上 下
90 / 183
本編

第89話 全ては憶測で

しおりを挟む
 視界を遮断したあと、唇に感じるのは温もり。噎せ返る甘い匂いが纏わりつく。ユークリッドとは違う、穏やかな愛の口づけ。小さなリップ音を立てて離れる。瞼の幕を上げると、眼前にフリードリヒの美顔が広がった。紅潮した頬。タンザナイト色の瞳に情熱が宿る。掻き立てられる熱に魘されそうになった時、フリードリヒは濡れそぼった唇を開いた。

「ロゼ、好きだよ。君のことが、好きだ」

 甘い告白に、ロゼは小刻みに総身を震わせた。フリードリヒへの気持ちが分からない上に、現状として彼の告白に応えることができない。肯定とも否定とも取れない感謝の意を示そうとすると、フリードリヒはソファーから立ち上がる。

「……おやすみ」

 フリードリヒは深夜の挨拶をして、柔和に微笑んだ。今はまだ、彼も明確な答えを望んではいない。それに安心したロゼは、腰を上げ、フリードリヒを見送る。
 扉の前、フリードリヒはふと立ち止まる。

「また明日、ドルトディチェ大公城まで送ってくよ」

 振り返りながらそう言った。ありがたい申し出に、ロゼは頷く。フリードリヒは親愛の意味を込め、彼女を抱きしめたあと、ドアノブに触れる。キィ、という音と共に開いた木製の扉から静まり返る廊下に出た。

「おやすみなさい」

 夜の挨拶を返すと、フリードリヒは軽く笑って、扉を閉めた。客室にひとりきりとなったロゼは、灯りを最小限にして、ベッドに腰掛ける。しんみりとした空気感の中、今日の出来事を回想した。
 建国記念祭。建国の記念日を祝福する今日という日に、ユークリッドは皇帝よりアンナベルとの結婚を推奨された。彼は少しも動揺せず、顔色も変わっていなかった。もしかしたら、ロゼの知らないところでも、何度か皇帝からアンナベルとの婚約の話を持ちかけられていたかもしれない。そうならば、ユークリッドがまったく動揺していなかったのも頷ける。これまで上手いことはぐらかしてきたが、皆の前で言われてしまえば、のらりくらりとはぐらかすこともなかなかに難しかったのだろう。だが協力者であるユーラルアの助けもあって、ユークリッドは非常事態を乗り切ることができた。しかしロゼが気にしているのはそこではない。

「ユークリッド。あなたは第六皇女殿下のことを、どう思っているの?」

 ロゼが気にしているのは、ユークリッドの本心だ。ちなみにロゼが彼に向ける気持ちは、説明のしようがないほど複雑で巨大なものである。しかしふたりは、義理の姉弟だ。血は繋っていないため婚姻を結べないわけではないが、障害であることは確か。ところが、ユークリッドとアンナベルの間には、なんの障害もない。つまり、ユークリッドがアンナベルと結婚したいと望めば、すぐにでも結婚できてしまう状況にあるのだ。だが、絶賛後継者争いの真っ只中にいるユークリッドにとっては、ロゼやダリア以外に守る人間が増えるため、少々負担に感じるであろうこともいなめない。言い換えれば、後継者の座を確立させたらすぐにでも、アンナベルを娶ることができる。そう、ユークリッドさえ、望めば……。彼は、アンナベルを愛しているのか。大公の妻としてふさわしいとしか思っていないのか。それとも、前者ふたつとまったく別、愛してもいなければ妻にしたいとも思っていないのか。

「はぁ……。こんなこと考えても、ユークリッドの気持ちなんて分かるはずないわよ……」

 ロゼは独り言をこぼし、ベッドに横たわる。ふわふわの質感のブランケットに潜り、心を落ち着かせる。

「ユークリッド……」

 ユークリッドの名を呼ぶ。当たり前だが、返事はない。
 あの抜かりないユークリッドがアンナベルの立ち位置を有耶無耶うやむやにするだろうか。愛しているから手に入れたい、大公の座のために必要な人間だ。そう思っているなら、ロゼのように自身の懐に入れるのではないか。いくら彼の思考を探ろうとも、答えを知ることはできない。だがユークリッドは、アンナベルとキスまでしていたのだ。「今は公にはできないですが、いずれは一緒になりましょう」などと、甘い言葉で唆しているのだろう。ロゼは、自傷気味に笑う。

「その調子よ、ユークリッド。その、その意気で、振り返らないで……」

 どうか、あなたとの間にある感情に、繋がった鎖に、私が名前を与える前に――。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

30年待たされた異世界転移

明之 想
ファンタジー
 気づけば異世界にいた10歳のぼく。 「こちらの手違いかぁ。申し訳ないけど、さっさと帰ってもらわないといけないね」  こうして、ぼくの最初の異世界転移はあっけなく終わってしまった。  右も左も分からず、何かを成し遂げるわけでもなく……。  でも、2度目があると確信していたぼくは、日本でひたすら努力を続けた。  あの日見た夢の続きを信じて。  ただ、ただ、異世界での冒険を夢見て!!  くじけそうになっても努力を続け。  そうして、30年が経過。  ついに2度目の異世界冒険の機会がやってきた。  しかも、20歳も若返った姿で。  異世界と日本の2つの世界で、  20年前に戻った俺の新たな冒険が始まる。

Wヒロインの乙女ゲームの元ライバルキャラに転生したけれど、ヤンデレにタゲられました。

舘野寧依
恋愛
ヤンデレさんにストーカーされていた女子高生の月穂はある日トラックにひかれてしまう。 そんな前世の記憶を思い出したのは、十七歳、女神選定試験が開始されるまさにその時だった。 そこでは月穂は大貴族のお嬢様、クリスティアナ・ド・セレスティアと呼ばれていた。 それは月穂がよくプレイしていた乙女ゲーのライバルキャラ(デフォルト)の名だった。 なぜか魔術師様との親密度と愛情度がグラフで視界に現れるし、どうやらここは『女神育成~魔術師様とご一緒に~』の世界らしい。 まあそれはいいとして、最悪なことにあのヤンデレさんが一緒に転生していて告白されました。 そしてまた、新たに別のヤンデレさんが誕生して見事にタゲられてしまい……。 そんな過剰な愛はいらないので、お願いですから普通に恋愛させてください。

愛されない花嫁はいなくなりました。

豆狸
恋愛
私には以前の記憶がありません。 侍女のジータと川遊びに行ったとき、はしゃぎ過ぎて船から落ちてしまい、水に流されているうちに岩で頭を打って記憶を失ってしまったのです。 ……間抜け過ぎて自分が恥ずかしいです。

悪役令嬢はお断りです

あみにあ
恋愛
あの日、初めて王子を見た瞬間、私は全てを思い出した。 この世界が前世で大好きだった小説と類似している事実を————。 その小説は王子と侍女との切ない恋物語。 そして私はというと……小説に登場する悪役令嬢だった。 侍女に執拗な虐めを繰り返し、最後は断罪されてしまう哀れな令嬢。 このまま進めば断罪コースは確定。 寒い牢屋で孤独に過ごすなんて、そんなの嫌だ。 何とかしないと。 でもせっかく大好きだった小説のストーリー……王子から離れ見られないのは悲しい。 そう思い飛び出した言葉が、王子の護衛騎士へ志願することだった。 剣も持ったことのない温室育ちの令嬢が 女の騎士がいないこの世界で、初の女騎士になるべく奮闘していきます。 そんな小説の世界に転生した令嬢の恋物語。 ●表紙イラスト:San+様(Twitterアカウント@San_plus_) ●毎日21時更新(サクサク進みます) ●全四部構成:133話完結+おまけ(2021年4月2日 21時完結)  (第一章16話完結/第二章44話完結/第三章78話完結/第四章133話で完結)。

【電子書籍化進行中】声を失った令嬢は、次期公爵の義理のお兄さまに恋をしました

八重
恋愛
※発売日少し前を目安に作品を引き下げます 修道院で生まれ育ったローゼマリーは、14歳の時火事に巻き込まれる。 その火事の唯一の生き残りとなった彼女は、領主であるヴィルフェルト公爵に拾われ、彼の養子になる。 彼には息子が一人おり、名をラルス・ヴィルフェルトといった。 ラルスは容姿端麗で文武両道の次期公爵として申し分なく、社交界でも評価されていた。 一方、怠惰なシスターが文字を教えなかったため、ローゼマリーは読み書きができなかった。 必死になんとか義理の父や兄に身振り手振りで伝えようとも、なかなか伝わらない。 なぜなら、彼女は火事で声を失ってしまっていたからだ── そして次第に優しく文字を教えてくれたり、面倒を見てくれるラルスに恋をしてしまって……。 これは、義理の家族の役に立ちたくて頑張りながら、言えない「好き」を内に秘める、そんな物語。 ※小説家になろうが先行公開です

大学生活を謳歌しようとしたら、女神の勝手で異世界に転送させられたので、復讐したいと思います

町島航太
ファンタジー
2022年2月20日。日本に住む善良な青年である泉幸助は大学合格と同時期に末期癌だという事が判明し、短い人生に幕を下ろした。死後、愛の女神アモーラに見初められた幸助は魔族と人間が争っている魔法の世界へと転生させられる事になる。命令が嫌いな幸助は使命そっちのけで魔法の世界を生きていたが、ひょんな事から自分の死因である末期癌はアモーラによるものであり、魔族討伐はアモーラの私情だという事が判明。自ら手を下すのは面倒だからという理由で夢のキャンパスライフを失った幸助はアモーラへの復讐を誓うのだった。

処理中です...