だからこそ、気付くことができた。
 
「二人とも、危ないっ!」

 全力で想雲は椿珠と軽螢に疾走してタックルをぶちかます。

「おわっ!」
「な、なんだよ!?」

 もんどりうって道に転がった三人の、さっきまで立っていた場所。
 ゴトゴト、ゴロゴロッと重そうな岩がいくつも、転がり落ちる。
 頭にでも当たれば即死、体に当たれば内臓破裂、脚に当たれば大腿骨骨折。
 そんな大地の暴力から、すんでのところで一同は助かった。

「……その水晶、アテにならねえな。そもそも除葛(じょかつ)の野郎に貰ったもんだし」

 冷や汗を垂らしながら、椿珠が呟く。

「そんなこと言うなよぉ。良いモンなのは間違いないんだからさ」

 すっかり宝物として感情移入している軽螢が、力無く水晶玉の弁護をするのであった。

「しかし助かったぜ、想雲。やっぱり慎重に進まなきゃいかんなこれは」
「いえ、みなさんお怪我がなく、なによりでした」

 椿珠と想雲がそう気を取り直しているところに。
 キィィィィン。
 三人の耳の中に、不愉快に鳴る音ならぬ音が発生する。

「話の途中でごめんだけど、化けトカゲだ!!」

 水晶が急に知らせた危難を、軽螢が叫ぶ。
 道の先から四つん這いの大型爬虫類に似た怪魔が二頭、ドテドテドテと音を立てて走り寄って来たのだ。
 顔の中央に大きな一つ目を持ち。

「キェシャァァァ……ッ!!」

 大きく開けた口から覗く牙は、不気味に青いよだれで濡れている。
 現代に生きる怪獣として有名なコモドオオトカゲに、どことなく似ていた。

「うお、毒でもありそうだなあれは」

 後ずさりながら、椿珠は懐から卵型の爆弾を取り出す。
 火薬で爆発するようなものではなく、刺激物のパウダーが詰まっているだけの攻撃補助道具だ。
 椿珠を守るように想雲が前に立って、鉄剣を鞘から抜いた。

「気合、踏み込み、思い切り、相手の動きをよく見る……」

 恐怖心を打ち消すように、心の師匠である翔霏(しょうひ)や巌力(がんりき)の教えを口ずさむ。
 自分と相手の動きに集中し、他の邪念を消せば消すほど、想雲は恐怖が薄れて心が澄んで行くのを感じた。

「身命捧神(しんめいほうしん)、邪鬼討滅(じゃきとうめつ)……」

 軽螢は片手に琥珀色の水晶を握りながら、指を顔の前に立てて呪言を唱えた。
 屋外で怪魔に遭遇したことは、まだ運が良かったと言える。
 河旭の城郭で立ち回ったときは、塀氏の貴妃、紅猫(こうみょう)一人が操る緊縛術にまとめて絡め捕られてしまい、あまりいいところは見せられなかった三人であるが。

「直直如言(ちょくじょくじょげん)、怨敵縛土(おんてきばくど)!」

 台詞を決めて軽螢が人差し指を示した先。
 ドゥウンと重低音が鳴り響き、空気が歪む。

「ギィィ!?」
「シャアアアア!!」

 二頭の大トカゲ型怪魔が、文字通り、地面に縛り付けられるように、動きを封じられた。

「やった、上手く行ったぜ、さすが俺!」

 水晶の力によるブーストか、はたまた紅猫の強力な縛術をその身で受けた経験から学んだためか。
 軽螢の呪術は以前よりも格段に効果を高めていた。
 特定の対象とその周りも含めて影響を及ぼす、いわばマップ兵器にまで成長していたのだ。

「トドメは僕に、お任せくださいッ!」

 怪魔に猛進して行き、体ごとぶつかるような鉄剣の突きを想雲が放つ。
 ズブリと刺さった刃は正確に相手の心臓を貫き、大トカゲの体躯がビクンビクンと痙攣した。

「おお、若いもんは伸びしろがあっていいなあ」

 楽をできたという思いと、少々の嫉妬をないまぜにして。
 椿珠は想雲が二頭目のトカゲに剣を思い切り振り降ろす光景を見つめた。
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