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甲の巻 暴れん坊公爵と肉山の巌さん

壱ノ壱 泰山、動く

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 海鳥が飛び交い、潮風の薫る半城郭都市、斜羅城(しゃらじょう)。
 角(かく)と呼ばれる東の海へ尖り突き出した半島の南腹に、その街はある。
 春を前にした角州(かくしゅう)の州都でもあるその斜羅の一角で、巌力(がんりき)は悩んでいた。

「貴妃殿下が倒れられている今、奴才(ぬさい)がこのようにのんびりを決め込んでいても良いものでありましょうか」

 奴才というのは、宦官の間でよく使われている一人称であり、僕、という言葉と意味合いは近い。
 皇帝のしもべ、奴隷的使用人であることを表している。
 相談相手は、巌力たちを保護している立場の、司午(しご)玄霧(げんむ)だ。
 角州で軍人の職にあり、その立場は左軍正使というものである。
 書記官を伴う大隊をいくつか統率する立場であり、かなり偉い。
 ただ、厳密に言えば巌力を保護して匿っているのは玄霧ではなかった。
 彼の妹で、後宮の貴妃である翠蝶(すいちょう)なのだが、翠蝶はたちの悪い呪いを仕掛けられて、意識も曖昧に昏睡中である。

「お前は十分すぎるくらいに働いてくれている。屋敷の連中が喜んでいたぞ」

 お世辞でない事実を基にした感謝を、玄霧は告げる。
 巌力は持ち前の怪力と体力、生真面目な性格で、屋敷内の肉体労働に貢献している。
 とにかく腕力がけた違い、人間離れしているので、模様替えや掃除、司午家が買い付けた物資の移動など、活躍する場面は実に多かった。
 巌力がなぜそこまで規格外の筋骨青年に仕上がったのかは、誰も知らない。
 しかし、他の人間にはできないことであっても、巌力にとっては単に荷物を動かしているに過ぎず、苦労ということなどありはしなかった。
 この、何事にも動かぬ巌(いわお)のごとき休職中の宦官を動かしている気持ちは、たった一つ。
 玄霧の言葉に、目を閉じ首を振って、巌力は返した。

「麗女史は、あの小さき体、まだ年端もいかぬ身でありながら、魂が擦り切れるほどの過酷な宿命を背負い、休む間もなく戦っておられる。奴才は環(かん)貴人のお傍を離れるつもりはありませぬが、それでもなにか、この斜羅の都で、できることがあるはずでござる」

 股の間に下がる男の象徴を、自分の意志で切り捨てた巌力なれど。
 その胸の奥には熱いものが滾っている。
 まだ、自分だけが「男」を見せていない。
 戌族(じゅつぞく)青牙部(せいがぶ)、覇聖鳳(はせお)の本拠地から命も惜しまず、環貴人を奪い取って帰った椿珠(ちんじゅ)のように。
 自分も「男」を見せなければいけないのではないか。
 あの泣き虫少女でさえ、自分の境遇と激しく戦っている。
 充実壮健の身体に生まれた男としての悔しさが、巌力の魂を激しく揺さぶるのだ。

「確かに、お前たちを今すぐ捕縛し訊問するという話には、官庁もなってはおらんが」

 玄霧は顎髭の剃り残しを指で神経質にいじりながら言った。
 名目上では巌力たちに指名手配がかかっており、目立つ行動を控えなければいけない立場にある。
 だから角州の司午本家で匿われているのだが、その手配も一旦、今は保留されていた。
 今の巌力は大手を振って街を歩くことができるわけで、麗央那や玄霧が調査していることに協力してもいいはずだ。

「正使どの、なにか奴才にできることはありませぬか。貴妃殿下を貶め卑劣な呪いを仕掛けた連中のことを考えるほどに、奴才は冷静にはなれぬのでござる」
「わかった、わかったから落ち着け……」

 食い下がる巌力の圧力に、玄霧は若干の身の危険すら感じて折れた。
 巌力が早まったことをするとは思えないが、なにしろ大きいので、怖い。
 その怯えを悟られないように偉そうな顔をして、玄霧がこう言った。

「俺はこの後、河旭(かきょく)がどうなっているのかを見に行く予定だ。その間、お前に斜羅の街の中で情報収集を頼みたい」

 時系列的には、麗央那がまだ事件の真相を掴めず、大人しく後宮で朝夕のお祈りをしている頃である。
 玄霧は自分が気づいたことを麗央那に伝えるため、早いうちに皇都の河旭に行くつもりだった。
 
「正使どのが角州を留守にする間の、調べものの任というわけでござるか」
「そういうことだ。気になることは色々あるが、第一に角州公から派遣されたはずの、翠の安産を願う祈祷師たち。この中におかしなものが混じっていて、翠に呪いをかけたということはほぼ確実であろう」

 皇帝の御子を妊娠し、その出産のために里帰りしている翠蝶。
 彼女の身を案じて、角州公が安産を願い、術師を派遣した。
 これだけなら結構な話なのだが、その祈祷に呪縛の怪しい術が混じっていたことが原因で、翠蝶は昏睡に陥ったのである。
 今は状況証拠しか存在しないが、どうしたって、この部分を詳しく調べなくてはならない。
 どの時点で、どういう理由で、おかしな呪いの使い手が混じりこんでいたのか。
 事態の責任は誰にあるのか。
 最悪、角州公も容疑者の一味であることを想定して玄霧なりに調べたが、成果は乏しかった。
 そもそも実行した祈祷師集団の足取りが、未だに掴めないのである。
 州の政庁府にも玄霧は問い合わせたが「不明」という回答があるだけだった。

「承知いたした。この巌力、必ずや陰謀のありかを突きとめて見せましょうぞ」
「無茶なことはするなよ。まあ程々に努めろ。俺はしばらく河旭から帰らん予定だ。なにか分かったらすぐに文(ふみ)を寄越してくれ」
「おまかせあれ。非才小力の身なれど、郎党の糸口を掴んで引きずり出してやりまする」

 気合を入れている巌力に若干の不安を覚えながら、玄霧は自分の出発のために準備にかかる。

「あの図体で、間諜まがいの調べものがろくにできるとも思わんが……本人の気が済むまでやらせてみるか」

 あまり期待していない玄霧、屋敷の女中さんに命じて髭を剃り直してもらい、皇都河旭に急ぎ、出立した。
 人材を育てるためには、信用して仕事を任せるのが最も効果的であることを、玄霧は無意識的に知っている。
 成功や失敗はただの結果でしかなく、辿った道のり、経験こそが最大の財産なのだ。

「という事情にございますれば、今夜から街に出て人々の話に耳を傾けたく存じまする」

 夕刻の前。
 巌力は自分が近侍する主人、環(かん)玉楊(ぎょくよう)に事の次第を告げた。
 両者は玉楊が後宮の妃として輿入れするより前、実家で花嫁教育を受けていた頃からの付き合いである。

「あなたがそうしたいと思うのなら、精一杯やってみなさい」

 いつも通りの閉ざされた瞳のまま鷹揚に頷いて、玉楊は巌力を励ました。
 彼女は幼少期の病気が原因で、後天的に盲目なのであった。
 玉楊を公的私的に支えるため、巌力は自身の一物を切り落とし、宦官となって皇城内に勤めることになったのである。

「ご理解痛み入る」
「でも、司午家のみなさまにご迷惑をかけないように気を付けて。まあ今は椿珠(ちんじゅ)がいないのですから、そうそうバカはしないと信じていますけれど」

 敢えてここにいない同い年の異母兄弟、環椿珠の名を出すことで、玉楊は巌力への戒めとした。
 普段は慎重で思慮深い人物であっても、気心の知れた悪友が傍にいると、一緒になって無謀をやらかすという例は世に多く見られる。
 巌力と椿珠の関係はまさにそれであり、そうして破茶滅茶に暴れている時間は、巌力にとって強い心身の解放感をもたらしている。

「はっ。くれぐれも、軽率は控えまする」

 大きな身体を気持ち、縮こまらせて、巌力は玉楊の警句を心の中で反芻した。
 役に立ちたいと勇み足になって不用意な行動を取れば、それだけ司午家や玉楊の顔に泥を塗ることになりかねない。
 玉楊の前を丁重に辞してしばらく沈思した巌力は、まず街の酒場で世間の人たちがなにを話題にしているのか、探ることにした。
 宦官であると知られて目立たぬように、付け髭を口周りに貼るという、彼なりに念を入れて。
 が、しかし。

「う、うお……」

 巌力が一つの店に入り、奥の席に座ると同時に、居酒屋の中を飛び交っていた様々な声が、途絶えた。

「ご、ご注文は……」

 見たこともない怪物の来訪に、店員も狼狽えた。

「キビの酒を、茶で割っていただきたい。なにかお勧めの品はありますか」
「き、切り干した大根の漬物と、イカの塩辛などが、今は美味しゅうごさいます」
「ではそれらも、よろしくお願い申す」

 努めて無害無個性な客の一人として、巌力は店の中に溶け込んだ、つもりであった。
 もちろん、そうではなかった。
 山のような大男が、ギラついた視線で店内を探るように凝視し、粗末な漬物だけを肴に薄い酒をちびちび口に運んでいるのだ。
 店員も他の客たちも、緊張するなと言う方が無理な話である。
 武名に知られた将官か、荒くれで知られる任侠一家の用心棒か、はたまた人ならざる怪異が山奥から街まで降りて来たのか。
 客はそれぞれ勝手な妄想に恐々とし、巌力を横目に見ながら無言で飲食を続ける。
 賑やかだった酒場をいつの間にか葬式会場のような静寂が襲い、大半の客はその夜に飲んだ酒の味を記憶できなかった。
 結局この夜、巌力はなにひとつとして有益な情報を得られぬまま、司午屋敷に戻った。

「あの店は、会話もなく静かに飲む流儀であったのだろうか。次はもう少し騒がしい店に行くとしよう」

 自分のことは、自分が一番見えないと俗に言う。
 巌力は少し以上にずれた認識のまま、次回以降の調査のために作戦を練り直すことにした。

 巌力の来店に驚いた客たちが、ふんだんに尾ひれをつけて巨大怪人の談話を角州に広めるのは、また別の話である。
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