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本編
第69話 狼狽
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フリードリヒの誕生パーティーから帰還したロゼは、入浴を済ませるなりすぐに眠りについた。疲労もあってからか、一度も起きることはなく、朝を迎える。彼女を深い睡眠の海から引っ張り上げたのは、リエッタ。何度も名を呼ばれ、ロゼは目を覚ました。昨晩の疲労もあってからか、まだまだ寝足りない。ふよふよと宙を浮くような気分の中、彼女はベッドから上体を起こした。
「朝早く失礼いたします。ユークリッド様がお見えです」
ロゼの眠気は、一瞬にして吹っ飛ぶ。
早朝、まだ太陽が昇ったばかりの時刻なのにも関わらず、ユークリッドがロゼを訪問してきた。彼の言いつけ通り、フリードリヒの城にて外泊はしていない。緊急の用事でもあるのだろうか。ロゼは寝起きで痛む頭を押さえ、ベッドから下りる。
「……準備をするわ」
「その、もうそこまで……」
リエッタが話し始めた時、扉の向こう側が騒がしくなる。騎士たちを半ば押し切る形で、ロゼの寝室に入室したのは、なんとユークリッドであった。早朝だというのに、苛立つほどハンサムだ。
「おはようございます、姉上」
「………………」
ロゼは、リエッタに目配せをして、下がるよう指示を出す。リエッタは一礼をして、大人しく寝室から出ていった。パタン、と閉まる扉。完全に外界と遮断されたロゼは、ユークリッドとふたりきりの空間に若干の息苦しさを覚えた。
「早朝からなんの用でしょうか?」
「姉上が俺との約束を守り、無事に帰ってきたかどうか確認をしに来ました」
「……どうせ、もう既に報告を受けているのでしょう?」
ユークリッドは答えない。沈黙を肯定だと受け取ったロゼは、か細い息を吐いた。そのあと、ユークリッドが纏う空気が明瞭な怒気を含んでいることに気がつく。眉間に深い皺は刻まれてはいないものの、ブラッドレッドの瞳はだいぶ濁っている。いつも以上に、何を考えているか認識しがたい。
「メルドレール公爵とのひとときはいかがでしたか?」
「……特に何も」
ロゼは当たり障りのない返答をする。
いかがだったか、と問われれば、楽しい気持ちと少し面倒な気持ちが入り交じっている。フリードリヒが自らの妻の座に、ロゼを迎えようとしているという噂は、尾鰭をつけて広まるだろうが、キスをしてしまったことは誰にも見られていない、はず。よって、白を切るのも容易だ。そう踏んで、飄々とした態度を取っていると。
「……姉上は酷いお方だ」
突如として、ユークリッドがぽろりとこぼした言葉に、ロゼは違和感を抱えた。小首を傾げつつ、ユークリッドのほうへ仰向く。刹那、ロゼの総身が激しく震える。殺気が背中を駆け上がり、ロゼはピクリとも動けなくなってしまった。ユークリッドの美貌は、前代未聞なまでに、凍てついていた。「酷いお方だ」と言いつつも、柔和な雰囲気を纏い、穏やかに笑うユークリッドはどこにもいない。極限の、無。出入口の存在しない迷宮に閉じ込められた感覚に陥ったロゼは、徐々に口内が乾いていくのを感じた。
「俺の言葉を覚えていますか? 俺に隠し事など、一切しないでくださいとお願いをしましたよね? もしや、もうお忘れですか? それとも、メルドレール公爵と過ごす夜は俺と過ごす夜よりも素晴らしいものだったのでしょうか」
感情の起伏がない。一定の速度、一定の抑揚で語られた疑問に、ロゼは挙措を失ってしまった。
「既に噂は、皇都に広まっています」
「うわ、さ」
「メルドレール公爵が妻として姉上を迎えたいと考えているという噂ですよ。身に覚えは?」
「っ…………」
周章狼狽する。珍しく取り乱すロゼを見て、ユークリッドは切れ長の目をさらに細めた。フリードリヒは、言葉のあやであったと誤魔化しておくと言っていたが、どうやらその誤魔化しを貴族たちは信じなかったみたいだ。今思えば、あの純粋無垢なフリードリヒが嘘をつけるはずもない。それに最初から、真実でなくとも噂は広まるだろうと分かっていたはず。狼狽えることはない、とロゼは自身を諭した。
ユークリッドは、ベッドに座るロゼに近寄る。ロゼは視線を絨毯に落とした。
「何も、されていませんよね?」
ロゼは僅かに顔を上げる。ぶらっと垂れ下がるユークリッドの手が見えた。ロゼは動揺を完璧に押し殺し、二度、首肯する。
「本当ですか? 口づけも?」
ヒュッ、と喉が鳴る。ロゼは思わず、ユークリッドと目を合わせてしまった。血色の眸子に一筋の光が迸り、怒りで濡れる。歪んでいた赤めの唇がゆっくりと開かれる。
「あぁ、また嘘をついたんですね」
ユークリッドはロゼの乾いた唇に親指で触れる。白い布の感触が唇を這う。
「もしかして、いいえ、もしかしなくてもあなたは、あの男にここに触れる権利を与えてしまわれたのですか?」
「朝早く失礼いたします。ユークリッド様がお見えです」
ロゼの眠気は、一瞬にして吹っ飛ぶ。
早朝、まだ太陽が昇ったばかりの時刻なのにも関わらず、ユークリッドがロゼを訪問してきた。彼の言いつけ通り、フリードリヒの城にて外泊はしていない。緊急の用事でもあるのだろうか。ロゼは寝起きで痛む頭を押さえ、ベッドから下りる。
「……準備をするわ」
「その、もうそこまで……」
リエッタが話し始めた時、扉の向こう側が騒がしくなる。騎士たちを半ば押し切る形で、ロゼの寝室に入室したのは、なんとユークリッドであった。早朝だというのに、苛立つほどハンサムだ。
「おはようございます、姉上」
「………………」
ロゼは、リエッタに目配せをして、下がるよう指示を出す。リエッタは一礼をして、大人しく寝室から出ていった。パタン、と閉まる扉。完全に外界と遮断されたロゼは、ユークリッドとふたりきりの空間に若干の息苦しさを覚えた。
「早朝からなんの用でしょうか?」
「姉上が俺との約束を守り、無事に帰ってきたかどうか確認をしに来ました」
「……どうせ、もう既に報告を受けているのでしょう?」
ユークリッドは答えない。沈黙を肯定だと受け取ったロゼは、か細い息を吐いた。そのあと、ユークリッドが纏う空気が明瞭な怒気を含んでいることに気がつく。眉間に深い皺は刻まれてはいないものの、ブラッドレッドの瞳はだいぶ濁っている。いつも以上に、何を考えているか認識しがたい。
「メルドレール公爵とのひとときはいかがでしたか?」
「……特に何も」
ロゼは当たり障りのない返答をする。
いかがだったか、と問われれば、楽しい気持ちと少し面倒な気持ちが入り交じっている。フリードリヒが自らの妻の座に、ロゼを迎えようとしているという噂は、尾鰭をつけて広まるだろうが、キスをしてしまったことは誰にも見られていない、はず。よって、白を切るのも容易だ。そう踏んで、飄々とした態度を取っていると。
「……姉上は酷いお方だ」
突如として、ユークリッドがぽろりとこぼした言葉に、ロゼは違和感を抱えた。小首を傾げつつ、ユークリッドのほうへ仰向く。刹那、ロゼの総身が激しく震える。殺気が背中を駆け上がり、ロゼはピクリとも動けなくなってしまった。ユークリッドの美貌は、前代未聞なまでに、凍てついていた。「酷いお方だ」と言いつつも、柔和な雰囲気を纏い、穏やかに笑うユークリッドはどこにもいない。極限の、無。出入口の存在しない迷宮に閉じ込められた感覚に陥ったロゼは、徐々に口内が乾いていくのを感じた。
「俺の言葉を覚えていますか? 俺に隠し事など、一切しないでくださいとお願いをしましたよね? もしや、もうお忘れですか? それとも、メルドレール公爵と過ごす夜は俺と過ごす夜よりも素晴らしいものだったのでしょうか」
感情の起伏がない。一定の速度、一定の抑揚で語られた疑問に、ロゼは挙措を失ってしまった。
「既に噂は、皇都に広まっています」
「うわ、さ」
「メルドレール公爵が妻として姉上を迎えたいと考えているという噂ですよ。身に覚えは?」
「っ…………」
周章狼狽する。珍しく取り乱すロゼを見て、ユークリッドは切れ長の目をさらに細めた。フリードリヒは、言葉のあやであったと誤魔化しておくと言っていたが、どうやらその誤魔化しを貴族たちは信じなかったみたいだ。今思えば、あの純粋無垢なフリードリヒが嘘をつけるはずもない。それに最初から、真実でなくとも噂は広まるだろうと分かっていたはず。狼狽えることはない、とロゼは自身を諭した。
ユークリッドは、ベッドに座るロゼに近寄る。ロゼは視線を絨毯に落とした。
「何も、されていませんよね?」
ロゼは僅かに顔を上げる。ぶらっと垂れ下がるユークリッドの手が見えた。ロゼは動揺を完璧に押し殺し、二度、首肯する。
「本当ですか? 口づけも?」
ヒュッ、と喉が鳴る。ロゼは思わず、ユークリッドと目を合わせてしまった。血色の眸子に一筋の光が迸り、怒りで濡れる。歪んでいた赤めの唇がゆっくりと開かれる。
「あぁ、また嘘をついたんですね」
ユークリッドはロゼの乾いた唇に親指で触れる。白い布の感触が唇を這う。
「もしかして、いいえ、もしかしなくてもあなたは、あの男にここに触れる権利を与えてしまわれたのですか?」
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