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第96話 デートからの
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アリアリーナと、彼女が常に傍に置いている美少年が親密な関係性、いわゆる愛人関係にあると囁かれ始めてから、数日。アリアリーナはそんな噂を気にも留めず、公衆の面前でアンゼルムと日常を過ごしていた。ふたりだけでお茶会をしたり、図書館で本を読んだり、遊び疲れて眠ってしまえばアンゼルムに運んでもらったりと、噂は広まるばかりであった。
沛然たる豪雨の後日、冬空は晴れ渡っていた。澄んだ青に、澄んだ空気。木枯らしは、冬の独特な香りを運んでくる。アリアリーナとアンゼルムは、お忍びで一緒に皇都の城下町にやって来ていた。姿を変える呪術ではなく、変装を施すだけに留まったふたりは、できるだけ人目につかぬよう初々しい恋人同士を装い、街を歩く。美味しそうな香りと共に屋台が目に留まった。
「あら、美味しそうな物があるわね……。食べましょう」
「えっ」
「……もしかしてゼル、皇城の食事を食べ過ぎて屋台の料理では満足できなくなってしまったの?」
意地悪な問いかけに、アンゼルムは激しく首を左右に振った。長毛の猫のようなふわふわの髪が揺れる。
「僕ではなくて、ご主人様が召し上がっても良い物なのかと思って……」
「私が皇女になったのは15歳の頃よ。あと少しで19歳だから、約4年前のことなの。それ以前はただの平民。もう死んだほうがマシなんじゃないかってくらい辛い思いもしたわ」
アリアリーナは私生児の皇女として皇城に赴く以前、倉庫のような家や息の詰まるエルンドレ家の屋敷で育った。暗殺者として生まれてきたエルンドレ一族の子供たちと共に、厳しい世界を生き抜いてきた。常に死人が出る訓練では、何回死にかけたことか。その度に、エルンドレ家の子供たちの中でも群を抜いて優秀だったレイに助けてもらっていたが。娼婦の娘として虐げられながらも、母のアイーダからは呪術の使い方を学び、エルンドレ家では地獄の特訓を受けた。毎日、必死に生きてきたのだ。その中でも度々、日々の訓練を抜け出して町に出ていた。田舎であったが、当時のアリアリーナにとっては楽園のような場所だった。幼少期、何度も町に出るうちに仲良くなった男の子がいた気がしたが、名も顔もはっきりとは思い出せない。男の子が何かをプレゼントしてくれた記憶もあるのだが、曖昧だ。明るくて活発で、そして、優しい子だった。
「上の空ですね。過去を懐かしんでおられるのですか?」
「……懐かしい記憶なんて、ないわよ」
苦笑いして、先程から目をつけていた屋台に向かう。屋台の店主と会話して、食べ物を購入する。程よく焼かれた肉は、ピリッと辛い調味料で味付けされ、その匂いは食欲をそそる。串に刺されており、食べやすく工夫されたその肉を頬張った。
「んっ……! 美味しいです!」
「口の横にタレがついてるわ」
指摘すると、アンゼルムは口の横を拭う。残念だが、反対側だ。
「そっじゃない、こっちよ」
アリアリーナは手を伸ばし、付着したタレを拭ってあげた。既に何度か拭ってあげたこともあるため、彼女にとってもアンゼルムにとっても、なんら不思議なことではない。しかし周囲の人からしたら不思議でしかない。見目麗しいふたりのじゃれ合いに、彼らは目を奪われていた。
屋台から去ったふたりは、店舗が立ち並ぶ道に出た。多くの人々が行き交う中、人の流れに沿って歩いていると、そっと手を握られる。
「ご主人様。あのお店に入ってもいいですか?」
「……えぇ、もちろんよ」
アリアリーナの奴隷として彼女の言うことを忠実に聞いてきたアンゼルムが、珍しく自分から行きたい場所、やりたいことを口にした。その成長ぶりに驚きながら、アリアリーナは彼を連れて店に入った。
その店は、アクセサリー専門店だった。しかも皇族や貴族ではなく、平民でも安価に手に入れることができる品物を取り扱っている店だ。
アクセサリーが並ぶショーケースに近づき、じっとそれらを見つめる。平民であった時期が懐かしく感じると共に、普段こうして直接店舗に赴くことは少ないため、余計新鮮に思える。皇城に商売しに来てくれるのもありがたいが、たまには平民の頃のように自分から赴いてみるのも良いかもしれない。
ふと隣を見遣ると、アンゼルムがいないことに気がついた。大勢の人々で賑わう店内を見渡すと、遠くのほうで店員と親しげに話をしているアンゼルムを発見する。笑顔で会話する彼の美しい横顔を眺めながら、アリアリーナも自然に微笑んだ。
レイの報告によると、アリアリーナが仕事を片付けている間、アンゼルムは使用人たちの手伝いを行っているらしい。その報告を受けた際、タダ働きさせるのも申し訳ないため、働いた分の給与を与えるようレイに命令した。もちろん、お金を与えることで逃亡の危険性も高まるため若干の抵抗はあった。だが、今の生活にアンゼルムが不満を抱いているようには思えないため、お金を与えたのだ。どうやらその判断は間違いではなかったらしい。嬉しそうに商品を品定めする彼を見て、そう思った。
帰り際、街を一望できる高台に寄った。夕刻だからか、周囲は恋人同士ばかりだ。
「私たちも恋人に見えるかしら?」
「恋人」という単語に、アンゼルムは下唇を噛む。
「ご主人様」
アンゼルムに右手を取られる。目を落とすと、右手の中指にキラリと輝く何かが……。指輪だ。緑色の小さな宝石が施された指輪だった。
「僕からの、少し早い誕生日プレゼントです。ご主人様が普段身につけていらっしゃる高価で美しいアクセサリーには、遠く及びませんが……。邪悪なものから、ご主人様が守られるようにお祈りしておきます」
アンゼルムは指輪にキスをした。あまりにも様になっている彼に、アリアリーナは息を呑んだ。
夕日に照らされる緑色の宝石の指輪と、アンゼルムの優しい眼差し。か細い声で呆然と礼を伝えると、彼は微笑む。その美しさに魅了されたのであった。
沛然たる豪雨の後日、冬空は晴れ渡っていた。澄んだ青に、澄んだ空気。木枯らしは、冬の独特な香りを運んでくる。アリアリーナとアンゼルムは、お忍びで一緒に皇都の城下町にやって来ていた。姿を変える呪術ではなく、変装を施すだけに留まったふたりは、できるだけ人目につかぬよう初々しい恋人同士を装い、街を歩く。美味しそうな香りと共に屋台が目に留まった。
「あら、美味しそうな物があるわね……。食べましょう」
「えっ」
「……もしかしてゼル、皇城の食事を食べ過ぎて屋台の料理では満足できなくなってしまったの?」
意地悪な問いかけに、アンゼルムは激しく首を左右に振った。長毛の猫のようなふわふわの髪が揺れる。
「僕ではなくて、ご主人様が召し上がっても良い物なのかと思って……」
「私が皇女になったのは15歳の頃よ。あと少しで19歳だから、約4年前のことなの。それ以前はただの平民。もう死んだほうがマシなんじゃないかってくらい辛い思いもしたわ」
アリアリーナは私生児の皇女として皇城に赴く以前、倉庫のような家や息の詰まるエルンドレ家の屋敷で育った。暗殺者として生まれてきたエルンドレ一族の子供たちと共に、厳しい世界を生き抜いてきた。常に死人が出る訓練では、何回死にかけたことか。その度に、エルンドレ家の子供たちの中でも群を抜いて優秀だったレイに助けてもらっていたが。娼婦の娘として虐げられながらも、母のアイーダからは呪術の使い方を学び、エルンドレ家では地獄の特訓を受けた。毎日、必死に生きてきたのだ。その中でも度々、日々の訓練を抜け出して町に出ていた。田舎であったが、当時のアリアリーナにとっては楽園のような場所だった。幼少期、何度も町に出るうちに仲良くなった男の子がいた気がしたが、名も顔もはっきりとは思い出せない。男の子が何かをプレゼントしてくれた記憶もあるのだが、曖昧だ。明るくて活発で、そして、優しい子だった。
「上の空ですね。過去を懐かしんでおられるのですか?」
「……懐かしい記憶なんて、ないわよ」
苦笑いして、先程から目をつけていた屋台に向かう。屋台の店主と会話して、食べ物を購入する。程よく焼かれた肉は、ピリッと辛い調味料で味付けされ、その匂いは食欲をそそる。串に刺されており、食べやすく工夫されたその肉を頬張った。
「んっ……! 美味しいです!」
「口の横にタレがついてるわ」
指摘すると、アンゼルムは口の横を拭う。残念だが、反対側だ。
「そっじゃない、こっちよ」
アリアリーナは手を伸ばし、付着したタレを拭ってあげた。既に何度か拭ってあげたこともあるため、彼女にとってもアンゼルムにとっても、なんら不思議なことではない。しかし周囲の人からしたら不思議でしかない。見目麗しいふたりのじゃれ合いに、彼らは目を奪われていた。
屋台から去ったふたりは、店舗が立ち並ぶ道に出た。多くの人々が行き交う中、人の流れに沿って歩いていると、そっと手を握られる。
「ご主人様。あのお店に入ってもいいですか?」
「……えぇ、もちろんよ」
アリアリーナの奴隷として彼女の言うことを忠実に聞いてきたアンゼルムが、珍しく自分から行きたい場所、やりたいことを口にした。その成長ぶりに驚きながら、アリアリーナは彼を連れて店に入った。
その店は、アクセサリー専門店だった。しかも皇族や貴族ではなく、平民でも安価に手に入れることができる品物を取り扱っている店だ。
アクセサリーが並ぶショーケースに近づき、じっとそれらを見つめる。平民であった時期が懐かしく感じると共に、普段こうして直接店舗に赴くことは少ないため、余計新鮮に思える。皇城に商売しに来てくれるのもありがたいが、たまには平民の頃のように自分から赴いてみるのも良いかもしれない。
ふと隣を見遣ると、アンゼルムがいないことに気がついた。大勢の人々で賑わう店内を見渡すと、遠くのほうで店員と親しげに話をしているアンゼルムを発見する。笑顔で会話する彼の美しい横顔を眺めながら、アリアリーナも自然に微笑んだ。
レイの報告によると、アリアリーナが仕事を片付けている間、アンゼルムは使用人たちの手伝いを行っているらしい。その報告を受けた際、タダ働きさせるのも申し訳ないため、働いた分の給与を与えるようレイに命令した。もちろん、お金を与えることで逃亡の危険性も高まるため若干の抵抗はあった。だが、今の生活にアンゼルムが不満を抱いているようには思えないため、お金を与えたのだ。どうやらその判断は間違いではなかったらしい。嬉しそうに商品を品定めする彼を見て、そう思った。
帰り際、街を一望できる高台に寄った。夕刻だからか、周囲は恋人同士ばかりだ。
「私たちも恋人に見えるかしら?」
「恋人」という単語に、アンゼルムは下唇を噛む。
「ご主人様」
アンゼルムに右手を取られる。目を落とすと、右手の中指にキラリと輝く何かが……。指輪だ。緑色の小さな宝石が施された指輪だった。
「僕からの、少し早い誕生日プレゼントです。ご主人様が普段身につけていらっしゃる高価で美しいアクセサリーには、遠く及びませんが……。邪悪なものから、ご主人様が守られるようにお祈りしておきます」
アンゼルムは指輪にキスをした。あまりにも様になっている彼に、アリアリーナは息を呑んだ。
夕日に照らされる緑色の宝石の指輪と、アンゼルムの優しい眼差し。か細い声で呆然と礼を伝えると、彼は微笑む。その美しさに魅了されたのであった。
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