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第64話 逃亡劇の狼煙が上がる

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 ひとり取り残されたアリアリーナは、道端に座り込み足を川に浸らせていた。緩やかに流れていく水が気持ち良い。冷たい水で物理的に頭も冷やすことができたらいいのに。心ここに在らずの状態でそんなことを考える。

「ご主人様……。ここにいらっしゃったのですね」

 アリアリーナは振り返る。そこには息を切らしたアンゼルムが立っていた。相当な距離を走ったのだろう。胸に手を当てて、呼吸を落ち着かせている。その仕草さえも可愛らしい。

「足が冷えてしまいます……」
「この冷たさがちょうどいいの。ゼル、あなたもどう?」
「僕は……遠慮しておきます……」

 アンゼルムはアリアリーナを誘いを断り、彼女の隣に腰掛けた。

「先程、グリエンド公爵様とすれ違いまして……酷く傷ついたお顔をされていました。何か、あったのですね?」

 眉尻を下げ、上目遣いをしながら問いかけてくる。アリアリーナは軽く頷きを見せる。どこか強がった様相の彼女の手を、アンゼルムは優しく握った。子供体温なのか。彼の手は、驚くほど温かかった。

「ご主人様。僕はご主人様の奴隷なので、何があっても絶対にご主人様の味方です。あなた様のご意志なら、全て従います」
「………………」
「でも、グリエンド公爵様と言い争うのは、仲違いするのは……ご主人様の意志なのですか?」

 アリアリーナは無表情のまま顔を上げ、アンゼルムを見つめる。アンゼルムの眼が激しく揺れていた。なぜ、当事者ではない彼が泣きそうになっているのか。きっと彼は、感受性豊かな心優しい子なのだろう。
 ヴィルヘルムと喧嘩したまま距離が開けば、アリアリーナにとっては随分と都合が良い。それを利用して、彼を忘れればいいのだから。だがヴィルヘルムと喧嘩することが自分の意志なのかと問われれば、それは違う。アリアリーナはまだ、ヴィルヘルムを愛している。
 大息を吐いて、アンゼルムの肩に自身の頭を預ける。
 感情的に騒いでも仕方がないではないか。苦しくて行き場のない気持ちを叫んで発散することも時には大切だが、それをぶつける相手を間違えてはいけない。ヴィルヘルムは、何も悪くない。
 一度目の人生の愚かな自分が出てきてしまったようで恐怖を感じる。皇族を殺さなければ自分が死ぬという大きな使命により、精神的にもまいっていた。結局は自分も死ぬ運命だったのだがそんなことも知らず、馬鹿みたいに努力し続けた。自分も皇族なのだから死ぬという重大なことに気がつけなかったのは、呪いの影響だろう。見事宿命を果たしたと思った矢先、自分も漏れなく死ぬのだと信じがたい絶望を味合わせるためだ。呪術を施した人間は相当悪人だろう。
 1500年にも及ぶ間、リンドル家を支配し続けた呪い。術者の怨念とリンドル家代々の怨念に呑まれたアリアリーナは、酷くヒステリックになっていた。その頃の自分に再び陥ってはいけないと。強く在らねばならぬのだ。

「いいえ、それは違うわ……。私だって精神不安定になる時があるの。それをグリエンド公爵にぶつけるのはお門違いだもの」
「ご主人様……」
「ありがとう、ゼル」

 アリアリーナは頭を上げ、アンゼルムの頬に口付ける。まるでマシュマロにキスした気分だ。それくらい、彼の頬は柔らかかった。アンゼルムの顔面が真っ赤に染まる。初な反応は、アリアリーナの心を高鳴らせた。

(ゼルを愛することも、できそうね)

 心の中で安堵して、頬を赤らめたアンゼルムの頭を撫でる。雲を撫でているかのようなふわふわとした感触が手のひら全体に広がった。ビスケット色の髪に顔を埋めれば、甘い香りが漂う。アリアリーナはずっとその香りを嗅いでいたいと思った。



 その晩、ヴィルヘルムとアリアリーナは夕食を一緒に取るはずだったが、ヴィルヘルムの謎の急用により、個々で食事を取ることとなった。原因を作ったのは自分自身なのに、一丁前に傷ついている自分が阿呆らしくなる。アリアリーナは霧がかる心に無視を決め込み、無駄に美味な夕飯を胃の中へ放り込んだのであった。
 夕飯を終え入浴も済ませたアリアリーナは、アンゼルムを寝かせたあと、レイに「出かけてくる」と一言告げ、ひとり庭園へ散策に出ていた。客人用の宮から最も近い庭園のため、迷子になることはないはず。少し、気分転換をするだけなのだから。
 夏とはいえ、夜は若干冷え込む。薄手の羽織を纏い、庭園の道を歩く。虫の羽の音に耳を澄ませていると、背後で葉が擦れる音がした。アリアリーナは足を止める。再度、音がする。気のせいではないと認識した彼女は振り返った。視界が暗い。人間なのか、動物なのか、分からない。彼女は生唾を飲み込んだ。今のうちに身を守るための呪術を発動しておくべきかもしれない。そう判断した彼女は、音がした方向とは別方向に体を向けた。刹那、思いきり何かにぶつかる。

「っ~……」

 鼻を押さえ、痛みに耐えながら目を開けると、眼前には見覚えのある男が立っていた。

「しっかり前を確認して歩けよ」

 グリエンド公爵家の騎士の装いをした男、暗殺組織〝愛の聖人サンタムール〟の幹部であるクライドであった。突然の色男の登場に、アリアリーナは小刻みに震え出す。

「い、……」
「い?」
「い、いやぁぁぁぁぁ!!!!!」

 城中のみならず、森の中に反響するほどの叫び声を上げた。

「ちょっ、お前はバカかっ!」

 蹲り、目元を手のひらで覆うアリアリーナに、クライドは駆け寄った。先程まで閑静であった空間は、喧騒に包まれる。彼女の叫び声を聞きつけた夜番の騎士たちが騒ぎ始めたのだろう。ここにいたら間違いなく見つかると冷静に判断したクライドは、アリアリーナを抱えたのであった。
 真夜中の逃亡劇が始まる――。
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