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第十六章 災厄と希望の匣

百四十話 薄明よ、今少しこの場に居させてくれ

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 私を囲んでい情報員たちが、まさに瞬きする間に倒されてしまった。
 一転して窮地に陥ったのは乙さんである。
 立ち尽くす彼女に、翔霏(しょうひ)が言葉を向けた。

「縁も恩もあることだし、あなたを無駄に痛めつけたくはない。黙って脇に下がってくれるとありがたいが」
「はいはい、わかってるよ。どのみちあんたにゃあ敵いっこないからね。そこまで頑張るほどの賃金はもらってないさ」

 乙さんは両手を広げて、袖の中に隠し持っていた小さな鉄の棒をコトリと地面に落とした。
 寸鉄と呼ばれる隠し武器、暗器の一種だな。
 私をぶん殴って悶絶させるくらいなら効果は抜群だろうけれど、翔霏に対してはなんの役にも立ちはすまい。

「あの嬢ちゃんが来ちまったらもう無理だ、撤収するぞ」
「了解、ヤギの坊主が河旭(かきょく)から消えた時点で疑ってかかるべきだったか……」

 離れて見ていた他の情報員が悔しそうに現場を去り、想雲(そううん)くんや椿珠(ちんじゅ)さんも解放された。
 軽螢(けいけい)は甘く見られがちなので、行動を深く注意されていなかったのだろう。
 昼行燈には昼行燈なりの見せ場があるということだな。

「どうやら間に合ったみてえだな、良かった良かった」
「メエ」

 緊張感のない軽螢とヤギの声。
 翔霏が来る前に私が捕まっていたら時間切れでこっちの負けなので、見た目ほど余裕があったわけでもなく、ギリギリだ。
 私は仲間たちに守られて、東庁へと向かう。

「想雲くん、怪我しなかった?」
「少し擦りむいて……い、いえっ、まったく、大丈夫ですッ!」

 気丈に言う彼のおでこに血が滲んでいたので、手ぬぐいで押さえてあげた。
 なんかアウアウ言ってるけど、騒乱の興奮が残っているのかな。
 気が付いたらいつの間にか、乙さんも消えていた。
 作戦が失敗した以上、ここに長くとどまっている必要はないからね。
 尾州(びしゅう)でふんぞり返っているモヤシ軍師に連絡を飛ばし、次の指示を仰ぐのだろう。

「そう言えば麗央那の働いてる後宮に、塀公(へいこう)の娘さんもいるんだったっけ」

 思い出したように軽螢に聞かれた。
 神台邑(じんだいむら)の属する翼州(よくしゅう)を執り治めているのが、永代州公を世襲する塀家であり、塀貴妃のご実家である。

「うん、いらっしゃるよ。そう言えば塀貴妃、雷来(らいらい)おじいちゃんのこと知ってた。軽螢も会ったことあるの?」
「邑に州公が慰問かなにかで来てくれたことがあンだよ。そのときに娘さんも来てたはずだな。俺は赤ん坊だったから覚えてねえけど」

 翼州(よくしゅう)や毛州(もうしゅう)の広くを自然災害が襲い、飢饉や疫病が大発生した時期の話だな。
 州公が各地を視察して見舞金や食料を配ったりするのに、塀貴妃も同行していたわけだ。

「だから神台邑のことも詳しかったのかあ」
「次に会ったら、俺のこと覚えてるか聞いてみてくれよ。俺、とびっきり可愛い赤ん坊だったからきっと覚えてくれてると思うンだ」

 その根拠のない自己肯定感は、どこから来るんだよ、マジで羨ましいわ。
 塀貴妃は私たちよりも五つか六つは年上なくらいである。
 罹災した神台邑を見に来た時分は、すでに十分に物心がついている少女だっただろうな。
 ワンチャン、長老の孫である軽螢のことを覚えていても不思議はないか。
 幼き日に惨状を目の当たりにした神台邑が、今度は覇聖鳳にボロボロに燃やされてしまったということを受けて、塀貴妃は余計に気にかけてくれていたのかも。
 そのお心遣いがまことにありがたい。
 椿珠さんも、塀貴妃の話題に乗っかって来た。

「俺が渡した紅玉は、喜んでもらえたかい」
「うん、お気に入りで、しょっちゅう眺めてるよ。話が分かる方だし、今回のことも相談した方が良いかな」

 なんて話をしていた、まさにそのとき。

「止まりなさい、あなたたち」

 霧の先、もうすぐ東庁というところに、立っていた。
 塀貴妃が、自室の侍女を一人だけ連れて。
 まさに、噂をすれば影が差すという言葉の通りである。
 霧が凄すぎて、人に影はできにくい環境だけれどね。

「貴妃殿下、こんな朝早くに、どうかなさいましたか?」

 私の質問に、塀貴妃はジト目で返した。

「あなたのお見舞いに行っていたのです。そうしたら中身は入れ替わっているし、なにか騒いでいる声が聞こえるし、まったく……」

 小刀ちゃんの身代わりは、すぐバレてしまったんだね。
 知ってる人に顔を見られたら一発なので、そこは仕方がない。
 この期に及んで誤魔化すのも無理だし、正直に行こう。
 どのみち遅かれ早かれ、塀貴妃も詳しく知るところとなるのだから。

「申し訳ありません、どうしても馬蝋(ばろう)総太監にすぐ、お知らせしたいことが。できれば貴妃殿下もご一緒に」
「それには及びません。隣にいるのが噂の紺(こん)という女の子ですか」

 私の言葉を途中で打ち切った塀貴妃は、翔霏をじっと見つめた。

「塀公のご息女に見知られているとは光栄なことだが、私になにか用かな」

 翔霏の質問に答える前に、塀貴妃は先ほど話題に出ていたルビー玉を、指先に摘むように持つ。

「申族(しんぞく)の裔(すえ)、紺氏に生まれ神台邑に祝され育てられた娘、翔霏よ。我、今まさに汝が名を戒め、此処に固く躰(たい)を縛らん。直ちに直ちに言に如(したが)え」

 そう言葉を紡ぐと、手の内のルビーが一瞬、ギラリと強く光った。
 直直如言(ちょくじょくじょげん)で結ばれる、その言の葉は。

「ま、マズい! みんな翔霏から離れろ!!」
「えっえっ!?」

 急に軽螢が私の手を引っ張り、翔霏が立っていた近くから強引に離す。

「な!? ぐっ、体が!!」

 直後、翔霏がまるで見えない巨人に体を押さえつけられたかのように、地面に膝を付く。

「な、なんだこりゃ!?」

 翔霏のすぐ後ろに立っていた椿珠さんと想雲くんも、まるで蛙のように地面に四つん這いに臥せってしまった。

「こ、これは塀氏の禁術……!? まさか名前を縛るだけで、こんな力が……!!」
「メエエエ……」

 脂汗を浮かべながら、苦悶の声で想雲くんが言った。
 ヤギも一緒になってヘバってるけど、今はどうでもいいや。
 え、でもそれってばひょっとすると。

「軽螢が怪魔に使う緊縛術みたいなもの!?」
「俺のなんかとはケタが違う! なにせ塀公サマの術が本家本元だ!」

 術の効果が及ばないであろう距離になんとか抜け出し、軽螢が教えてくれた。

「なんとか対抗できないの!?」
「無茶言うなよ! 名前を呼んだ本人以外の周りまで巻き込むなんて、見たこともねえ強さだ!」

 人に対して術を使えない軽螢と比べ、塀貴妃は動物や怪魔には鎖符(さふ)を使えるし、人間が相手でもこのように名前を戒めることで、何人もまとめて制圧することができるのか。
 
「って椿珠さん! あんたが贈った宝石のせいで塀貴妃の力が増大されちゃってるんじゃないの!?」
「んなこと、前もってわかるわけないだろ……!!」

 私のクレームに弁解しつつ、椿珠さんの体がとうとうぺたんと地べたに沈んだ。
 まるで翔霏を中心とした周囲の数メートルだけ、重力が何倍にもなっているかのように。

「あなた、神台邑の応(おう)老人の縁者ですね。どことなく面影があります」

 優しさを感じる声色でそう言って、塀貴妃はルビーを持っていない方の手で軽螢を指差した。

「え、そうかな」

 良かったね軽螢、多少なりとも覚えててくれていたようだよ。
 軽螢はお爺ちゃんから遺伝したくない頭髪の事情があるので、心外だったようだ。
 なんて平和なことを言っている場合ではなく。

「未族(びぞく)の裔、応氏に生まれ神台邑の中心で育った男子(おのこ)、軽螢よ。我、今まさに汝の名を戒め、此処に固く躰を縛らん。直ちに直ちに言に如え」
「同時にも使えるんかーいっ!!」

 予想外の緊縛が自分にも向いて、情けなく叫んだ軽螢も、体の動きを封じられた。
 そして、すぐ隣に立っていた私は。

「あれ、動ける」
「やはり、麗には効きませんか……」

 納得半分、疑問半分の様子で塀貴妃が呟く。
 ただこの状況で私一人が自由に動けたとしてもなあ。
 話がわかる塀貴妃だからこそ、あえて言葉で交渉してみようか。

「ど、どうして私たちを行かせてくれないんですか? 別に塀貴妃にご迷惑は……」

 哀しい目で私を見た塀貴妃が、会話に応じてくれた。

「南苑の妃が使っている薬のこと、漣(れん)にお世継ぎを宿す意志がないことを、あなたは馬蝋奴(ばろうやっこ)たちに、話してしまうのでしょう」
「い、いえそれはさすがに、みなさまの立場も悪くなるでしょうし、隠した方が良いかなとは思っていますよ」

 塀貴妃が避妊薬を個人的に使っているかどうかまでは、私は知らない。
 けれど、そんな薬が出回っていることを統括者として黙認していたと知れたら、重い処分を下されるかもしれないのだ。
 私だってそんなことを望んでいないよ。
 あくまでも私の目的は「モヤシ野郎が余計なことをしたせいで司午家のみなさまが迷惑を被った、そのことを偉い人たちに訴えたい」だけである。
 しかし塀貴妃は首を振り、言った。

「尾州宰(びしゅうさい)の除葛(じょかつ)姜(きょう)どのが、漣のためになにか暗躍していた。それが公に知れれば、どうあっても詳しい調べの手が南苑に回ります。姜どのの罪が裁かれるなら漣も、朱蜂宮には居られなくかもしれません」
「そ、それは」
「特に司午(しご)翠蝶(すいちょう)貴妃は、主上の寵愛篤きお方です。漣の縁者が彼女に危害を加えたとなれば、主上のお怒りとお嘆きは計り知れません」

 塀貴妃の言っていることも、後宮を平穏に保つための一つの理屈かもしれない。
 でも、けれど。

「塀貴妃は後宮のため、南苑のために言ってるのでなく、漣さまと離れたくないからそう言ってるだけですよね?」

 指摘せずにはいられなかった。
 あなたの行動の動機は、秩序のためではなく、個人的な感情でしょう。
 執着にも近い特別な感情を漣さまに持っているから、今このように行動しているのでしょう、とね。
 私が図星を突いてしまったからか、塀貴妃は目を白黒させ。

「あ、う。そそ、そんなことは決して。わ、私は南苑統括の、貴妃としての立場から……」

 途端にシドロモドロちゃんになってしまわれた。

「前にも、南苑から離れて行って欲しくないから、漣さまの貴妃昇格を渋っていましたし」
「そそそれとこれとは話が」
「同じですよね?」

 むしろ、それ以外のなにがあるというのだろう。
 オロオロしている塀貴妃の脇で、今まで無言で控えていた侍女さんが溜息混じりに言った。

「麗は口八丁で有名な女の子です。喋らせるとそれだけ調子づくので、黙らせた方が良いですよ」

 侍女さんは懐から砂でも詰められていそうな細長い袋を取り出し、私ににじり寄って来た。
 うん、あれで殴られたら、気絶しちゃうかもね。
 反撃するにしたって、毒を仕込んだ串まではさすがに使いたくないしなあ。
 ン、待てよ?

「そう言えば塀貴妃、これは漣さまから『紅(こう)ちゃんには内緒にしといてな』って言われた話なんですけれど」
「え、どんな話です?」

 私は半ばデマカセを口走り、塀貴妃の関心を惹く。

「紅猫(こうみょう)さま、麗の言葉に耳を傾けてはいけません!」

 侍女さんは会話の意図に気付いたようだけれど、私はコソコソと逃げ回りながら。

「漣さまは『いつもうちらのために頑張ってくれて、紅ちゃんにはえらい感謝しとるんや。あんなおねえちゃんが欲しかったなあって昔から思ってて、その夢が叶った感じやわあ。恥ずかしいからよう言わんけどな』と、少し酔ったときにお話しされていまして」

 下手な声真似まで披露しながら、捏造のほのぼのエピソードを語る。
 人を傷つけない嘘は、心が痛まないので良い。

「漣が、そんなことを……」

 塀貴妃がぽーっと喜色を浮かべ、うっとりなされた。
 どんだけ漣さまのこと好きなのさ、この人。

「紅猫さま! 術を疎かになさっては……!!」

 侍女さんが心配した、その通りに。

「お、動けるぞ!」

 翔霏にかかっていた緊縛術が、力を失ったのであった。
 人として、隙だらけなんだよね、塀貴妃は。
 こういうところが憎めないし、身近に感じてしまう要因なのだよな。
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