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本編
第101話 キスでかき消して
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ユークリッドは、静かに冷笑する。間近で微笑まれたロゼは、愕然としていた。彼女の脳内に突如として、フリードリヒの姿が浮かび上がる。
『貴族狙いの盗賊だ。部下たちと……暗殺者が加勢してくれたおかげで全員息の根は止めたよ』
『たぶんロゼを守っている暗殺者じゃないかな?』
ロゼを見守るよう命令を受けた暗殺者は、彼女がフリードリヒの城に向かったということを、ユークリッドに報告したのだ。その夜は、ユークリッドと喧嘩をしているし、疎遠になっているため、まぁいいかと高を括っていたが、仲直りを果たした今は、非常に気まずい。ロゼは緩徐に顔を背けて、乾いた口内を潤すために、紅茶を飲んだ。
「あれほど、宿泊は許可できないと言ったのに、またも無断で宿泊しましたね、姉上」
ユークリッドは変わらず笑顔だ。笑顔と言えるのか分からないほど、微妙な上がり方の口角であるが。ロゼは弁明を試みる。
「申し訳ないと思っています。ですがあの時は、本当に危険な状況だったのです。フリードリヒが守ってくださいましたが、彼がいなかったら私は、」
「メルドレール公爵がいなくても、弱小の盗賊くらいならば俺の暗殺者が姉上を助けていましたよ」
「……そう、ですね……」
ロゼは、ユークリッドが放った正論を思わず肯定してしまった。ロゼとフリードリヒが乗った馬車を襲撃した敵は、歴戦の騎士でも、最強の暗殺者でも、ましてやドルトディチェ大公家の直系でもない、ただの盗賊だ。それならば、ユークリッドが雇う暗殺者だけでも、十分に対処できたはず。何ひとつ間違っていないユークリッドの発言に対して、ロゼはその通りだとあからさまに肩を落とした。
「今回は目を瞑りましょう。次は気をつけてくださいね」
「……気をつけます」
ロゼは素直に首を縦に振った。ユークリッドは彼女に近寄り、その小さな手を握る。ロゼが力を緩めると、自然と指が絡み合う。俗に言う、恋人繋ぎをしたふたり。掌全体から伝わる温もりに、ロゼは安心感を覚えた。
「今日も、姉上が無事でよかった」
ユークリッドは今にも消え入りそうな声で呟いた。
今日は本当にいろいろなことがあった一日だった。ドルトディチェ大公から鍵を受け取って闘技場近くの地下図書館に向かって調べ物をしたり、その直後にオーフェンが愚行を犯したと聞いて男爵の館に向かったり……。一日で一ヶ月分の苦労をしたような感覚だ。ロゼもユークリッドも怪我ひとつなく無事だが、ロゼにはひとつ、気がかりなことがあった。
「第六皇女殿下は、ご無事でしょうか?」
そう、アンナベルの身の安全だ。同じ女性として、彼女が遭った被害には、同情を寄せてしまう。ロゼが彼女の立場であったのなら、きっと正気ではいられなくなるだろうから。眉尻を下げアンナベルの無事を祈るロゼとは反対に、ユークリッドは飄々としていた。
「ユーラルア姉上とノエルがいるので問題ないでしょう。後日、第六皇女を誘拐したとして、大罪人を皇帝に突き出す予定です」
ユークリッドは、アンナベルに敬称もつけず、淡々と告げる。
大罪人、つまりオーフェンは、醜き人生も穢れた魂も自ら滅ぼしてしまうことになるだろう。今回は、一ヶ月の謹慎ごときでは済まされない。一生地下牢に監禁されればいいほう。悪くて処刑だ。どの道、ドルトディチェ大公家嫡男、序列第3位の立場は、抹消される。後継者争いではなく、己の欲に従った結果、処刑されるなど、哀れでならない。ロゼはオーフェンを心底嘲笑った。
「暗い話はもうやめましょう」
ユークリッドは話を中断させて、ロゼの髪を優しく撫で始める。その手つきは、異常なまでに優しい。
今回、アンナベルは、女性の尊厳を傷つけられてしまった。こんな時こそ、想い人であるユークリッドに慰めてほしい、傍にいてほしいと懇願しているであろう。しかしユークリッドは、彼女のことなど微塵も考えてはいない。脳内の中心を埋めるどころか、端をも陣取ることはできないのだ。あぁ、なんて可哀想なんだろう――。ユークリッドは、今回の事件になんら関係のないロゼの隣にいる。それを自覚した刹那、ロゼは言い表しようのない優越感の湖に片足を浸らせてしまった。なんて性悪なのだと自身を密かに呪う。
「姉上」
呼ばれて咄嗟に顔を上げると、唇を奪われる。ちゅ、と控えめなリップ音がした。そのまま何度か柔い口づけを繰り返すと、ぬるりと舌が侵入してくる。ロゼはろくに抵抗せず、身も焦がすような熱いキスに応じた。窓に叩きつける雨の音が響く中、ふたりを支配するのは互いの唾液音と熱であった。
『貴族狙いの盗賊だ。部下たちと……暗殺者が加勢してくれたおかげで全員息の根は止めたよ』
『たぶんロゼを守っている暗殺者じゃないかな?』
ロゼを見守るよう命令を受けた暗殺者は、彼女がフリードリヒの城に向かったということを、ユークリッドに報告したのだ。その夜は、ユークリッドと喧嘩をしているし、疎遠になっているため、まぁいいかと高を括っていたが、仲直りを果たした今は、非常に気まずい。ロゼは緩徐に顔を背けて、乾いた口内を潤すために、紅茶を飲んだ。
「あれほど、宿泊は許可できないと言ったのに、またも無断で宿泊しましたね、姉上」
ユークリッドは変わらず笑顔だ。笑顔と言えるのか分からないほど、微妙な上がり方の口角であるが。ロゼは弁明を試みる。
「申し訳ないと思っています。ですがあの時は、本当に危険な状況だったのです。フリードリヒが守ってくださいましたが、彼がいなかったら私は、」
「メルドレール公爵がいなくても、弱小の盗賊くらいならば俺の暗殺者が姉上を助けていましたよ」
「……そう、ですね……」
ロゼは、ユークリッドが放った正論を思わず肯定してしまった。ロゼとフリードリヒが乗った馬車を襲撃した敵は、歴戦の騎士でも、最強の暗殺者でも、ましてやドルトディチェ大公家の直系でもない、ただの盗賊だ。それならば、ユークリッドが雇う暗殺者だけでも、十分に対処できたはず。何ひとつ間違っていないユークリッドの発言に対して、ロゼはその通りだとあからさまに肩を落とした。
「今回は目を瞑りましょう。次は気をつけてくださいね」
「……気をつけます」
ロゼは素直に首を縦に振った。ユークリッドは彼女に近寄り、その小さな手を握る。ロゼが力を緩めると、自然と指が絡み合う。俗に言う、恋人繋ぎをしたふたり。掌全体から伝わる温もりに、ロゼは安心感を覚えた。
「今日も、姉上が無事でよかった」
ユークリッドは今にも消え入りそうな声で呟いた。
今日は本当にいろいろなことがあった一日だった。ドルトディチェ大公から鍵を受け取って闘技場近くの地下図書館に向かって調べ物をしたり、その直後にオーフェンが愚行を犯したと聞いて男爵の館に向かったり……。一日で一ヶ月分の苦労をしたような感覚だ。ロゼもユークリッドも怪我ひとつなく無事だが、ロゼにはひとつ、気がかりなことがあった。
「第六皇女殿下は、ご無事でしょうか?」
そう、アンナベルの身の安全だ。同じ女性として、彼女が遭った被害には、同情を寄せてしまう。ロゼが彼女の立場であったのなら、きっと正気ではいられなくなるだろうから。眉尻を下げアンナベルの無事を祈るロゼとは反対に、ユークリッドは飄々としていた。
「ユーラルア姉上とノエルがいるので問題ないでしょう。後日、第六皇女を誘拐したとして、大罪人を皇帝に突き出す予定です」
ユークリッドは、アンナベルに敬称もつけず、淡々と告げる。
大罪人、つまりオーフェンは、醜き人生も穢れた魂も自ら滅ぼしてしまうことになるだろう。今回は、一ヶ月の謹慎ごときでは済まされない。一生地下牢に監禁されればいいほう。悪くて処刑だ。どの道、ドルトディチェ大公家嫡男、序列第3位の立場は、抹消される。後継者争いではなく、己の欲に従った結果、処刑されるなど、哀れでならない。ロゼはオーフェンを心底嘲笑った。
「暗い話はもうやめましょう」
ユークリッドは話を中断させて、ロゼの髪を優しく撫で始める。その手つきは、異常なまでに優しい。
今回、アンナベルは、女性の尊厳を傷つけられてしまった。こんな時こそ、想い人であるユークリッドに慰めてほしい、傍にいてほしいと懇願しているであろう。しかしユークリッドは、彼女のことなど微塵も考えてはいない。脳内の中心を埋めるどころか、端をも陣取ることはできないのだ。あぁ、なんて可哀想なんだろう――。ユークリッドは、今回の事件になんら関係のないロゼの隣にいる。それを自覚した刹那、ロゼは言い表しようのない優越感の湖に片足を浸らせてしまった。なんて性悪なのだと自身を密かに呪う。
「姉上」
呼ばれて咄嗟に顔を上げると、唇を奪われる。ちゅ、と控えめなリップ音がした。そのまま何度か柔い口づけを繰り返すと、ぬるりと舌が侵入してくる。ロゼはろくに抵抗せず、身も焦がすような熱いキスに応じた。窓に叩きつける雨の音が響く中、ふたりを支配するのは互いの唾液音と熱であった。
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