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第143話 愛

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「残念だが、その日が来ることはない」

 背後から声が聞こえた。聞き覚えしかない、声。低くもどことなく甘さのある声だ。一ヶ月と半月ほど、聞かなかっただけで忘れるわけがなかった。
 激しい風が吹き荒れる。ひとつに結った黒髪がふわりと揺れた。ラダベルの全身が震える。
 ソルが声の主を注視している。我に返ったラダベルは急いで立ち上がり、スカートを捲り上げて冬の冷たい川に足を入れる。なかなかに勢いがある川だが、渡れないことはない。水流の中、足を滑らせないよう細心の注意を払いながら歩くと、突如腕を取られた。衝撃により、スカートを掴んでいた手を放してしまう。スカートの裾が水に濡れるが、そんなことを気にしている場合ではない。ラダベルは振り返らぬまま、掴まれた腕を振り払おうとした。

「ラダベル」

 先程よりも至近距離で名前を呼ばれる。

(嫌だ、どうして……)

 ラダベルは必死になって、逃げようとする。しかし足がもつれて、倒れそうになってしまう。思わず目を瞑った時、思いっきり腕を引かれた。水の音と、激しく舞う水飛沫みずしぶき。恐る恐る、目を開ける。目の前には、苦しいほど恋焦がれたジークルドの姿があった。彼もラダベルと同様、全身が濡れてしまっている。相も変わらず、美しかった。

「ラダベル……」

 ジークルドに名を呼ばれる。ラダベルは無言で顔を背けて、立ち上がろうとする。しかし水を含んでしまった服が重いし、何よりジークルドに腰と腕を掴まれてしまっているため、まったく身動きが取れない。もどかしさを感じていると、後頭部を引き寄せられる。自然と彼の肩に顔が埋まってしまう。久々の、ジークルドの香り。ラダベルの涙腺が緩んだ。

「ラダベル、頼む、逃げないでくれ……」

 切実な声に、動きを止めた。捨てないで、と悲痛に訴えかけてくるジークルド。心の奥底に無理やり抑え込んだはずの恋心がじわりじわりと漏れ始める。

「やっと、見つけた」

 ジークルドはそっと離れ、ラダベルの頬を両手で包み込んだ。手袋は、していない。なぜ、今日に限って手袋を取っているのか。直にジークルドの温もりが伝わってきて、胸が苦しくなってしまう。ラダベルは、きゅっと唇を真一文字に引き結ぶ。

「どうして……ここに……」
「どうしてだと? 本気で言っているのか?」

 ジークルドの表情が憤怒に染まる。ラダベルはビクッと怯えた。ジークルドは彼女の怯えようを見て、すぐさま怒りを鎮める。苦虫を噛み潰したような顔をした。

「責めたいわけではない……。怖がらせて悪かった」
「………………」
「ラダベル、お前に伝えたいことがある」

 まっすぐな目に射抜かれる。
 聞きたくないと思ったラダベルは、瞬発的に耳を塞ごうとする。その瞬刻、引き寄せられてキスをされた。優しい。子供のお遊びのような、触れ合うだけの、キス。永遠の時間にも感じるその口づけに、ラダベルは唖然としていた。数秒後、ふたりの唇は離れる。


「好きだ」


 全身が脈打つ。


「愛してる」


 熱のこもったパープルダイヤモンド色の眼。頬に触れる手には力が入っている。好きだと愛していると、全身全霊ぜんしんぜんれいをもって伝えてくるジークルドに、ラダベルは自然と涙した。

「俺が愛しているのは、お前だけだ、ラダベル。アナスタシアも眼中にないほどに……俺はお前だけを愛している。束縛したい、縛りつけたい、俺のもとに置いておきたい。俺が抱く愛は純粋なものではないが……醜い感情だが、どうか、離れないでほしい」

 ジークルドの熱烈な言霊ことだまに、瞠目した。
 ジークルドは、ラダベルを愛している。
 その事実に、ラダベルは驚倒した。彼の唯一の想い人は、アナスタシアではないのだ。ラダベルだけ、なのだ。ジークルドの想いを聞いてもなお、未だ現実を受け止めきれない。

「お前は俺のことを、好きではないだろう」
「……へ、?」

 ラダベルは涙を流しながら、間抜けな声を上げた。ジークルドが悲しげに俯く。

「……分かっている。好かれてないことくらい、俺が一番、よく分かっている。だが、離婚は……したくない……。すまない、これは俺のわがままだ……」 

 ジークルドはラダベルの頬から手を放して、彼女を優しく抱きしめた。大きな体は、静かに震えていた。
 嘘だなんて、そんな薄情なこと、言えるわけがなかった。彼の表情や態度を見れば、それが嘘ではないことは、一目瞭然いちもくりょうぜんだったから。
 ラダベルはジークルドから離れ、彼の肩に手を置く。

「ジークルド様……。私を好きだというのは……私をこの世界で最も愛しているというのは、本当なんですね?」

 この世界で最も愛しているなどとは言っていないが、都合良く解釈するラダベルに、ジークルドは何も言わず素直に頷いた。

「ほかの誰でもない、この私を、今も、そしてこれからも、ずっと愛し続けるのですね?」

 もう一度問いかけると、ジークルドは強く頷いた。ラダベルは、泣きながら微笑む。あまりにも美しい表情だった。
 ジークルドがラダベルを想っているという事実は、傷ついた彼女の心を癒すのには十分すぎる治療薬だった。ラダベルは、ジークルドの首にするりと両腕を回す。


「私もあなたが、大好きです」


 一言、そう言ったのだった。
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