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本編
第18話 諜報者の存在
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空が赤く燃え上がる。ロゼのまとうドレスと似た色味の空は、今にも濃紺の世界に呑み込まれそうになっていた。夜が近づくにつれ、怪奇な雰囲気に包まれるドルトディチェ大公城に帰還したロゼは、騎士のエスコートに甘んじて馬車から降りた。その時、夕と夜の境目の下、堂々と佇む男の存在に気がついた。
「姉上」
ロゼを呼んだのは、ユークリッドであった。黒毛の大型犬、否、黒毛の大狼は、忠誠を誓う主人であるロゼに歩み寄り、黒色のジャケットを脱ぐと彼女に羽織らせた。ロゼは大人しくそれを羽織る。ユークリッドは少しだけ屈み、彼女の耳元に唇を寄せる。
「部屋まで送っていきます」
「……結構です」
ロゼはユークリッドを見上げ、はっきりと告げる。アジュライト色の瞳の中心には、意志の強い光が灯った。一介の令息であれば、有無を言わさないロゼの表情と口調に戦慄して、心を砕かれてしまうであろうに、ユークリッドはまったくその気配がない。むしろ、一貫して態度を変えない強気のロゼに、心惹かれているようであった。拒絶したら拒絶したで燃え上がり、受け入れたら受け入れたで喜ばれては、ロゼはユークリッドにどう接したらいいのか分からなくなる。今まさに、彼女はその思考に陥ってしまっていた。巨大な諦念を抱いたロゼは、ユークリッドを置いて歩き出す。ユークリッドはロゼの護衛を務めていた騎士に軽く目配せをしたあと、彼女のあとを追った。
ロゼとユークリッドは、宮までの道のりを無言で歩く。ロゼはユークリッドの顔色を窺う。すると夕日に輝くブラッドレッドの瞳と視線がかち合ってしまった。なぜこちらを見ているのか、と戸惑ったロゼは顔を背けて誤魔化す。いつもは表情を変えないロゼだが、この時ばかりはほんの少しだけ焦りの色を見せた。そんな彼女を目の当たりにしたユークリッドは、緩徐に目を細めたのであった。
気まずい空気に包まれる中、ロゼはようやく自身が所有する宮に到着した。騎士たちや侍女たちが出迎える。彼らはユークリッドの姿に動揺を隠しきれていないみたいだが、なんとか平常を保った。
「送ってくださり、ありがとうございます」
「部屋まで送ると言ったでしょう? 参りましょう」
「待ってください、ユークリッド。それは、」
「姉上」
ロゼは、言葉を遮られる。闇夜に抱かれる赤色の太陽を背中に携えたユークリッドからは、大きな威厳が感じられた。さすがは、ドルトディチェ大公の自慢の息子。今の彼には、ほかの直系たちも敵わないだろう。
ユークリッドは赤みを帯びた唇を開く。
「いいですか、姉上。この家で生き残る方法はたったひとつ。俺に守られることです。これまでもそうであったように、これからもそうであるべきだ」
ロゼは息を呑み、ユークリッドに圧倒された。全身の細胞が警報を鳴らし、ロゼの内なる心が叫んでいる。今は目の前の男に従え、と。第六感を駆使したロゼは、溜息混じりに「分かりました」と口にしたのであった。そしてユークリッド、リエッタを筆頭とした三人の侍女と共に、宮に足を踏み込んだ。
綺麗に清掃された宮は、豪華絢爛とまではいかないものの、序列末席のロゼにはもったいない美しさを誇っていた。だが彼女は、ドルトディチェ大公の寵妃のひとり娘であるため、妥当な待遇であろう。上階の自室に到着したロゼは、自分よりもずっと背の高いユークリッドを見上げる。
「ありがとうございました」
「お気になさらず」
ロゼはユークリッドから借りていたジャケットを返却する。ユークリッドはそれを受け取りながら彼女から視線を外すと、淡いピンク色の薔薇が描かれた白亜の扉を眺める。左右に立つふたりの騎士を交互に見つめたあと、再びロゼに視線を戻した。
「ちなみに、自室に入らせていただくことはできますか?」
「ユークリッド」
「出すぎたことを申しました」
ユークリッドはロゼの声色に込められた意味を察し、一礼をする。踵を返して数歩、足を進めた瞬間、突然立ち止まる。空気と化していた侍女のひとりの前に立つ。
「誰に命じられた」
底冷えする声が響き渡る。ユークリッドが吐いた言葉に対して、ロゼは眉を顰めた。ドルトディチェ大公家にて、実質二番目に権力を握っているユークリッドから声をかけられた侍女は、震え上がる。いい意味でも悪い意味でも特徴のない顔が恐怖に染まった。
「答えろ。さもなくばここで殺す」
腰に携えた黒剣の柄に手を添える。カチャリ、と嫌な音が鳴ったと同時に、ロゼは侍女に救済の手を差し伸べた。
「その者は数週間前に私の侍女になったばかりです。一体なんの話を」
「諜報者か暗殺者です。何者かがあなたの情報を盗み出そうとしている。いえ、もうきっと、盗み出されてしまいましたね」
再度ロゼの話を遮ったユークリッドは、淡々とそう述べた。ロゼはもはや、何も言えない。差し伸ばした救済の手は、ユークリッドの剣によって断絶されてしまったのだから。
「ご、誤解ですっ! 私は諜報者などではありません!!!」
「騒がしい犬だ。誰に飼われているのか吐くなら殺しはしない」
「お、おやめくださいっ……。お嬢様っ! どうかお助けをっ!!! 私は忠実な侍女にございますっ!!!」
侍女は跪き全力でロゼに助けを求める。ユークリッドではなく、ロゼに、である。それが気に入らなかったユークリッドは、ロゼが何かを言う前に、侍女を無理やり立たせて連行していく。ロゼは目前で行われた一部始終を黙って見ていることしか、できなかった。
「姉上」
ロゼを呼んだのは、ユークリッドであった。黒毛の大型犬、否、黒毛の大狼は、忠誠を誓う主人であるロゼに歩み寄り、黒色のジャケットを脱ぐと彼女に羽織らせた。ロゼは大人しくそれを羽織る。ユークリッドは少しだけ屈み、彼女の耳元に唇を寄せる。
「部屋まで送っていきます」
「……結構です」
ロゼはユークリッドを見上げ、はっきりと告げる。アジュライト色の瞳の中心には、意志の強い光が灯った。一介の令息であれば、有無を言わさないロゼの表情と口調に戦慄して、心を砕かれてしまうであろうに、ユークリッドはまったくその気配がない。むしろ、一貫して態度を変えない強気のロゼに、心惹かれているようであった。拒絶したら拒絶したで燃え上がり、受け入れたら受け入れたで喜ばれては、ロゼはユークリッドにどう接したらいいのか分からなくなる。今まさに、彼女はその思考に陥ってしまっていた。巨大な諦念を抱いたロゼは、ユークリッドを置いて歩き出す。ユークリッドはロゼの護衛を務めていた騎士に軽く目配せをしたあと、彼女のあとを追った。
ロゼとユークリッドは、宮までの道のりを無言で歩く。ロゼはユークリッドの顔色を窺う。すると夕日に輝くブラッドレッドの瞳と視線がかち合ってしまった。なぜこちらを見ているのか、と戸惑ったロゼは顔を背けて誤魔化す。いつもは表情を変えないロゼだが、この時ばかりはほんの少しだけ焦りの色を見せた。そんな彼女を目の当たりにしたユークリッドは、緩徐に目を細めたのであった。
気まずい空気に包まれる中、ロゼはようやく自身が所有する宮に到着した。騎士たちや侍女たちが出迎える。彼らはユークリッドの姿に動揺を隠しきれていないみたいだが、なんとか平常を保った。
「送ってくださり、ありがとうございます」
「部屋まで送ると言ったでしょう? 参りましょう」
「待ってください、ユークリッド。それは、」
「姉上」
ロゼは、言葉を遮られる。闇夜に抱かれる赤色の太陽を背中に携えたユークリッドからは、大きな威厳が感じられた。さすがは、ドルトディチェ大公の自慢の息子。今の彼には、ほかの直系たちも敵わないだろう。
ユークリッドは赤みを帯びた唇を開く。
「いいですか、姉上。この家で生き残る方法はたったひとつ。俺に守られることです。これまでもそうであったように、これからもそうであるべきだ」
ロゼは息を呑み、ユークリッドに圧倒された。全身の細胞が警報を鳴らし、ロゼの内なる心が叫んでいる。今は目の前の男に従え、と。第六感を駆使したロゼは、溜息混じりに「分かりました」と口にしたのであった。そしてユークリッド、リエッタを筆頭とした三人の侍女と共に、宮に足を踏み込んだ。
綺麗に清掃された宮は、豪華絢爛とまではいかないものの、序列末席のロゼにはもったいない美しさを誇っていた。だが彼女は、ドルトディチェ大公の寵妃のひとり娘であるため、妥当な待遇であろう。上階の自室に到着したロゼは、自分よりもずっと背の高いユークリッドを見上げる。
「ありがとうございました」
「お気になさらず」
ロゼはユークリッドから借りていたジャケットを返却する。ユークリッドはそれを受け取りながら彼女から視線を外すと、淡いピンク色の薔薇が描かれた白亜の扉を眺める。左右に立つふたりの騎士を交互に見つめたあと、再びロゼに視線を戻した。
「ちなみに、自室に入らせていただくことはできますか?」
「ユークリッド」
「出すぎたことを申しました」
ユークリッドはロゼの声色に込められた意味を察し、一礼をする。踵を返して数歩、足を進めた瞬間、突然立ち止まる。空気と化していた侍女のひとりの前に立つ。
「誰に命じられた」
底冷えする声が響き渡る。ユークリッドが吐いた言葉に対して、ロゼは眉を顰めた。ドルトディチェ大公家にて、実質二番目に権力を握っているユークリッドから声をかけられた侍女は、震え上がる。いい意味でも悪い意味でも特徴のない顔が恐怖に染まった。
「答えろ。さもなくばここで殺す」
腰に携えた黒剣の柄に手を添える。カチャリ、と嫌な音が鳴ったと同時に、ロゼは侍女に救済の手を差し伸べた。
「その者は数週間前に私の侍女になったばかりです。一体なんの話を」
「諜報者か暗殺者です。何者かがあなたの情報を盗み出そうとしている。いえ、もうきっと、盗み出されてしまいましたね」
再度ロゼの話を遮ったユークリッドは、淡々とそう述べた。ロゼはもはや、何も言えない。差し伸ばした救済の手は、ユークリッドの剣によって断絶されてしまったのだから。
「ご、誤解ですっ! 私は諜報者などではありません!!!」
「騒がしい犬だ。誰に飼われているのか吐くなら殺しはしない」
「お、おやめくださいっ……。お嬢様っ! どうかお助けをっ!!! 私は忠実な侍女にございますっ!!!」
侍女は跪き全力でロゼに助けを求める。ユークリッドではなく、ロゼに、である。それが気に入らなかったユークリッドは、ロゼが何かを言う前に、侍女を無理やり立たせて連行していく。ロゼは目前で行われた一部始終を黙って見ていることしか、できなかった。
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