上 下
44 / 168

第44話 騎士王の苦悩

しおりを挟む
 騎士団の本部。《四騎士》の騎士王の執務室は、閑散とした空気の中、身の毛もよだつ冷気が立ち込めていた。
 その冷気を放つ原因は、執務室の中央にあった。ソファーに深く腰掛けていたのは、ルカ。ターコイズブルーの双眸は、激しい怒気を通り越した冷酷さを抱いていた。
 一年を通して常に何かに苛立っているルカだが、今回は18年の人生の中でも五本の指に入るほど、憤怒の念を覚えていた。
 そんな彼の正面に座るのは、コーヒーブラウンの髪とサンストーン色の瞳の男性。尖った顎には、髪色と同色の髭が生えている。不潔さといったものは全く感じさせない、むしろ勇ましさと色気が溢れ出ていた。肩幅は広く、騎士服がはち切れんばかりに引き伸ばされている。肩からなびくマントは、ヘティリガ騎士団の中でも許された騎士のみがまとうことを許された代物だ。見た目の荘厳そうごんさとは裏腹に、その男性は借りてきた猫のように体を震わせていた。
 彼の名は、イェレミス・ユーリ・パルシ・テオンリヒ。御年45歳となったテオンリヒ公爵である。そして、《四騎士》の一柱を飾る騎士神の異名を与えられたヘティリガの騎士団長でもある男だ。

「る、ルカく~ん。オレの言ったこと聞いてたかな~?」
「チッ、うるせぇ黙れ」

 ルカは唯一の上官の前で堂々と足を組み、イェレミスを睨みつける。獰猛どうもうな獣をも退ける鋭い眼差しに、イェレミスは降参の意志を示すため、両手を挙げて見せた。
 ルカの手には、一枚の新聞が握られていた。今にもその新聞は、ぐしゃぐしゃに丸められゴミ箱に放り投げられてしまいそうだが、崖っぷちのところで耐えていた。
 ルカが見つめる新聞には、皇帝がヴィオレッタを正式に「話し相手」という役職に任命したと記されてあった。朝の訓練もおろそかにして騒いでいた騎士たちを問い質し、彼らから新聞を没収したのだが、まさしく知らぬが仏であったのかもしれない。
 我慢ならなくなったルカは新聞を丸めて、数メートルは離れているゴミ箱にノールックで放り込んだ。

「なんだか気が立っているみたいだし、そろそろ行くな?」
「さっさと出て行け、髭面野郎」
「お口が悪いな~、本当に……」

 イェレミスは苦笑しながら、なるべく音を立てないようにしてルカの執務室をあとにした。
 ひとりきりとなった室内で、ルカは冷静さを取り戻すべく深呼吸を繰り返した。
 世界最高峰の暗殺部隊で第零番隊のエースであるユリウスももちろん危険だが、皇帝もなかなか負けていない。しかしルカは、皇帝がヴィオレッタを本気で好きになることはないと踏んでいた。
 生涯未婚を貫くと宣言しているも同然の皇帝。彼には、社交界でも全く知られていない、暗く悲しい過去がある。例外として、ルカはそれを知っているわけであるが。皇帝は大事な人を亡くしたくないと思っているため、ヴィオレッタを本気で妻にすることはないし、ましてや女遊びもしない淡白な皇帝が彼女を夜伽よとぎの相手に指名するとも思えない、というのがルカの見解であった。
 ひとまずはあまり警戒しなくても問題なさそうだ。皇帝が権力を駆使して、ヴィオレッタ絡みの問題を起こさないことを祈るしかない。

「はぁ……」

 ルカは深呼吸ではなく、溜息を吐いた。
 ヴィオレッタに一目惚れをして、初陣ういじんよりも緊張した婚約の申し込みをした。彼女が婚約を受け入れたと知った時は、興奮冷めやらぬ中、三日間飲まず食わずで剣を振り続けたほどだ。しかし彼女が婚約者となってからも、彼女の男遊びに関連するよからぬ噂は絶えない。ルカは未だに、彼女に対してその噂は真実かどうかを聞けないでいる。信憑性もない噂であることは百も千も万も承知であるが、やはり不安なものは不安なのだ。
 万が一、ヴィオレッタの噂が真実だとしても、現地点においてルカは彼女を問い詰めることはできないだろう。ヴィオレッタが彼のわがまま、強硬きょうこうとも言える婚約を受け入れてくれた以上、「男遊びをやめてくれ」と訴えることやそれ以上を求めることは、お門違かどちがいだと思っているのだ。加えて、「皇帝と会うな」と忠告するだけならまだしも、無理やりな手段を使って退路を断つことも大変好ましくない。
 ルカは、婚約者になったからとヴィオレッタの全てを手に入れたとは思っていない。それどころか、まだ一割も手に入れることができていないのでは、と疑念を抱いている。

「アピールくらいは、いいよな……?」

 独り言を呟く。それは虚空こくうに消え去った。
 自身の気持ちをアピールしていくのはよしとする。しかし思い余って強気の行動に出てしまえば、下手したら怒らせて婚約破棄の手紙を叩きつけられるかもしれない。
 世間一般的には、ヴィオレッタの子爵令嬢という立場では、公爵家に歯向かえない。しかし、天上の嗔恚しんいを知ったヴィオレッタは、世間一般的な問題など関係なしに堂々と婚約破棄を宣言しそうである。ルカはそれを懸念けねんしているのだ。ただでさえ第一印象は最悪、嫌われる一方なのだから、せめてこれ以上は嫌われてはならない。そしてあわよくば、アピールの効果が現れてくれるといい。
 ルカは、ヴィオレッタと婚約者でいるうちは、口うるさいことを言いたくないというプライドを持っていた。しかし、そんなプライドとは反対に、つい踏み入ってはならない一線を越えてしまいそうになる。今は必死に我慢しているが、ヴィオレッタが素直な可愛さを見せてくれる度に、ポロッとこぼれてしまいそうなのだ。実際、この間の祭りでも「俺から逃げることは、いくらテメェでも許さねぇ」と独占欲のかたまりの言葉を吐いてしまった。まだ線は越えていないものの、何度か線を踏んでしまっている。
 ルカは気をつけなければと警報を鳴らすと共に、ヴィオレッタの噂が真実であった場合、彼女に男遊びを咎めるのは結婚する頃、またはその直前でいいだろうと考えを巡らせた。

「結婚してからは浮気する暇ねぇくらい……あ、……あ、……あっ、あい…………あいして、やる」

 吃るが、なんとか最後まで言いきることができたルカの頬は、高熱を疑うくらいに赤く染まりきっていた。
 その瞬間、扉を叩く音が響く。顔に集まった熱が徐々に冷めていくのを実感したルカは、またも舌打ちをかまし扉に向かった。その先に、誰がいるのかも知らずして。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】婚約者が好きなのです

maruko
恋愛
リリーベルの婚約者は誰にでも優しいオーラン・ドートル侯爵令息様。 でもそんな優しい婚約者がたった一人に対してだけ何故か冷たい。 冷たくされてるのはアリー・メーキリー侯爵令嬢。 彼の幼馴染だ。 そんなある日。偶然アリー様がこらえきれない涙を流すのを見てしまった。見つめる先には婚約者の姿。 私はどうすればいいのだろうか。 全34話(番外編含む) ※他サイトにも投稿しております ※1話〜4話までは文字数多めです 注)感想欄は全話読んでから閲覧ください(汗)

初恋の相手と結ばれて幸せですか?

豆狸
恋愛
その日、学園に現れた転校生は私の婚約者の幼馴染で──初恋の相手でした。

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?

せいめ
恋愛
 政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。  喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。  そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。  その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。  閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。  でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。  家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。  その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。    まずは亡くなったはずの旦那様との話から。      ご都合主義です。  設定は緩いです。  誤字脱字申し訳ありません。  主人公の名前を途中から間違えていました。  アメリアです。すみません。    

愛など初めからありませんが。

ましろ
恋愛
お金で売られるように嫁がされた。 お相手はバツイチ子持ちの伯爵32歳。 「君は子供の面倒だけ見てくれればいい」 「要するに貴方様は幸せ家族の演技をしろと仰るのですよね?ですが、子供達にその様な演技力はありますでしょうか?」 「……何を言っている?」 仕事一筋の鈍感不器用夫に嫁いだミッシェルの未来はいかに? ✻基本ゆるふわ設定。箸休め程度に楽しんでいただけると幸いです。

【完結】大好き、と告白するのはこれを最後にします!

高瀬船
恋愛
侯爵家の嫡男、レオン・アルファストと伯爵家のミュラー・ハドソンは建国から続く由緒ある家柄である。 7歳年上のレオンが大好きで、ミュラーは幼い頃から彼にべったり。ことある事に大好き!と伝え、少女へと成長してからも顔を合わせる度に結婚して!ともはや挨拶のように熱烈に求婚していた。 だけど、いつもいつもレオンはありがとう、と言うだけで承諾も拒絶もしない。 成人を控えたある日、ミュラーはこれを最後の告白にしよう、と決心しいつものようにはぐらかされたら大人しく彼を諦めよう、と決めていた。 そして、彼を諦め真剣に結婚相手を探そうと夜会に行った事をレオンに知られたミュラーは初めて彼の重いほどの愛情を知る 【お互い、モブとの絡み発生します、苦手な方はご遠慮下さい】

いつかの空を見る日まで

たつみ
恋愛
皇命により皇太子の婚約者となったカサンドラ。皇太子は彼女に無関心だったが、彼女も皇太子には無関心。婚姻する気なんてさらさらなく、逃げることだけ考えている。忠実な従僕と逃げる準備を進めていたのだが、不用意にも、皇太子の彼女に対する好感度を上げてしまい、執着されるはめに。複雑な事情がある彼女に、逃亡中止は有り得ない。生きるも死ぬもどうでもいいが、皇宮にだけはいたくないと、従僕と2人、ついに逃亡を決行するのだが。 ------------ 復讐、逆転ものではありませんので、それをご期待のかたはご注意ください。 悲しい内容が苦手というかたは、特にご注意ください。 中世・近世の欧風な雰囲気ですが、それっぽいだけです。 どんな展開でも、どんと来いなかた向けかもしれません。 (うわあ…ぇう~…がはっ…ぇえぇ~…となるところもあります) 他サイトでも掲載しています。

【12/29にて公開終了】愛するつもりなぞないんでしょうから

真朱
恋愛
この国の姫は公爵令息と婚約していたが、隣国との和睦のため、一転して隣国の王子の許へ嫁ぐことになった。余計ないざこざを防ぐべく、姫の元婚約者の公爵令息は王命でさくっと婚姻させられることになり、その相手として白羽の矢が立ったのは辺境伯家の二女・ディアナだった。「可憐な姫の後が、脳筋な辺境伯んとこの娘って、公爵令息かわいそうに…。これはあれでしょ?『お前を愛するつもりはない!』ってやつでしょ?」  期待も遠慮も捨ててる新妻ディアナと、好青年の仮面をひっ剥がされていく旦那様ラキルスの、『明日はどっちだ』な夫婦のお話。    ※なんちゃって異世界です。なんでもあり、ご都合主義をご容赦ください。  ※新婚夫婦のお話ですが色っぽさゼロです。Rは物騒な方です。  ※ざまあのお話ではありません。軽い読み物とご理解いただけると幸いです。 ※コミカライズにより12/29にて公開を終了させていただきます。

処理中です...