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本編

第39話 この感情に名を

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 動揺に襲われるロゼを目の当たりにしたユークリッドは、突然ワインボトルとふたつのグラスを置き、その場で跪く。拍子に、さらりと落ちる前髪。瞼の扉に隠れていた臙脂えんじ眸子ぼうしが現れる。

「我が愛しき姉上。俺はこの命にかえても、あなたを守り抜くことを誓いましょう」

 心地のよい声が紡ぐ言詞は、ロゼの胸を深く穿つ。滅多に変容しない面貌めんぼうが僅かに変化を遂げる。神々しさを放つ女帝が心を許せる側近に人間らしい一面を見せたかのよう。縋る瞳を向けられたユークリッドは、立ち上がり、階段を上る。一段、一段と確実に距離を詰める。最上段まだ上った彼は、もう一度膝をつく。肘掛けに置かれていたロゼの手を取り、その甲に唇を落とす。黒い手袋越し。それなのに、飛び上がるほどの熱が伝わってくる。ロゼは静かに震慴しんしょうした。視線が、かち合う。熱をはらんだ血色の眼光に貫かれた。
 前世でも、今世でも、ユークリッドはロゼの味方であった可能性が高い。たとえそれが、上辺だけのものだったとしても、彼が紡ぐ言の葉の全てが嘘で塗り固められたものだったとしても、ロゼは彼を信じたいと思った。ロゼには、信じる価値があるのかも分からないジンクスを叶える、ドルトディチェ大公が狂人となるのを防ぐ、大公家を存続させるという使命がある。前世の自分が魂に直接刻み込んだ使命を達成するまでは、ドルトディチェ大公家を見放すことはできない。

「ユークリッド。私は、あなたの誓いを信じます」

 ロゼは空いた手で、ユークリッドの頬を触る。指先から浸透する頬の熱さと滑らかさに怖くなりながらも、掌全体で彼という存在を感じた。
 ユークリッドは、ロゼを守りたくて守っているのではない。ただ、自分が大公の玉座を手に入れたいがために守っているだけ。たとえドルトディチェ大公城にて、大公となったユークリッドの手により最期を迎えることになっても、構わないとまで思ってしまったのだ。愛はまさに、人の心を強くすると共に脆くもする。果たしてロゼの中に眠る感情が愛なのかどうかは、彼女も分からない。だが、その感情に明確な名をつけることはできない。彼女とユークリッドは、血の繋がりは皆無だが、姉弟なのだから。
 ロゼは腰を上げたのち、階段を下りる。ユークリッドが置いたワインボトルのふたつのグラスを手に取った。

「ワインを飲みましょう」
「……そうですね」

 ユークリッドはロゼの提案に乗り、階段に腰掛けた。ロゼも彼の隣に、上品に座る。赤色のドレスの裾が舞い上がった。ユークリッドはロゼからワインボトルを受け取ると、簡単にコルクを抜く。血よりも深い赤みを持つワインをグラスに注ぎ入れた。

「ユークリッド。改めて、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます」

 キン、とガラスが擦れる高い音が響く。ロゼは上品な香りをさせるワインにそっと唇を浸した。甘美な味わいが彼女の舌を蕩けさせていく。なんとも言えない美味しさに、ロゼは思わず感嘆の息をこぼした。

「……美味しいですね」
「はい。実はこのワイン、父上からのプレゼントなのです。たまには飲んで羽目を外せと言われましたが……あいにく酒には強いほうなので」

 ユークリッドはそう言って、ワインを呷る。
 かなりの酒豪であるドルトディチェ大公のことだ。一番のお気に入りのユークリッドの誕生日を祝うために、地下のワインの宝庫から一本持ってきたのだろう。ふたりが飲んでいるワインもかなりの年月の間、眠って過ごした年代物だ。それを口にしていることに、ロゼは恐れ多くも喜ばしいと思ったのであった。
 ロゼのグラスが透明で埋め尽くされたのを見て、ユークリッドは彼女のグラスにワインを注ぐ。

「最近、図書館に出入りをしているらしいですが、何か面白い本でも見つけたのですか?」
「……はい。魅力的な本ばかりで長時間居座ってしまいます」

 ユークリッドは「なるほど」と頷いた。彼は、ロゼが図書館に出入りしていることまでも、護衛から報告を受けているのだ。彼の情報を入手する速さに改めて驚いたロゼは、瞬時に誤魔化すことができてよかったと安堵する。実際、ジンクスに関連する本を探す合間、魅力的な本に夢中になっていることは事実であるが。

「姉上。来年の誕生日も、こうして共に過ごしてくださいますか?」

 ロゼはユークリッドの美顔を見上げる。筋の通った鼻の下、濡れそぼった唇が光る。芸術的なそれに惹かれてしまったロゼは、己を律して顔を背けた。

「考えておきましょう」

 肯定とも否定とも取れない返答。随分と愛嬌あいきょうのない言葉をぶつけてしまったものだと、ロゼは自身への嫌悪に駆られた。だがユークリッドは、なぜか嬉々ききとしていた。
 月光が照らす舞台。美しいふたりの男女は、甘酸っぱくも優しい時間を過ごしたのであった。
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