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本編
第58話 哀れな子
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「そうですか。ならばなぜ、姉上が寝込みを襲われたということを知っているのですか?」
その一言により、氷河が砕かれるような音が響く。明らかな亀裂が入った空間は、ミューゼを奈落の底に突き落とすには十分すぎるものであった。ユークリッドは、ロゼが襲われたと報告はしたが、いつ、どこでと詳細は何も話していない。しかしミューゼはたった今、はっきりと「寝込みを襲う」と言ったのだ。口を滑らせてしまったのだと理解したミューゼの顔色は、一気に青ざめる。
「失言をしたな、ミューゼ」
ドルトディチェ大公が高らかに笑いながらそう言った。どう説明をして、どう誤魔化そうとも、彼は聞く耳を持たないだろう。ミューゼは、奈落の底に落ちるだけでなく、そこに生息する肉に飢えた獰猛な獣に襲われる感覚に陥り、失禁してしまいそうになった。
「お、お待ちください。何かの間違いではありませんか? 母上がそんなことをするなど、信じられません。もう一度調査を」
「必要ありません。たかが愛人が暗殺組織と繋がっていたとは驚きですが……ミューゼ様は直系をふたりも生んでいるお方です。なんらおかしくないでしょう」
ヴァルトの訴えは、簡単に鎮圧されてしまった。ユークリッドの言い分は、正しい。直系を生んだ女性と、ただの愛人という枠で収まる女性とでは、身分も権力も天と地の差がある。
ユークリッドはヴァルトに視線を向ける。深緋の双眸が瞬いた。
「ダリア様と姉上の命を狙った罪は重い。ここで粛清をしなければ、またもよからぬことを企む輩が現れかねません。分かって、いただけますよね? ヴァルト兄上」
ヴァルトは首を激しく左右に振り、周章狼狽する。いつもは冷静沈着な顔も、動揺に染まっていた。
「これは間違いだ……。違う……。違いますっ! 父上っ!!! お願いします!!! どうか調査をっ」
「必要ないと言っただろう」
ヴァルトの必死の進言も、ドルトディチェ大公によって退けられる。ヴァルトは唇を噛み切る勢いで悔しげな相好となる。彼の標的はすぐさま実姉であり、ミューゼの長女であるユーラルアに向けられた。
「姉上っ……姉上も何かっ……」
意見を求められたユーラルアは、少しも笑っていなかった。いい意味でも悪い意味でも感情豊かの彼女は、まるでロゼやユークリッドのように、無表情を浮かべている。
「クソ女が……。本当に、余計で害悪なことしかしないですわね」
ユーラルアは死んだ魚の目をしながら、愚痴る。唯一の頼みの綱であった姉はまったく役に立たないと実感したヴァルトは、絶念してしまいそうになった。
「その女を地下牢に連れていけ」
ドルトディチェ大公の指示で一斉に動き出す騎士たち。彼らは、逃亡する気力も失い傀儡と化したミューゼを難なく捕獲する。周囲の愛人たちは、短い悲鳴を上げた。
「母上に触るなっ!!!」
ヴァルトは咄嗟の判断と怒りにより、魔法を発動する。ミューゼを取り巻いていた騎士たちは、魔法で作り出された突風で吹き飛んだ。壁にめり込む者もいれば、四肢が折れてしまっている者、中には血を流している者までいた。ヴァルトの魔法の威力を目の当たりにしたロゼは、彼自体が脅威になりうると再確認をする。
「ヴァルト。それ以上邪魔をすれば、お前ももれなくあの世行きだが、どうする?」
「……ここで戦いますっ!」
ドルトディチェ大公の忠告を無視して母親の命を助ける選択をした愚かなヴァルトは、魔法を発動しようと手を振りかざした。しかし、それを止める者がひとり。ミューゼだ。
「お待ちくださいっ! 地下牢にっ、地下牢に行きます! ですからどうか……ヴァルトに手を出さないでください」
ミューゼは悲痛に泣き叫ぶ。ほかの騎士たちが再度彼女を取り押さえ、無理やり連行を試みる。ヴァルトはミューゼを追いかけようとする。それがミューゼの決死の覚悟を踏み躙る行いになるとも知らずに。だがまたも、ドルトディチェ大公が止める。
「母の思いを無駄にする気か? 親不孝なガキだ。テメェら共々野犬の餌になりてぇか?」
「……失礼、いたしました……。ご無礼をお許しください」
ヴァルトはようやく、大人しく引き下がったのであった。すっかりと俯いてしまった彼の表情を窺うことはできないが、耐えがたい辛苦を抱いているのは、確かであった。ロゼが彼から目を離すと、ドルトディチェ大公と視線がかち合う。その時彼女は、ヴァルトを観察しておけばよかったと悔悟した。
「ロゼ。ミューゼは神々の永遠の祝福を授かるに足る人間だと思うか?」
ドルトディチェ大公の口元は、三日月形に吊り上がる。返答次第でその口の歪みはどうとでも変化するわけであるが、どうか真一文字に結ばれることはないように、とロゼは密かに祈りを捧げた。
「さぁ、どうでしょう。分かりません。ですが、結局はディモン伯爵令嬢を唆し、暗殺組織との仲介を務めたに過ぎない、腰抜けなお方なのではないでしょうか」
ロゼは用が済んだと言わんばかりに、ドルトディチェ大公に辞儀をする。ユークリッドも同様に頭を下げた。彼はロゼの元まで歩いて来ると、スッと手を差し出す。ロゼは自身の手を重ね、そのまま王座の間を立ち去ったのであった。
その一言により、氷河が砕かれるような音が響く。明らかな亀裂が入った空間は、ミューゼを奈落の底に突き落とすには十分すぎるものであった。ユークリッドは、ロゼが襲われたと報告はしたが、いつ、どこでと詳細は何も話していない。しかしミューゼはたった今、はっきりと「寝込みを襲う」と言ったのだ。口を滑らせてしまったのだと理解したミューゼの顔色は、一気に青ざめる。
「失言をしたな、ミューゼ」
ドルトディチェ大公が高らかに笑いながらそう言った。どう説明をして、どう誤魔化そうとも、彼は聞く耳を持たないだろう。ミューゼは、奈落の底に落ちるだけでなく、そこに生息する肉に飢えた獰猛な獣に襲われる感覚に陥り、失禁してしまいそうになった。
「お、お待ちください。何かの間違いではありませんか? 母上がそんなことをするなど、信じられません。もう一度調査を」
「必要ありません。たかが愛人が暗殺組織と繋がっていたとは驚きですが……ミューゼ様は直系をふたりも生んでいるお方です。なんらおかしくないでしょう」
ヴァルトの訴えは、簡単に鎮圧されてしまった。ユークリッドの言い分は、正しい。直系を生んだ女性と、ただの愛人という枠で収まる女性とでは、身分も権力も天と地の差がある。
ユークリッドはヴァルトに視線を向ける。深緋の双眸が瞬いた。
「ダリア様と姉上の命を狙った罪は重い。ここで粛清をしなければ、またもよからぬことを企む輩が現れかねません。分かって、いただけますよね? ヴァルト兄上」
ヴァルトは首を激しく左右に振り、周章狼狽する。いつもは冷静沈着な顔も、動揺に染まっていた。
「これは間違いだ……。違う……。違いますっ! 父上っ!!! お願いします!!! どうか調査をっ」
「必要ないと言っただろう」
ヴァルトの必死の進言も、ドルトディチェ大公によって退けられる。ヴァルトは唇を噛み切る勢いで悔しげな相好となる。彼の標的はすぐさま実姉であり、ミューゼの長女であるユーラルアに向けられた。
「姉上っ……姉上も何かっ……」
意見を求められたユーラルアは、少しも笑っていなかった。いい意味でも悪い意味でも感情豊かの彼女は、まるでロゼやユークリッドのように、無表情を浮かべている。
「クソ女が……。本当に、余計で害悪なことしかしないですわね」
ユーラルアは死んだ魚の目をしながら、愚痴る。唯一の頼みの綱であった姉はまったく役に立たないと実感したヴァルトは、絶念してしまいそうになった。
「その女を地下牢に連れていけ」
ドルトディチェ大公の指示で一斉に動き出す騎士たち。彼らは、逃亡する気力も失い傀儡と化したミューゼを難なく捕獲する。周囲の愛人たちは、短い悲鳴を上げた。
「母上に触るなっ!!!」
ヴァルトは咄嗟の判断と怒りにより、魔法を発動する。ミューゼを取り巻いていた騎士たちは、魔法で作り出された突風で吹き飛んだ。壁にめり込む者もいれば、四肢が折れてしまっている者、中には血を流している者までいた。ヴァルトの魔法の威力を目の当たりにしたロゼは、彼自体が脅威になりうると再確認をする。
「ヴァルト。それ以上邪魔をすれば、お前ももれなくあの世行きだが、どうする?」
「……ここで戦いますっ!」
ドルトディチェ大公の忠告を無視して母親の命を助ける選択をした愚かなヴァルトは、魔法を発動しようと手を振りかざした。しかし、それを止める者がひとり。ミューゼだ。
「お待ちくださいっ! 地下牢にっ、地下牢に行きます! ですからどうか……ヴァルトに手を出さないでください」
ミューゼは悲痛に泣き叫ぶ。ほかの騎士たちが再度彼女を取り押さえ、無理やり連行を試みる。ヴァルトはミューゼを追いかけようとする。それがミューゼの決死の覚悟を踏み躙る行いになるとも知らずに。だがまたも、ドルトディチェ大公が止める。
「母の思いを無駄にする気か? 親不孝なガキだ。テメェら共々野犬の餌になりてぇか?」
「……失礼、いたしました……。ご無礼をお許しください」
ヴァルトはようやく、大人しく引き下がったのであった。すっかりと俯いてしまった彼の表情を窺うことはできないが、耐えがたい辛苦を抱いているのは、確かであった。ロゼが彼から目を離すと、ドルトディチェ大公と視線がかち合う。その時彼女は、ヴァルトを観察しておけばよかったと悔悟した。
「ロゼ。ミューゼは神々の永遠の祝福を授かるに足る人間だと思うか?」
ドルトディチェ大公の口元は、三日月形に吊り上がる。返答次第でその口の歪みはどうとでも変化するわけであるが、どうか真一文字に結ばれることはないように、とロゼは密かに祈りを捧げた。
「さぁ、どうでしょう。分かりません。ですが、結局はディモン伯爵令嬢を唆し、暗殺組織との仲介を務めたに過ぎない、腰抜けなお方なのではないでしょうか」
ロゼは用が済んだと言わんばかりに、ドルトディチェ大公に辞儀をする。ユークリッドも同様に頭を下げた。彼はロゼの元まで歩いて来ると、スッと手を差し出す。ロゼは自身の手を重ね、そのまま王座の間を立ち去ったのであった。
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