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第115話 アリアリーナの想い
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晩春。春に咲く花々がその美しい身を枯らす頃、アリアリーナはアンゼルムと共に皇城の敷地内にある湖にやって来ていた。草原で寝転び寝息を立てるアンゼルムの隣、アリアリーナは両足を湖に浸す。見事なエメラルドグリーンの色をした水は、冷たくて気持ちがいい。次の瞬間、風に攫われたドレスの裾が水に濡れてしまった。引き上げるのも面倒に感じた彼女は、あえてドレスの裾を湖に浸したのであった。
隣で眠るアンゼルムに手を伸ばす。ビスケット色の猫毛は、手に馴染む。いつかはこの髪の感触も薄れてしまうと思うと、胸が痛い。アンゼルムは、愛する人を殺さなければ自らが死ぬというアリアリーナの呪いの解決のために、必要不可欠な人間だ。心から愛している彼を、アリアリーナは自らの手で殺さなければならない。手が、震える。
(怖い……。あなたを、失うことが、怖い)
恐怖に駆られ、アンゼルムの髪から手を引く。
たとえ、毒や呪術を使って殺害する方法を選んだとしても、アリアリーナが手を下したことに変わりはない。彼女は、怖かった。心の拠り所であるアンゼルムを失うことが、そして一種の精神安定剤とも言えるアンゼルムと過ごす時間を失うことが。ヴィルヘルムに向けた愛とは違う。だがアンゼルムに抱く感情も、また愛なのだ。そんな愛を抱けば抱くほど、「アンゼルムを殺す」という決意が揺らいでいく。
「ゼル……。私は、あなたを……」
(失いたくない)
太陽の光を吸収し燦然と輝くオパールグリーンの瞳から涙が溢れる。その涙は、湖よりも澄んでいた。濁りのない、アリアリーナの想いそのものだった。
「皇女殿下」
ふと、背後から呼ばれる。葛藤していたせいで人の気配に気づけなかったことに憤りを覚えながら、振り返った。木々の間に作られた小道から姿を現したのは、ヴィルヘルムだった。
「……招待した覚えはないのだけど」
「皇帝陛下との個別の面会を終えた帰りです」
別にお前に会いに来たのではない、と解釈できる素っ気ない返答。今はそのしょっぱさが、なぜか心地よく感じた。
アリアリーナは頬を流れる涙を拭いながら顔を背ける。アンゼルムとは反対側に、ヴィルヘルムの気配を察知する。
「何してるの……?」
「気持ちよさそうなので、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
ヴィルヘルムは靴を脱ぎ、裾を捲る。隆々と浮き出た筋肉が美しい両脚があらわになる。アリアリーナは目ん玉が飛び出そうなくらい、目を見開きその筋肉を脳裏に焼きつけた。ヴィルヘルムが隣に腰掛けようとしたため、アリアリーナはそれを制止する。
「だ、ダメに決まってるじゃない。ご一緒しないで」
「失礼します」
「………………」
ヴィルヘルムは人の話や言うことをあまり聞かない人間だ。それがたとえ、目上の人間であったとしても。グリエンド公爵家という権限を最大限行使して、己の意見をナチュラルに通そうとする。過去のアリアリーナ、また皇后やエナヴェリーナの傲慢さとはまたわけが違うが、強引にも思える距離の詰め方をしてくるのだ。しかし、不思議と嫌だと言いきれないのが悔しい。
ヴィルヘルムはアリアリーナの隣に腰掛けて、足を湖に投げ出す。
「あなたって人は……。最初から自分のしたいようにするくせに、どうしていちいち断りを入れてくるのかしら……」
「もしかして……困らせてしまいましたか?」
ヴィルヘルムの顔を見上げる。ブルーダイヤモンド色の眼はきゅるんとしており、眉尻は下がっている。滅多に見ることのできない可愛いらしい表情に、アリアリーナは度肝を抜かれた。
(この男、自分がどれほど可愛いか分かってなくてやってるの? タチが悪いわね!)
苛立ちを覚え、ヴィルヘルムの頬を軽く抓った。ヴィルヘルムは若干痛そうな顔をしながらも、アリアリーナの頬に触れた。
「涙はもう、止まりましたね」
親指の腹で涙が流れた跡をなぞられる。優しい手つきに、また涙腺が緩んでしまいそうになった。アリアリーナが目を逸らす前に、ヴィルヘルムが口火を切る。
「この間、あなた様のお傍に置いてほしいと頼んだことを覚えていますか? その返事を、お聞きしたいです」
金糸が風に揺れる。前髪の隙間、薄青の輝きを放つ双眸が見えた。
「皇女殿下が、アンゼルムを想っていることは知っています。先程もアンゼルムを想って泣いていらしたのでしょう。重々、分かっております」
悲哀に濡れたヴィルヘルムの顔貌から、目を逸らせない。可愛らしい表情を浮かべたり、悲しい表情を浮かべたり。以前よりずっと分かりやすく、喜怒哀楽を示してくれるようになった彼に、目も心も、何もかも、奪われてしまう――。
アンゼルムを想って泣いていたことは事実。だがそれは、恋慕ではない。アリアリーナが心の奥底から愛しているのは、幸せに生きてほしいと祈るのは――。
(あなただけよ、ヴィルヘルム)
ヴィルヘルムは緩慢に顔を上げる。アリアリーナの心中の呟きなど知らない彼は、懇願する目をしていた。
「皇女殿下のお傍に付き従うことを、どうか許していただきたいのです」
少し震える声から、ヴィルヘルムの本気度が窺えた。しかしやはり断ったほうが良いと思ってしまう。これ以上傍にいてしまえば、アリアリーナがヴィルヘルムとの未来を夢見てしまうだろうから。救いようがない悪女だったのに、身の丈に合わない幸せを求めてしまうから。
断ろうと口を開きかけた矢先。
「姫様っ!!!」
血相を変えて走ってくるレイが目に入る。何かあったのか、とレイを見つめる。
「皇族の方がっ……お亡くなりに、なられました……」
止まっていた時計の針が動き始める。時を刻む音が脳内に反響していた。
隣で眠るアンゼルムに手を伸ばす。ビスケット色の猫毛は、手に馴染む。いつかはこの髪の感触も薄れてしまうと思うと、胸が痛い。アンゼルムは、愛する人を殺さなければ自らが死ぬというアリアリーナの呪いの解決のために、必要不可欠な人間だ。心から愛している彼を、アリアリーナは自らの手で殺さなければならない。手が、震える。
(怖い……。あなたを、失うことが、怖い)
恐怖に駆られ、アンゼルムの髪から手を引く。
たとえ、毒や呪術を使って殺害する方法を選んだとしても、アリアリーナが手を下したことに変わりはない。彼女は、怖かった。心の拠り所であるアンゼルムを失うことが、そして一種の精神安定剤とも言えるアンゼルムと過ごす時間を失うことが。ヴィルヘルムに向けた愛とは違う。だがアンゼルムに抱く感情も、また愛なのだ。そんな愛を抱けば抱くほど、「アンゼルムを殺す」という決意が揺らいでいく。
「ゼル……。私は、あなたを……」
(失いたくない)
太陽の光を吸収し燦然と輝くオパールグリーンの瞳から涙が溢れる。その涙は、湖よりも澄んでいた。濁りのない、アリアリーナの想いそのものだった。
「皇女殿下」
ふと、背後から呼ばれる。葛藤していたせいで人の気配に気づけなかったことに憤りを覚えながら、振り返った。木々の間に作られた小道から姿を現したのは、ヴィルヘルムだった。
「……招待した覚えはないのだけど」
「皇帝陛下との個別の面会を終えた帰りです」
別にお前に会いに来たのではない、と解釈できる素っ気ない返答。今はそのしょっぱさが、なぜか心地よく感じた。
アリアリーナは頬を流れる涙を拭いながら顔を背ける。アンゼルムとは反対側に、ヴィルヘルムの気配を察知する。
「何してるの……?」
「気持ちよさそうなので、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
ヴィルヘルムは靴を脱ぎ、裾を捲る。隆々と浮き出た筋肉が美しい両脚があらわになる。アリアリーナは目ん玉が飛び出そうなくらい、目を見開きその筋肉を脳裏に焼きつけた。ヴィルヘルムが隣に腰掛けようとしたため、アリアリーナはそれを制止する。
「だ、ダメに決まってるじゃない。ご一緒しないで」
「失礼します」
「………………」
ヴィルヘルムは人の話や言うことをあまり聞かない人間だ。それがたとえ、目上の人間であったとしても。グリエンド公爵家という権限を最大限行使して、己の意見をナチュラルに通そうとする。過去のアリアリーナ、また皇后やエナヴェリーナの傲慢さとはまたわけが違うが、強引にも思える距離の詰め方をしてくるのだ。しかし、不思議と嫌だと言いきれないのが悔しい。
ヴィルヘルムはアリアリーナの隣に腰掛けて、足を湖に投げ出す。
「あなたって人は……。最初から自分のしたいようにするくせに、どうしていちいち断りを入れてくるのかしら……」
「もしかして……困らせてしまいましたか?」
ヴィルヘルムの顔を見上げる。ブルーダイヤモンド色の眼はきゅるんとしており、眉尻は下がっている。滅多に見ることのできない可愛いらしい表情に、アリアリーナは度肝を抜かれた。
(この男、自分がどれほど可愛いか分かってなくてやってるの? タチが悪いわね!)
苛立ちを覚え、ヴィルヘルムの頬を軽く抓った。ヴィルヘルムは若干痛そうな顔をしながらも、アリアリーナの頬に触れた。
「涙はもう、止まりましたね」
親指の腹で涙が流れた跡をなぞられる。優しい手つきに、また涙腺が緩んでしまいそうになった。アリアリーナが目を逸らす前に、ヴィルヘルムが口火を切る。
「この間、あなた様のお傍に置いてほしいと頼んだことを覚えていますか? その返事を、お聞きしたいです」
金糸が風に揺れる。前髪の隙間、薄青の輝きを放つ双眸が見えた。
「皇女殿下が、アンゼルムを想っていることは知っています。先程もアンゼルムを想って泣いていらしたのでしょう。重々、分かっております」
悲哀に濡れたヴィルヘルムの顔貌から、目を逸らせない。可愛らしい表情を浮かべたり、悲しい表情を浮かべたり。以前よりずっと分かりやすく、喜怒哀楽を示してくれるようになった彼に、目も心も、何もかも、奪われてしまう――。
アンゼルムを想って泣いていたことは事実。だがそれは、恋慕ではない。アリアリーナが心の奥底から愛しているのは、幸せに生きてほしいと祈るのは――。
(あなただけよ、ヴィルヘルム)
ヴィルヘルムは緩慢に顔を上げる。アリアリーナの心中の呟きなど知らない彼は、懇願する目をしていた。
「皇女殿下のお傍に付き従うことを、どうか許していただきたいのです」
少し震える声から、ヴィルヘルムの本気度が窺えた。しかしやはり断ったほうが良いと思ってしまう。これ以上傍にいてしまえば、アリアリーナがヴィルヘルムとの未来を夢見てしまうだろうから。救いようがない悪女だったのに、身の丈に合わない幸せを求めてしまうから。
断ろうと口を開きかけた矢先。
「姫様っ!!!」
血相を変えて走ってくるレイが目に入る。何かあったのか、とレイを見つめる。
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