103 / 185
第103話 幸せになれと言うのなら
しおりを挟む
裏口へとやって来たアリアリーナとクライド。周囲に人はいない。白髪の鬘を脱ぎ去り、特徴的な眼鏡を外して変装を解いたクライドは、やけに美しく見えた。
「さっきの変な女、第三皇女か?」
アリアリーナは頷く。帝国でも人気のエナヴェリーナを「変な女」呼ばわりできるのは、クライドくらいではないだろうか。
「様子がおかしかったが、もしや違法薬物でも摂取してんのか?」
クライドは煙草に火をつけながら、そう言った。
エナヴェリーナは、何やら様子が変だった。軽率な発言を繰り返したり、ヴィルヘルムに執着している姿を見せたり、普段の彼女なら絶対にしないだろうという言動をしていた。まぁ、アリアリーナからしてみれば、エナヴェリーナはもとから自分のものだと思っていたヴィルヘルムを取られそうになって、初めて「焦り」というものを感じている、その結果化けの皮が剥がれたのだろうという印象だ。
「まぁ、どの道あの女には気をつけたほうが良さそうだ。メンヘラにはヤバいやつしかいねぇからな」
「めんへら……何それ」
「平民の間での流行語だ。感情の上がり下がりが激しい、心の状態が不安定な人間を指すそうだ。主に女に多いらしいが……さっきの様子を見ている限り、第三皇女もメンヘラ気質だな」
苦い経験を思い出したのか、クライドは激しく肩を震わせた。アリアリーナは彼の忠告を素直に受け入れることにしたのであった。
「ところで、もうそろそろ日が沈みそうだけど、帰らなくていいの?」
「おいおい、一服くらいさせてくれよ」
「十分にしたはずよ。それに、暗殺者は今から仕事でしょ?」
「今日は仕事がねぇんだよ」
クライドは口から煙を吐く。横顔が芸術的だ。煙草を吸う姿がこんなにも様になる人間など、果たして彼以外にいるのだろうか。あぁ、きっといないだろう。なんの銘柄を吸っているのかは分からないが、街中で煙草の香りを嗅ぐ度に、彼を思い出してしまいそうである。
「なぁ、姫様」
「……何?」
ゴールデンイエローの瞳に見つめられる。
「幸せになってほしいっていうのは、本気だからな」
「……まだ言ってるの? もう分かったから」
アリアリーナは溜息混じりに呟く。
「簡単に幸せになれと言うけども、幸せになるためにはそれなりの代価や努力が必要よ。それに、人は不思議なことに、平凡な日常を「幸せ」と表現することに躊躇いがある。平凡な日常こそ本来の、人間としての幸せであるはずなのに、それを認識するのは……大抵、平凡な日常が壊れたあとなのよね」
クライドの口から煙草を抜き取る。地面に捨てて、ヒールで踏み潰した。
「経験したかのような口ぶりだな」
「私の人生は平凡な日常だと、胸を張って言えると思う?」
「…………思わねぇな」
クライドは純粋に笑った。
娼婦の娘として生まれ、極貧生活を強いられた。美味しい物をお腹いっぱいに食べたい、温かい布団で眠りたい、母親とふたりで幸せに暮らしたい。そんなアリアリーナの願いとは裏腹に、幸せとは真逆の方向のような、呪術と暗殺業を教えられた。母親を亡くしてからは、エルンドレ家の邸宅にて肩身の狭い思いをして、毎日生き抜くことに必死だったのだ。この身にかけられた呪いさえなければ、と何度も願って眠りについたが、目覚める度に呪いはなくならないのだと現実を突きつけられた。呪いを解いた暁には幸せになれるのだと、初めて恋したヴィルヘルムと本当に心の底から望んでいた平和な日常を築けるのだと信じきって努力してきたが、結局は……。前世も今世も、平凡な日常とは程遠い毎日を送っている。
「毎日、普通の日常を送ってるヤツらが羨ましい」
「……あなたも、普通の日常とは程遠い生活を送ってるものね」
「あぁ。自慢じゃないが、幼い頃から今みてぇな境遇だ」
クライドは溜息をこぼした。
「オレは孤児の時から今の組織に属していたからな。裏世界とは切っても切れない縁がある」
孤児の時から〝愛の聖人〟に所属していたらしい。暗殺組織の幹部になるくらいだ。きっと物心つかない頃から、想像を絶する訓練を強いられてきたことだろう。
ふたりの間に、強風が吹き荒れる。沈みゆく太陽に照らされたゴールデンイエローを見つめる。
「じゃあな」
一言。一言だけ口にしたあと、クライドは背を向けた。手を伸ばすが、届かない。不思議なことに、足は動かなかった。今すぐ彼に駆け寄って振り向かせ、その頬を包み込んでやりたいのに、どうしてか近寄れなかった。彼の背中が、アリアリーナを拒絶しているからかもしれない。彼の思い通りになることを望まないアリアリーナは、力を振り絞って叫んだ。
「クライド!」
クライドが立ち止まる。
「私に幸せになってほしいなら、あなたがまずは幸せになりなさい!」
別に、こんなことを言いたいわけではなかったのに。ただ、無責任に「幸せになってほしい」だなんて、言わないでほしかったのだ。
クライドは手を挙げ、去っていく。遠ざかる背中。開く距離。埋められない何かが、目の前にはあった。最後まで彼が振り返ることはなかった。
「さっきの変な女、第三皇女か?」
アリアリーナは頷く。帝国でも人気のエナヴェリーナを「変な女」呼ばわりできるのは、クライドくらいではないだろうか。
「様子がおかしかったが、もしや違法薬物でも摂取してんのか?」
クライドは煙草に火をつけながら、そう言った。
エナヴェリーナは、何やら様子が変だった。軽率な発言を繰り返したり、ヴィルヘルムに執着している姿を見せたり、普段の彼女なら絶対にしないだろうという言動をしていた。まぁ、アリアリーナからしてみれば、エナヴェリーナはもとから自分のものだと思っていたヴィルヘルムを取られそうになって、初めて「焦り」というものを感じている、その結果化けの皮が剥がれたのだろうという印象だ。
「まぁ、どの道あの女には気をつけたほうが良さそうだ。メンヘラにはヤバいやつしかいねぇからな」
「めんへら……何それ」
「平民の間での流行語だ。感情の上がり下がりが激しい、心の状態が不安定な人間を指すそうだ。主に女に多いらしいが……さっきの様子を見ている限り、第三皇女もメンヘラ気質だな」
苦い経験を思い出したのか、クライドは激しく肩を震わせた。アリアリーナは彼の忠告を素直に受け入れることにしたのであった。
「ところで、もうそろそろ日が沈みそうだけど、帰らなくていいの?」
「おいおい、一服くらいさせてくれよ」
「十分にしたはずよ。それに、暗殺者は今から仕事でしょ?」
「今日は仕事がねぇんだよ」
クライドは口から煙を吐く。横顔が芸術的だ。煙草を吸う姿がこんなにも様になる人間など、果たして彼以外にいるのだろうか。あぁ、きっといないだろう。なんの銘柄を吸っているのかは分からないが、街中で煙草の香りを嗅ぐ度に、彼を思い出してしまいそうである。
「なぁ、姫様」
「……何?」
ゴールデンイエローの瞳に見つめられる。
「幸せになってほしいっていうのは、本気だからな」
「……まだ言ってるの? もう分かったから」
アリアリーナは溜息混じりに呟く。
「簡単に幸せになれと言うけども、幸せになるためにはそれなりの代価や努力が必要よ。それに、人は不思議なことに、平凡な日常を「幸せ」と表現することに躊躇いがある。平凡な日常こそ本来の、人間としての幸せであるはずなのに、それを認識するのは……大抵、平凡な日常が壊れたあとなのよね」
クライドの口から煙草を抜き取る。地面に捨てて、ヒールで踏み潰した。
「経験したかのような口ぶりだな」
「私の人生は平凡な日常だと、胸を張って言えると思う?」
「…………思わねぇな」
クライドは純粋に笑った。
娼婦の娘として生まれ、極貧生活を強いられた。美味しい物をお腹いっぱいに食べたい、温かい布団で眠りたい、母親とふたりで幸せに暮らしたい。そんなアリアリーナの願いとは裏腹に、幸せとは真逆の方向のような、呪術と暗殺業を教えられた。母親を亡くしてからは、エルンドレ家の邸宅にて肩身の狭い思いをして、毎日生き抜くことに必死だったのだ。この身にかけられた呪いさえなければ、と何度も願って眠りについたが、目覚める度に呪いはなくならないのだと現実を突きつけられた。呪いを解いた暁には幸せになれるのだと、初めて恋したヴィルヘルムと本当に心の底から望んでいた平和な日常を築けるのだと信じきって努力してきたが、結局は……。前世も今世も、平凡な日常とは程遠い毎日を送っている。
「毎日、普通の日常を送ってるヤツらが羨ましい」
「……あなたも、普通の日常とは程遠い生活を送ってるものね」
「あぁ。自慢じゃないが、幼い頃から今みてぇな境遇だ」
クライドは溜息をこぼした。
「オレは孤児の時から今の組織に属していたからな。裏世界とは切っても切れない縁がある」
孤児の時から〝愛の聖人〟に所属していたらしい。暗殺組織の幹部になるくらいだ。きっと物心つかない頃から、想像を絶する訓練を強いられてきたことだろう。
ふたりの間に、強風が吹き荒れる。沈みゆく太陽に照らされたゴールデンイエローを見つめる。
「じゃあな」
一言。一言だけ口にしたあと、クライドは背を向けた。手を伸ばすが、届かない。不思議なことに、足は動かなかった。今すぐ彼に駆け寄って振り向かせ、その頬を包み込んでやりたいのに、どうしてか近寄れなかった。彼の背中が、アリアリーナを拒絶しているからかもしれない。彼の思い通りになることを望まないアリアリーナは、力を振り絞って叫んだ。
「クライド!」
クライドが立ち止まる。
「私に幸せになってほしいなら、あなたがまずは幸せになりなさい!」
別に、こんなことを言いたいわけではなかったのに。ただ、無責任に「幸せになってほしい」だなんて、言わないでほしかったのだ。
クライドは手を挙げ、去っていく。遠ざかる背中。開く距離。埋められない何かが、目の前にはあった。最後まで彼が振り返ることはなかった。
10
お気に入りに追加
304
あなたにおすすめの小説
彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
忘却令嬢〜そう言われましても記憶にございません〜【完】
雪乃
恋愛
ほんの一瞬、躊躇ってしまった手。
誰よりも愛していた彼女なのに傷付けてしまった。
ずっと傷付けていると理解っていたのに、振り払ってしまった。
彼女は深い碧色に絶望を映しながら微笑んだ。
※読んでくださりありがとうございます。
ゆるふわ設定です。タグをころころ変えてます。何でも許せる方向け。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
三度目の嘘つき
豆狸
恋愛
「……本当に良かったのかい、エカテリナ。こんな嘘をついて……」
「……いいのよ。私に新しい相手が出来れば、周囲も殿下と男爵令嬢の仲を認めずにはいられなくなるわ」
なろう様でも公開中ですが、少し構成が違います。内容は同じです。
絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
初夜に大暴言を吐かれた伯爵夫人は、微笑みと共に我が道を行く ―旦那様、今更擦り寄られても困ります―
望月 或
恋愛
「お前の噂を聞いたぞ。毎夜町に出て男を求め、毎回違う男と朝までふしだらな行為に明け暮れているそうだな? その上糸目を付けず服や装飾品を買い漁り、多大な借金を背負っているとか……。そんな醜悪な女が俺の妻だとは非常に不愉快極まりない! 今後俺に話し掛けるな! 俺に一切関与するな! 同じ空気を吸ってるだけでとんでもなく不快だ……!!」
【王命】で決められた婚姻をし、ハイド・ランジニカ伯爵とオリービア・フレイグラント子爵令嬢の初夜は、彼のその暴言で始まった。
そして、それに返したオリービアの一言は、
「あらあら、まぁ」
の六文字だった。
屋敷に住まわせている、ハイドの愛人と噂されるユーカリや、その取巻きの使用人達の嫌がらせも何のその、オリービアは微笑みを絶やさず自分の道を突き進んでいく。
ユーカリだけを信じ心酔していたハイドだったが、オリービアが屋敷に来てから徐々に変化が表れ始めて……
※作者独自の世界観満載です。違和感を感じたら、「あぁ、こういう世界なんだな」と思って頂けたら有難いです……。
[完結]私を巻き込まないで下さい
シマ
恋愛
私、イリーナ15歳。賊に襲われているのを助けられた8歳の時から、師匠と一緒に暮らしている。
魔力持ちと分かって魔法を教えて貰ったけど、何故か全然発動しなかった。
でも、魔物を倒した時に採れる魔石。石の魔力が無くなると使えなくなるけど、その魔石に魔力を注いで甦らせる事が出来た。
その力を生かして、師匠と装具や魔道具の修理の仕事をしながら、のんびり暮らしていた。
ある日、師匠を訪ねて来た、お客さんから生活が変わっていく。
え?今、話題の勇者様が兄弟子?師匠が王族?ナニそれ私、知らないよ。
平凡で普通の生活がしたいの。
私を巻き込まないで下さい!
恋愛要素は、中盤以降から出てきます
9月28日 本編完結
10月4日 番外編完結
長い間、お付き合い頂きありがとうございました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる