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第76話 なぜ

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 シルヴィリーナに迫る死。冥土めいどの影が彼女を呑み込もうとした時、アリアリーナは影の前に立ちはだかった。ドレスを捲り、ナイフを手にした騎士の手首を蹴り上げる。艶かしい太腿があらわになった。幸い下着は見えなかったようだが、今はそんなことはどうでもよかった。手首を押さえながら身を屈める騎士の後頭部に、ヒールの踵を落とす。鈍い音が反響したが、騎士の意識を完璧に奪うにはいまひとつだったようだ。激痛に悶え苦しむ騎士の胸倉を掴み、姫君だとは思えないほどの腕力で引っ張り上げる。

「皇族もなめられたものね。人気の多い、こんな場所で直系の皇族を、それも次期女帝を殺そうとするなんて、その心意気だけは認めてあげるわ」

 アリアリーナの言葉を聞いた騎士は震える。皇族に仕える騎士団に所属している者なのか、はたまた潜入した暗殺組織の者なのかは、現時点では分からない。しかし騎士が一方的に蹂躙されたという事実は変わらない。帝国民が嘲笑の的としていた私生児の皇女、アリアリーナに……。

「楽しい最期にしましょう」

 今しがた、騎士を殺そうとした女性とは思えない莞爾とした笑みを浮かべた。その直後、何者かが騎士の髪が掴む。そして首元に手刀を決め込んだ。ぐるん、と白目を剥いて意識をなくした騎士は、何者かの腕の中へ収まった。

「皇女殿下、申し訳ございません。あなた様を真っ先に守らなければならなかったのに……」

 騎士の意識をいとも簡単に奪ったのは、捨てられた子犬のような表情を浮かべたヴィルヘルムであった。アリアリーナの手を煩わせてしまったことを反省しているらしい。

「別に、気にしないで。あなたの角度からは見えなかったのだし……」
「それでも、気づかなければなりませんでした」

 ヴィルヘルムは騎士の体を離す。騎士の体は重力に従って地面へ真っ逆さま。全身を殴打するが、起きる気配はなかった。ゴミと同等の扱いを受けた騎士に目を奪われていると、ヴィルヘルムの美しい顔面が間近に迫っていることに気づく。するり、と腰に回された手。アリアリーナは口内の唾を飲み込む。ごきゅり、と変な音が鳴ってしまい、頬に紅葉を散らした。未だドレスの裾を握っていた手に力を込めると、やんわりとそれを外される。ヴィルヘルムにより掴まれた手は、彼の頬へと導かれる。手袋越しに伝わる彼の温度は、アリアリーナの複雑に絡み合った感情の糸を優しく解いた。

「無事でよかった」

 破顔一笑。
 いつも無表情。何を考えているのか分からない顔は、ミステリアスさを感じさせていた。だが今のヴィルヘルムは、完全に微笑んでいた。今の彼を、仏頂面だと罵ることができようか。彼の微笑みは、アリアリーナだけでなく、その場にいる全員の貴族令嬢の心を鷲掴みにしてしまった。

(罪な、人)

 熱に浮かされる体と反して、冷めていく心。
 果たして一度目の人生では、ヴィルヘルムの笑顔を見たことがあっただろうか。エナヴェリーナに優しく笑いかける彼ならば、見たことがあった気もする。いずれにせよ、ヴィルヘルムがアリアリーナに笑いかけてくれることはなかった。
 それなのに、
 それなのに。
 なぜ、今。今なのか。
 この身にかけられた恐ろしい呪いのため、心底愛するヴィルヘルムを殺すわけにはいかないと……。だから彼を忘れると、そう誓った。彼が幸せでいてくれるなら、生きていてくれるなら、それ以上は望まない。たとえ彼の隣に、自分という存在がいなかったとしても――。これはアリアリーナの嘘偽りのない本心だ。
 だからヴィルヘルムも以前のように、アリアリーナのことなんて気に留めず、エナヴェリーナを妻として迎え入れ、あの長閑な城で生きればいい。そうすれば、アリアリーナも「どうしようもできない」と納得できる。一生彼を想い続けたとしても、叶わないものなのだと理解できる。
 だがヴィルヘルムは、一度目の人生とは違う態度を、言動を取るアリアリーナを気にかけている。その一言で終わらせることができないくらい、彼はアリアリーナという存在を大切に思っているのだ。
 そんなの、あまりにも残酷ではないか。アリアリーナはそう思った。諦めさせてもくれない。納得させてもくれないなんて……。

「反逆者を今すぐ地下牢に運べ! ほかにも反逆者がいないかくまなく探せ! 皇族のご遺体は丁重に運ぶようにっ!」

 己の命を狙われたことに暫し呆気に取られていたシルヴィリーナが、我を取り戻し指示を出す。アリアリーナはヴィルヘルムから自然に離れ、シルヴィリーナに向き直った。

「シルヴィリーナお姉様。ひとまず、反逆者の取り調べは私に一任してください」
「……分かった。しかし最終的な処罰を与える権限は陛下にあることを忘れないでほしい」
「心得ております」

 シルヴィリーナに背を向ける。

「アリアリーナ」

 呼び止められたアリアリーナは、振り向く。

「命を助けてくれたこと、心より感謝する。ありがとう」
「……当たり前のことをしたまでです」

 頭を下げ、今度こそ立ち去る。
 会場にいた全員の意識を奪い、四人もの皇族の命を奪った。そしてシルヴィリーナが殺されかけた。あの騎士がひとりで行った事件だとは到底思えない。シルヴィリーナの言う通り、ほかにも反逆者がいる。暗殺組織が動いたのだ。騎士を捕らえたため、尻尾を掴むことには成功したということ。
 アリアリーナは安堵の溜息を吐いたのであった。
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