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第135話 終わりと始まりの境界線
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「待て」
ラダベルの全身に力が入る。泥酔していたはずなのに、こちらが油断した瞬間に、急に低い声を出すなんて反則だ。一体何を言われるのか。彼女は、恐怖に震えていた。
「ぼくは、ふしぎにおもっていることが、ある」
先程の恐れを抱かせるような低い声は、どこへいってしまったのか。まったく呂律が回っていない。
「あのおんな……サレオンのぜんさいが、あやしい」
アデルが発した言葉に、ラダベルは震えを止めて彼を見る。暗澹たる闇の中、彼は俯いていた。
「サレオンは、ゆうしゅうなぐんじんだった。そうかんたんにはしなないおとこでもある」
アデルの言う通り、サレオン先代公爵は、とても優秀な軍人であった。女性陣を片っ端から虜にする美貌と輝かしい戦歴も相まって、皇族からの信頼も厚く、貴族や平民からの人気も高かった。悪戦況もがらりと覆してしまうほどの頭のキレと判断力に関しては、レイティーン帝国随一だ。
そんな彼が、たかが南部の防衛戦で亡くなったともなれば、信じられないのは当然のことであった。しかし確かに、サレオン先代公爵は亡くなった。負け戦など知らない彼は、初めての敗北を経験すると共に永遠の眠りについたのだ。その事実は、変えようがない。
「第二皇子殿下。信頼のおける部下の方がお亡くなりになったことは誠に残念ですが……そろそろ現実を、」
「違う。受け入れる受け入れないの問題ではない。事実を踏まえた上で、ありえないのだと言っている」
アデルは再びスラスラと喋り出す。
サレオン先代公爵の死は、事実を踏まえた上で「ありえない」のだと、アデルは言った。それはどういうことなのか、問いかける勇気はラダベルにはなかった。
「よし、そうときまれば、さっそくちょうさをはじめるべきだな」
勝手にひとりで結論を出したアデルは、ラダベルに背を向ける。千鳥足のため、何度か転びそうになっているが、手を貸してやる時間も余裕もラダベルにはない。遠ざかるアデルの背を静かに見送った。
ラダベルは、心に溜まる鬱屈を無視して、歩き出した。
彼女の本来の目的地である場所へ向かう。そこは、知る人ぞ知る裏口であった。城が襲撃された際、逃亡を図るための出入口だ。そこを抜けると、ラダベルがあらかじめ手配しておいた馬車が。もちろん、馬車を操縦している男は城の者ではないため、後腐れなどは一切感じずに済む。
ラダベルは馬車に乗り込み、扉をきっちりと閉めた。馬車は闇夜の中を走り始める。誰にも見つかりませんように、と祈りを込めながら外に視線を向ける。夜の中、薄らと浮かび上がるのは、遠ざかるルドルガーの城。もう、あの城に帰ることはできない――。
まだ、18歳のラダベル。この先どれほど生きることになるかは分からないが、その一生を通して、あの城に戻ることはないだろう。夢か現実かも分からない、とてつもなく短い期間だった。ジークルドと結婚し、彼を愛した事実は、もう過去に、ここに、置いていこう。
アデルとは違い、ジークルドを愛した事実に関して、後悔はしたくない。彼が賞賛に値する素晴らしい人間だからこそ、彼の幸せを願いたい。アナスタシアという本来の運命の人と結ばれ、彼女との間に愛の結晶を育み、温かく優しい家庭を築くのだ。そこに、ラダベルの居場所は、ない。
どうか、幸せになってほしい。
ジークルドを恨みたくなどない。
彼の幸せを祈る、自分で在りたい。
彼が生きてくれてさえいれば、それでいいのだ。
たとえ、彼の生き様を傍で見つめることができなくても。
たとえ、彼を支えるのが自分の役目でなかったとしても。
生きてさえいてくれれば、幸せになってくれれば、それで――。
そこまで考えたところで、ラダベルの黄金の瞳から涙が落ちる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ。
ジークルドを幸せにするのは、自分がいい。
彼の隣にいるのは、自分がいい。
アナスタシアに渡したくない。
誰にも渡したくない。
ジークルドを自分のものだけにしたい。
彼を、諦めたくない――。
ラダベルは、ひとり涙する。鼻を啜り、窓の外を眺める。次から次へと溢れる涙を拭った。彼を想って泣くのは、最後にしよう。叶わない恋。もう、間に合わない。
ラダベルの淡い恋が終わりを告げる鐘が鳴り響く。これから始まるのは、彼女の新たな物語だ。
ラダベルの全身に力が入る。泥酔していたはずなのに、こちらが油断した瞬間に、急に低い声を出すなんて反則だ。一体何を言われるのか。彼女は、恐怖に震えていた。
「ぼくは、ふしぎにおもっていることが、ある」
先程の恐れを抱かせるような低い声は、どこへいってしまったのか。まったく呂律が回っていない。
「あのおんな……サレオンのぜんさいが、あやしい」
アデルが発した言葉に、ラダベルは震えを止めて彼を見る。暗澹たる闇の中、彼は俯いていた。
「サレオンは、ゆうしゅうなぐんじんだった。そうかんたんにはしなないおとこでもある」
アデルの言う通り、サレオン先代公爵は、とても優秀な軍人であった。女性陣を片っ端から虜にする美貌と輝かしい戦歴も相まって、皇族からの信頼も厚く、貴族や平民からの人気も高かった。悪戦況もがらりと覆してしまうほどの頭のキレと判断力に関しては、レイティーン帝国随一だ。
そんな彼が、たかが南部の防衛戦で亡くなったともなれば、信じられないのは当然のことであった。しかし確かに、サレオン先代公爵は亡くなった。負け戦など知らない彼は、初めての敗北を経験すると共に永遠の眠りについたのだ。その事実は、変えようがない。
「第二皇子殿下。信頼のおける部下の方がお亡くなりになったことは誠に残念ですが……そろそろ現実を、」
「違う。受け入れる受け入れないの問題ではない。事実を踏まえた上で、ありえないのだと言っている」
アデルは再びスラスラと喋り出す。
サレオン先代公爵の死は、事実を踏まえた上で「ありえない」のだと、アデルは言った。それはどういうことなのか、問いかける勇気はラダベルにはなかった。
「よし、そうときまれば、さっそくちょうさをはじめるべきだな」
勝手にひとりで結論を出したアデルは、ラダベルに背を向ける。千鳥足のため、何度か転びそうになっているが、手を貸してやる時間も余裕もラダベルにはない。遠ざかるアデルの背を静かに見送った。
ラダベルは、心に溜まる鬱屈を無視して、歩き出した。
彼女の本来の目的地である場所へ向かう。そこは、知る人ぞ知る裏口であった。城が襲撃された際、逃亡を図るための出入口だ。そこを抜けると、ラダベルがあらかじめ手配しておいた馬車が。もちろん、馬車を操縦している男は城の者ではないため、後腐れなどは一切感じずに済む。
ラダベルは馬車に乗り込み、扉をきっちりと閉めた。馬車は闇夜の中を走り始める。誰にも見つかりませんように、と祈りを込めながら外に視線を向ける。夜の中、薄らと浮かび上がるのは、遠ざかるルドルガーの城。もう、あの城に帰ることはできない――。
まだ、18歳のラダベル。この先どれほど生きることになるかは分からないが、その一生を通して、あの城に戻ることはないだろう。夢か現実かも分からない、とてつもなく短い期間だった。ジークルドと結婚し、彼を愛した事実は、もう過去に、ここに、置いていこう。
アデルとは違い、ジークルドを愛した事実に関して、後悔はしたくない。彼が賞賛に値する素晴らしい人間だからこそ、彼の幸せを願いたい。アナスタシアという本来の運命の人と結ばれ、彼女との間に愛の結晶を育み、温かく優しい家庭を築くのだ。そこに、ラダベルの居場所は、ない。
どうか、幸せになってほしい。
ジークルドを恨みたくなどない。
彼の幸せを祈る、自分で在りたい。
彼が生きてくれてさえいれば、それでいいのだ。
たとえ、彼の生き様を傍で見つめることができなくても。
たとえ、彼を支えるのが自分の役目でなかったとしても。
生きてさえいてくれれば、幸せになってくれれば、それで――。
そこまで考えたところで、ラダベルの黄金の瞳から涙が落ちる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ。
ジークルドを幸せにするのは、自分がいい。
彼の隣にいるのは、自分がいい。
アナスタシアに渡したくない。
誰にも渡したくない。
ジークルドを自分のものだけにしたい。
彼を、諦めたくない――。
ラダベルは、ひとり涙する。鼻を啜り、窓の外を眺める。次から次へと溢れる涙を拭った。彼を想って泣くのは、最後にしよう。叶わない恋。もう、間に合わない。
ラダベルの淡い恋が終わりを告げる鐘が鳴り響く。これから始まるのは、彼女の新たな物語だ。
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