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本編
第86話 緊急事態への対処
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馬車の中。ロゼとフリードリヒは、向かい合って座っていた。暗がりの中で流れる景色を眺めていると、フリードリヒが話しかけてきた。
「まさか、皇帝陛下があんな公の場で、ドルトディチェ大公令息に第六皇女殿下との結婚を催促するとは……。末恐ろしいね」
「……そうね」
「確かにあのおふたりはお似合いだけど、皇帝陛下のやり方は好かないな」
フリードリヒは目を瞑り、首を左右に振った。彼の言う通り、皇帝のやり方は褒められたものではない。いくらルティレータ帝国の頂きに君臨する王と言っても、やっていいことといけないことがある。貴族、それも唯一の大公家の信用を損なうようでは、皇帝失格だろう。
皇帝は、公の場でアンナベルとの結婚を催促すれば、ユークリッドが断ることができないと踏んだのだ。知っての通り、ユークリッドは一介の貴族令息ではない。一定の領地、つまりは小国を統治することができる大公の爵位を賜った一族の一員。それも次の大公の有力候補でもある。そんなユークリッドに、自身の愛娘であるアンナベルとの結婚を無理に催促するとは。これまで比較的忠実に仕えてきたドルトディチェの信頼を裏切る愚行とも言えよう。
ユークリッドはまったく顔色を変えていなかったが、内心は焦っていたはず。公衆の面前、それも帝国の君主に対して、どう答えるべきか、と。ユーラルアが機転を利かせたおかげで、ユークリッドも困難な状況を上手く切り抜けることができたが。ユーラルアがグラスを落としていなければ、どうなっていたことやら。
『何より、娘は貴殿を好いている。私は娘の気持ちを尊重したい』
ロゼはふと、皇帝の言葉を思い出した。
アンナベルのためとは謳っているが、真相は定かではない。ドルトディチェ大公家と親密な関係になり、意のままに操りたいのかもしれない。皇帝の隠れた思惑に、ロゼは吐き気を催した。
しかしながら、アンナベルがユークリッドを想っていることは事実だろう。反対に、ユークリッドはどうなのか。大公の冠を手に入れるために必要なことはなんでもするユークリッド。だが果たして、それにアンナベルとの婚約は含まれているのだろうか。ドルトディチェ大公家の当主となるため、皇族の直系、それも皇帝の愛娘であるアンナベルを婚約者に迎えれば、皇族の後ろ楯を手に入れることができる。ユークリッドが皇族の後ろ楯を欲しているかそうでないかは別として、現実的に考えれば有益なことしかないだろう。それに比べロゼは、たとえ姉弟の垣根を越え、ユークリッドと婚約したとしても、彼にはなんの利益ももたらすことができない。誇れるのは、摩訶不思議な治癒能力だけ。それ以外はなんの価値もないただの女性だ。しっかりと自覚したロゼは、胸が張り裂けそうな思いをする。
何かを我慢するロゼを見て、フリードリヒが口を開きかけたその瞬刻、突如としてガタンと馬車が激しく揺れる。馬の鳴き声が聞こえ、馬車は急停止した。
「何が……」
ロゼが声を発すると、フリードリヒが唇に人差し指を押し当て、黙るよう促す。ロゼは口を噤み、息を呑んだ。フリードリヒは、立てかけてあった剣を手に取り、音を殺して扉を開ける。そして、後ろ手に扉を閉めた。やけに冷え込んだ空気に、ロゼは身も凍る感覚を覚える。早く戻ってきて、と心の中で叫んだ数秒後、何人かの断末魔が聞こえた。間違いなく、フリードリヒのものではない。彼が、殺したのだ――。ロゼの予測した通り、馬車へと戻ってきたフリードリヒの服には、べっとりと血が付着していた。
「フリードリヒ……」
「貴族狙いの盗賊だ。部下たちと……暗殺者が加勢してくれたおかげで全員息の根は止めたよ」
「暗殺者……?」
「たぶんロゼを守っている暗殺者じゃないかな?」
ロゼは戸惑いつつも、頷いた。喧嘩してもなお、ユークリッドは自分を守ってくれているのだ。いたたまれない気持ちとなる。
「まだ危険だな……。この場所からなら、僕の城のほうが近い。とりあえずそこに避難をしよう」
フリードリヒの冷静な提案に、ロゼは思案する。
『無断で宿泊することは決してしないと、俺と約束を』
かつて、フリードリヒの城に外泊した時、朝一番で迎えに来たユークリッドから受けた忠告を思い出す。彼の忠告に従うべきなのだろうが、何せ今は喧嘩中だ。それに必ずしもユークリッドの意向を全て受け入れなければならない理由はない。少し歯向かいたくなってしまったロゼは、とりあえず身の安全を確保しなければならないとそれらしい理由をつけて、フリードリヒの提案に対して首肯した。フリードリヒは真剣な面持ちとなり、馬車の扉を開けて、護衛のひとりにドルトディチェ大公城への遣いを頼んだ。
「まさか、皇帝陛下があんな公の場で、ドルトディチェ大公令息に第六皇女殿下との結婚を催促するとは……。末恐ろしいね」
「……そうね」
「確かにあのおふたりはお似合いだけど、皇帝陛下のやり方は好かないな」
フリードリヒは目を瞑り、首を左右に振った。彼の言う通り、皇帝のやり方は褒められたものではない。いくらルティレータ帝国の頂きに君臨する王と言っても、やっていいことといけないことがある。貴族、それも唯一の大公家の信用を損なうようでは、皇帝失格だろう。
皇帝は、公の場でアンナベルとの結婚を催促すれば、ユークリッドが断ることができないと踏んだのだ。知っての通り、ユークリッドは一介の貴族令息ではない。一定の領地、つまりは小国を統治することができる大公の爵位を賜った一族の一員。それも次の大公の有力候補でもある。そんなユークリッドに、自身の愛娘であるアンナベルとの結婚を無理に催促するとは。これまで比較的忠実に仕えてきたドルトディチェの信頼を裏切る愚行とも言えよう。
ユークリッドはまったく顔色を変えていなかったが、内心は焦っていたはず。公衆の面前、それも帝国の君主に対して、どう答えるべきか、と。ユーラルアが機転を利かせたおかげで、ユークリッドも困難な状況を上手く切り抜けることができたが。ユーラルアがグラスを落としていなければ、どうなっていたことやら。
『何より、娘は貴殿を好いている。私は娘の気持ちを尊重したい』
ロゼはふと、皇帝の言葉を思い出した。
アンナベルのためとは謳っているが、真相は定かではない。ドルトディチェ大公家と親密な関係になり、意のままに操りたいのかもしれない。皇帝の隠れた思惑に、ロゼは吐き気を催した。
しかしながら、アンナベルがユークリッドを想っていることは事実だろう。反対に、ユークリッドはどうなのか。大公の冠を手に入れるために必要なことはなんでもするユークリッド。だが果たして、それにアンナベルとの婚約は含まれているのだろうか。ドルトディチェ大公家の当主となるため、皇族の直系、それも皇帝の愛娘であるアンナベルを婚約者に迎えれば、皇族の後ろ楯を手に入れることができる。ユークリッドが皇族の後ろ楯を欲しているかそうでないかは別として、現実的に考えれば有益なことしかないだろう。それに比べロゼは、たとえ姉弟の垣根を越え、ユークリッドと婚約したとしても、彼にはなんの利益ももたらすことができない。誇れるのは、摩訶不思議な治癒能力だけ。それ以外はなんの価値もないただの女性だ。しっかりと自覚したロゼは、胸が張り裂けそうな思いをする。
何かを我慢するロゼを見て、フリードリヒが口を開きかけたその瞬刻、突如としてガタンと馬車が激しく揺れる。馬の鳴き声が聞こえ、馬車は急停止した。
「何が……」
ロゼが声を発すると、フリードリヒが唇に人差し指を押し当て、黙るよう促す。ロゼは口を噤み、息を呑んだ。フリードリヒは、立てかけてあった剣を手に取り、音を殺して扉を開ける。そして、後ろ手に扉を閉めた。やけに冷え込んだ空気に、ロゼは身も凍る感覚を覚える。早く戻ってきて、と心の中で叫んだ数秒後、何人かの断末魔が聞こえた。間違いなく、フリードリヒのものではない。彼が、殺したのだ――。ロゼの予測した通り、馬車へと戻ってきたフリードリヒの服には、べっとりと血が付着していた。
「フリードリヒ……」
「貴族狙いの盗賊だ。部下たちと……暗殺者が加勢してくれたおかげで全員息の根は止めたよ」
「暗殺者……?」
「たぶんロゼを守っている暗殺者じゃないかな?」
ロゼは戸惑いつつも、頷いた。喧嘩してもなお、ユークリッドは自分を守ってくれているのだ。いたたまれない気持ちとなる。
「まだ危険だな……。この場所からなら、僕の城のほうが近い。とりあえずそこに避難をしよう」
フリードリヒの冷静な提案に、ロゼは思案する。
『無断で宿泊することは決してしないと、俺と約束を』
かつて、フリードリヒの城に外泊した時、朝一番で迎えに来たユークリッドから受けた忠告を思い出す。彼の忠告に従うべきなのだろうが、何せ今は喧嘩中だ。それに必ずしもユークリッドの意向を全て受け入れなければならない理由はない。少し歯向かいたくなってしまったロゼは、とりあえず身の安全を確保しなければならないとそれらしい理由をつけて、フリードリヒの提案に対して首肯した。フリードリヒは真剣な面持ちとなり、馬車の扉を開けて、護衛のひとりにドルトディチェ大公城への遣いを頼んだ。
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