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第57話 彼女だから

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 馬車の中、沈黙が続く。ヴィルヘルムは隣で眠るアリアリーナの寝顔を見つめた。奴隷の姿からは一変、簡素な黄緑色のドレスを纏っている。長く白い睫毛に、高い鼻。石竹色の唇から漏れる息は規則正しい。化粧は一切施していないはずなのに、美麗さがある。そんな彼女をじっと見つめるヴィルヘルム。瞬きをしない、最大限まで開かれた目からは、狂気が滲み出ていた。

「ん……」

 アリアリーナが身動ぎする。ドレスがれ、胸元が見えてしまう。世の女性が羨むような豊満な胸が静かに揺れた。ヴィルヘルムはさらに目を見開き、彼女の胸元を直視する。曲線を描く胸。くっきりと刻まれた谷間が魅惑的だ。これ以上見てはいけない思いに駆られたヴィルヘルムは勢い良く目を逸らす。ジャケットを脱ぎ、眠りこけている彼女に被せた。
 頬をほんのり赤らめたヴィルヘルムと、彼の匂いに包まれてより一層深い眠りに落ちていくアリアリーナ。カーテンの隙間から漏れ出る夕日に照らされたふたりは、誰がどう見ても恋人であった。



 皇城に到着したヴィルヘルムは、なかなか起きないアリアリーナを姫抱きにして馬車を降りる。仲睦なかむつまじい姿を目の当たりにしたレイが目を見張り、苦笑する。

「グリエンド公爵様。ありがとうございます。ここからは私が、」
「いい。俺が第四皇女殿下の宮まで運ぼう」
「しかし……」
「何度も言わせてくれるな」

 ヴィルヘルムの言葉に、レイは大人しく口を噤む。ここはヴィルヘルムに従ったほうが懸命だと判断したため、頭を垂れる。ヴィルヘルムはアリアリーナを抱いたまま、皇城内で足を踏み入れた。行き交う人々に凝視されるが、彼はまったく気にしていない。むしろ誇らしげにして見せた。

「どういうことですの……? なぜ、第四皇女殿下とグリエンド公爵が……」
「第四皇女殿下はグリエンド公爵のことを諦めたのでは?」
「でもあれはどう見ても、グリエンド公爵が皇女殿下を特別扱いしていますわよね」
「ならば、グリエンド公爵が第四皇女殿下に好意を……」

 皇城へやって来ていた貴族の夫人たちが口元に手を当てながら噂をする。ヴィルヘルムが眠るアリアリーナを横抱きにして皇城内をり歩いたという話は、きっと瞬く間に広まるだろう。それを想像した彼は、微かにほくそ笑む。直後、以前の自分とは違う、下衆な考えを抱いていることを自覚する。脳内に浮かぶそれを振り払った。

「ヴィルヘルム様!」

 左後方から名を呼ばれる。ヴィルヘルムは立ち止まった。振り返らずとも自身を引き止めた人物が何者か分かる。

「ヴィルヘルム様、まさかここでお会いできるとは、とても嬉しく、おも、い…………」

 子兎のように駆け寄ってきたのは、エナヴェリーナだった。彼女はヴィルヘルムの腕に抱かれたアリアリーナの姿を目に入れるなり、動揺をあらわにした。彼女のあとを追いかけてきた侍女たちも、信じられない光景に叫び声を上げそうになっていた。
 エナヴェリーナは庭園で遊んでいたのか、頭上に手作りの花冠を乗せていた。花の妖精だと言われても納得できてしまうくらいの可憐さは、貴族令息たちを虜にするだろう。ヴィルヘルムにとっては、現在進行形で腕に抱く美しい姫よりずっとどうでもいいことだが。

「なぜ、アリアと一緒にいるのですか?」

 エナヴェリーナは眉尻を下げ、ファイアーオパール色の瞳を潤ませている。ヴィルヘルムを必死に見上げた。
 アリアリーナと一緒に出かけていたと宣いたいところではあるが、それをしてしまえば後々怒られるのは目に見えている。ヴィルヘルムがふたりの奴隷を連れて奴隷闘技大会に出席した噂が広まるだろうが、そこにはアリアリーナはいない設定だ。運営にも体調不良で出席する趣旨を伝えているはずのため、ここで己の欲のために軽率な発言をしてしまえば怪しまれる可能性がある。
 ヴィルヘルムは熟思したあと、口を切る。

「皇城で用を済ませた帰り、第四皇女殿下が倒れているのを見かけたため、宮まで送り届けると名乗り出たのです」
「……そう、なんですね。アリアを抱えているのは、あくまでも人助けということですね?」

 エナヴェリーナに圧をかけられる。人助けと言えば人助けだが、ヴィルヘルムもそこまでお人好しではない。たとえば、眠ってしまったのがアリアリーナではなくエナヴェリーナだったとしたら、彼はわざわざ抱き上げて宮まで運ぶなんてことはしない。そう、アリアリーナだからこそ、人通りの多い場所で姫抱きしてまで運んでいるのだ。それを一から説明するのも面倒だと結論づけたヴィルヘルムは、軽く一礼してエナヴェリーナの横を通り過ぎる。エナヴェリーナは伸ばした手を胸元で握りしめ、周囲には分からぬよう歯を食いしばった。
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