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第92話 口添え
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皇帝とダンスを踊り終わったヴィオレッタは、ルカが立っていた場所にチラリと視線を送る。「好きにしろ」と素っ気なく言ったルカも、少しは嫉妬してくれているのだろうか、と淡い期待を胸に抱いていた。しかし、そんな彼女の期待は至極簡単に打ち破られることとなった。
その場所に、ルカはいなかったのだ。確かに、先程までそこにいたのに。ルカは、残像も、香りも、全てを消し去っていなくなっていた。
呆気に取られ何がなんだか理解できていない様子のヴィオレッタを見た皇帝は、顎に手をあて少し考える仕草をした。そして思いついたように、パッと顔を上げた。
「ヴィオレッタ。少し付き合ってくれ」
「……分かり、ました」
ヴィオレッタは恐る恐る頷く。皇帝はそんな彼女の手を握り、多くの視線を集める中、バルコニーへ向かった。
バルコニーに出ると、夜の生温かくも寒い春風が肌にまとわりついた。馬車から眺めた夕日はどこへやら。すっかりと安眠態勢に入った太陽が恋しく感じる。太陽に代わり、空を彩るのは、大きな三日月。本来の姿ではない、完全ではない姿ながらも、爛々と煌めく三日月は、非常に美しく見える。
ヴィオレッタの心を支配するのは、忽然と消えたルカのこと。早く彼を捜しにいかなければならないのに、体は不思議なまでに固まっていて動かない。その時、彼女の手を握っていた皇帝の手に力がこもったのを感じた。
そうだ、今は皇帝と共にいるのだ。周囲には、ふたりを邪魔しようと目論む不埒な輩はいない。今のうちに、サンロレツォ公爵の件について、皇帝に口添えをしておこう。そう考えたヴィオレッタは、いつになく静かに佇む皇帝を見上げる。湖よりも澄み渡るエメラルドグリーンの眼と目が合い、彼女はヒュッと喉を鳴らす。いつもの感情の映らない表情はどこに旅してしまったのだろうか。皇帝は自らの美貌に、慈悲深い笑みを湛えていた。
思わずその笑顔に惑わされそうになったヴィオレッタは、不自然に顔を背け、話し始めた。
「陛下。初めて、陛下と面と向かってお話をさせていただいた時、父が怨念を向けられていた可能性があると仰いましたよね? 実は、私の兄、ルクアーデ子爵も同じことを言っておりました。そしてとうとう……父を陰謀にはめた大罪人を見つけ出したのです」
ヴィオレッタの言葉に、皇帝は驚かない。何も言わないことから、大罪人の名を告げろと促しているのだろうと察したヴィオレッタは、深く呼吸をする。意を決して、口を切る。
「サンロレツォ公爵ですわ」
皇帝は、「ふむ」と納得した様子で目を伏せた。
サンロレツォ公爵は、ルクアーデ公爵を恨んでいたのだろうか。そこまではっきりとは分からない。だが金の欲しさに、先代皇帝と共謀して、ルクアーデ公爵を陥れたことは間違いない。その事実が確固として存在しているのならば、あとはどうでもいい。娘と共に地獄に堕ちてもらうだけだ。
「もし、ルクアーデ子爵がその件を告発した際には、どうか公正な判断と処罰をお願いいたします」
「…………いいだろう。ほかでもないお前の頼みだからな」
皇帝はヴィオレッタの手を持ち上げ、その甲に口付けを落とす。だが、唇は触れていない。煌びやかな見た目に反し、意外と紳士な皇帝に、ヴィオレッタの心は激しく揺さぶられた。
「サンロレツォと言えば、社交界の天使と名高い女の生家だな。婚約者にやたらと絡んでいるとお前が困っていた女だろう?」
「…………はい」
「来たる日が来れば、痛い目を見ると言っていたが、まさしくお前の思い通りに事が運びそうだな」
皇帝は上機嫌に笑う。
今まで散々、ベアトリーチェに好き勝手させていたのだ。もうそろそろ、形勢逆転してもいい頃合いだろう。
ヴィオレッタは、ほくそ笑む。しかし、すぐにその笑みは崩れ去り、悲しみに満ちた表情となる。横顔を見つめていた皇帝は、ぽつりと言葉を漏らした。
「笑わせてやりたいと思った女は、お前が初めてだ」
ヴィオレッタは愕然とし、反射的に顔を上げる。皇帝はヴィオレッタの髪を撫で、頬にするりと触れる。あまりにも自然で性的な欲求を一切感じさせない触れ方に、ヴィオレッタは慄然とする。どういう意味で、何を感じて、彼女に触れているのだろうか。皇帝には、愛した女性アリーシャがいるはず。今は死してしまったが、彼は一生アリーシャを忘れられないだろう。だが、彼は今、ヴィオレッタだけを見つめていた。不純物など映さないまっすぐな瞳で。
ヴィオレッタは後退りをして、皇帝の手から逃れようとする。だが、皇帝はそれを看過しない。強引ながらも震える手で、彼女の腰を引き寄せた。
その場所に、ルカはいなかったのだ。確かに、先程までそこにいたのに。ルカは、残像も、香りも、全てを消し去っていなくなっていた。
呆気に取られ何がなんだか理解できていない様子のヴィオレッタを見た皇帝は、顎に手をあて少し考える仕草をした。そして思いついたように、パッと顔を上げた。
「ヴィオレッタ。少し付き合ってくれ」
「……分かり、ました」
ヴィオレッタは恐る恐る頷く。皇帝はそんな彼女の手を握り、多くの視線を集める中、バルコニーへ向かった。
バルコニーに出ると、夜の生温かくも寒い春風が肌にまとわりついた。馬車から眺めた夕日はどこへやら。すっかりと安眠態勢に入った太陽が恋しく感じる。太陽に代わり、空を彩るのは、大きな三日月。本来の姿ではない、完全ではない姿ながらも、爛々と煌めく三日月は、非常に美しく見える。
ヴィオレッタの心を支配するのは、忽然と消えたルカのこと。早く彼を捜しにいかなければならないのに、体は不思議なまでに固まっていて動かない。その時、彼女の手を握っていた皇帝の手に力がこもったのを感じた。
そうだ、今は皇帝と共にいるのだ。周囲には、ふたりを邪魔しようと目論む不埒な輩はいない。今のうちに、サンロレツォ公爵の件について、皇帝に口添えをしておこう。そう考えたヴィオレッタは、いつになく静かに佇む皇帝を見上げる。湖よりも澄み渡るエメラルドグリーンの眼と目が合い、彼女はヒュッと喉を鳴らす。いつもの感情の映らない表情はどこに旅してしまったのだろうか。皇帝は自らの美貌に、慈悲深い笑みを湛えていた。
思わずその笑顔に惑わされそうになったヴィオレッタは、不自然に顔を背け、話し始めた。
「陛下。初めて、陛下と面と向かってお話をさせていただいた時、父が怨念を向けられていた可能性があると仰いましたよね? 実は、私の兄、ルクアーデ子爵も同じことを言っておりました。そしてとうとう……父を陰謀にはめた大罪人を見つけ出したのです」
ヴィオレッタの言葉に、皇帝は驚かない。何も言わないことから、大罪人の名を告げろと促しているのだろうと察したヴィオレッタは、深く呼吸をする。意を決して、口を切る。
「サンロレツォ公爵ですわ」
皇帝は、「ふむ」と納得した様子で目を伏せた。
サンロレツォ公爵は、ルクアーデ公爵を恨んでいたのだろうか。そこまではっきりとは分からない。だが金の欲しさに、先代皇帝と共謀して、ルクアーデ公爵を陥れたことは間違いない。その事実が確固として存在しているのならば、あとはどうでもいい。娘と共に地獄に堕ちてもらうだけだ。
「もし、ルクアーデ子爵がその件を告発した際には、どうか公正な判断と処罰をお願いいたします」
「…………いいだろう。ほかでもないお前の頼みだからな」
皇帝はヴィオレッタの手を持ち上げ、その甲に口付けを落とす。だが、唇は触れていない。煌びやかな見た目に反し、意外と紳士な皇帝に、ヴィオレッタの心は激しく揺さぶられた。
「サンロレツォと言えば、社交界の天使と名高い女の生家だな。婚約者にやたらと絡んでいるとお前が困っていた女だろう?」
「…………はい」
「来たる日が来れば、痛い目を見ると言っていたが、まさしくお前の思い通りに事が運びそうだな」
皇帝は上機嫌に笑う。
今まで散々、ベアトリーチェに好き勝手させていたのだ。もうそろそろ、形勢逆転してもいい頃合いだろう。
ヴィオレッタは、ほくそ笑む。しかし、すぐにその笑みは崩れ去り、悲しみに満ちた表情となる。横顔を見つめていた皇帝は、ぽつりと言葉を漏らした。
「笑わせてやりたいと思った女は、お前が初めてだ」
ヴィオレッタは愕然とし、反射的に顔を上げる。皇帝はヴィオレッタの髪を撫で、頬にするりと触れる。あまりにも自然で性的な欲求を一切感じさせない触れ方に、ヴィオレッタは慄然とする。どういう意味で、何を感じて、彼女に触れているのだろうか。皇帝には、愛した女性アリーシャがいるはず。今は死してしまったが、彼は一生アリーシャを忘れられないだろう。だが、彼は今、ヴィオレッタだけを見つめていた。不純物など映さないまっすぐな瞳で。
ヴィオレッタは後退りをして、皇帝の手から逃れようとする。だが、皇帝はそれを看過しない。強引ながらも震える手で、彼女の腰を引き寄せた。
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