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第118話 失恋の時を迎えて
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「サレオン公爵家と絶縁し、実家に帰るつもりよ」
アナスタシアの宣言に、ジークルドはゴクリと喉を鳴らす。
サレオン公爵家は、アナスタシアにとって居心地の悪い空間だったのだろう。サレオン公爵と彼女の間に子はいない、恋愛結婚でもない。帝国民も知らぬ間に、夫婦仲は冷えきっていたのかもしれない。サレオン公爵家の一族の者たちに、「お世継ぎを」と急かされていたはずだし、その度にアナスタシアは肩身の狭い思いをしてきたに違いない。
ルドルガー伯爵家は、新興貴族だ。当主であるジークルドの両親は既に他界しており、ラダベルのほかに家族と呼べる者もいないはず。そのため、親戚絡みの問題などに困らされることはほぼないと言っていい。しかし、サレオン公爵家はどうだろうか。一族としての歴史は気が遠くなるほどに長く、親戚も帝国内外にいる。そんな一族の当主の妻として嫁いだアナスタシアは、随分と息の詰まる生活を強いられていたのだろう。
「それを、サレオン公爵家は許しているのか?」
「……サレオン公爵家の新当主には、夫の従兄弟の名前が挙がっているの。近いうちに、皇帝陛下と第二皇子殿下のもとへ推薦状が送られるわ。彼は極南の軍人だし、階級も実力も申し分ない。奥様もふたりのご子息もいる。彼が、南の覇者となれば、私はもう……用済みよ」
アナスタシアは自嘲気味に笑った。ゴールデンパール色の瞳から、一滴の涙が流れ落ちた。
長年、南部の統治者として名を馳せてきたサレオン公爵家。後継者不足という不名誉な言われで、これまで守り抜いてきた地位を追われるわけにはいかないのだ。なんとしてでも、南部の玉座を守るという強い意志が窺える。皇帝も、長い間忠誠を誓ってきたサレオン公爵家をわざわざ裏切る真似はしないだろう。新しい軍人が南部の統治者の座に座るという選択肢はなさそうだ、とラダベルは思ったのであった。
それにしても、アナスタシアは哀れな女性だ。ラダベルは、密かに彼女に同情を寄せた。彼女にはまだ、オースター侯爵という頼れる家族がいる。それだけが救いなのではなかろうか。
「だから、ジークルド……。あなたのことを、頼ってもいい?」
アナスタシアは目元の涙を拭いながら、ゆっくりと面を上げる。その表情に、ラダベルは瞠若する。そこで彼女は、一瞬で理解した。
アナスタシアは、ジークルドのことが好きなのだと。
そして、きっと、ジークルドも――。
ラダベルは、恐る恐るジークルドを見た。
(あ)
心の中の声は、幸いにも声には出なかった。涙腺が緩む気配がする。すぐさまこの場を離れなくてはならない。
「では、私はそろそろ失礼いたします」
ラダベルはアナスタシアに頭を下げて、踵を巡らす。反応が遅れたジークルドが去ろうとする彼女に手を伸ばす。しかしその手は、宙を掠る。後ろから、アナスタシアに抱きつかれたからだ。
「……離せっ」
「ジークルド! お願い……。少しだけ、このままでいさせて……」
アナスタシアの懇願。背中から伝わってくる震えに、ジークルドはどうすることもできず唇を噛みしめた。彼の視線はずっと、ラダベルの背を追っていたのであった。
衣装室がある宮に通ずる渡り廊下を足早に渡りきったラダベルは、ふと足を止める。
ジークルドは、アナスタシアを見て物寂しい表情をしていた。アナスタシアが、好きなのだ。アデルが言っていた、ジークルドが忘れられない女性とは、彼女のことだったのだ。それを今一度理解したラダベルは、フラフラとした足取りで、窓辺に向かう。大きな窓に寄りかかり、外を眺めた。
「バカじゃないの、どいつもこいつも」
口から飛び出る罵倒。それを聞く者は、誰ひとりとしていない。聞かれたところで、別に構わなかった。払拭されつつあるラダベルの悪名が息を吹き返すだけだから。
ジークルドは、アナスタシアが好き。彼女を未だ、忘れられない。オースター侯爵家の命令か、軍人としての役目か、どういった経緯でアナスタシアがサレオン公爵家に嫁いだのかはラダベルには分からない。ジークルドと想い合っていたのであれば、彼と結婚すればよかったのに、そうはいかなかった原因があるのだ。ラダベルの虚ろな目から雫が溢れ落ちる。
(失恋、ね)
分かっていたとしても、いざこの瞬間が訪れるとなると、抉られるものがある。ラダベルは窓に体を預けながら、ひとり泣き続けたのであった。
涙を流し尽くしたのではないかと思うほど、喪服の袖口を濡らした頃。
「ラダベル?」
何者かに声をかけられる。
アナスタシアの宣言に、ジークルドはゴクリと喉を鳴らす。
サレオン公爵家は、アナスタシアにとって居心地の悪い空間だったのだろう。サレオン公爵と彼女の間に子はいない、恋愛結婚でもない。帝国民も知らぬ間に、夫婦仲は冷えきっていたのかもしれない。サレオン公爵家の一族の者たちに、「お世継ぎを」と急かされていたはずだし、その度にアナスタシアは肩身の狭い思いをしてきたに違いない。
ルドルガー伯爵家は、新興貴族だ。当主であるジークルドの両親は既に他界しており、ラダベルのほかに家族と呼べる者もいないはず。そのため、親戚絡みの問題などに困らされることはほぼないと言っていい。しかし、サレオン公爵家はどうだろうか。一族としての歴史は気が遠くなるほどに長く、親戚も帝国内外にいる。そんな一族の当主の妻として嫁いだアナスタシアは、随分と息の詰まる生活を強いられていたのだろう。
「それを、サレオン公爵家は許しているのか?」
「……サレオン公爵家の新当主には、夫の従兄弟の名前が挙がっているの。近いうちに、皇帝陛下と第二皇子殿下のもとへ推薦状が送られるわ。彼は極南の軍人だし、階級も実力も申し分ない。奥様もふたりのご子息もいる。彼が、南の覇者となれば、私はもう……用済みよ」
アナスタシアは自嘲気味に笑った。ゴールデンパール色の瞳から、一滴の涙が流れ落ちた。
長年、南部の統治者として名を馳せてきたサレオン公爵家。後継者不足という不名誉な言われで、これまで守り抜いてきた地位を追われるわけにはいかないのだ。なんとしてでも、南部の玉座を守るという強い意志が窺える。皇帝も、長い間忠誠を誓ってきたサレオン公爵家をわざわざ裏切る真似はしないだろう。新しい軍人が南部の統治者の座に座るという選択肢はなさそうだ、とラダベルは思ったのであった。
それにしても、アナスタシアは哀れな女性だ。ラダベルは、密かに彼女に同情を寄せた。彼女にはまだ、オースター侯爵という頼れる家族がいる。それだけが救いなのではなかろうか。
「だから、ジークルド……。あなたのことを、頼ってもいい?」
アナスタシアは目元の涙を拭いながら、ゆっくりと面を上げる。その表情に、ラダベルは瞠若する。そこで彼女は、一瞬で理解した。
アナスタシアは、ジークルドのことが好きなのだと。
そして、きっと、ジークルドも――。
ラダベルは、恐る恐るジークルドを見た。
(あ)
心の中の声は、幸いにも声には出なかった。涙腺が緩む気配がする。すぐさまこの場を離れなくてはならない。
「では、私はそろそろ失礼いたします」
ラダベルはアナスタシアに頭を下げて、踵を巡らす。反応が遅れたジークルドが去ろうとする彼女に手を伸ばす。しかしその手は、宙を掠る。後ろから、アナスタシアに抱きつかれたからだ。
「……離せっ」
「ジークルド! お願い……。少しだけ、このままでいさせて……」
アナスタシアの懇願。背中から伝わってくる震えに、ジークルドはどうすることもできず唇を噛みしめた。彼の視線はずっと、ラダベルの背を追っていたのであった。
衣装室がある宮に通ずる渡り廊下を足早に渡りきったラダベルは、ふと足を止める。
ジークルドは、アナスタシアを見て物寂しい表情をしていた。アナスタシアが、好きなのだ。アデルが言っていた、ジークルドが忘れられない女性とは、彼女のことだったのだ。それを今一度理解したラダベルは、フラフラとした足取りで、窓辺に向かう。大きな窓に寄りかかり、外を眺めた。
「バカじゃないの、どいつもこいつも」
口から飛び出る罵倒。それを聞く者は、誰ひとりとしていない。聞かれたところで、別に構わなかった。払拭されつつあるラダベルの悪名が息を吹き返すだけだから。
ジークルドは、アナスタシアが好き。彼女を未だ、忘れられない。オースター侯爵家の命令か、軍人としての役目か、どういった経緯でアナスタシアがサレオン公爵家に嫁いだのかはラダベルには分からない。ジークルドと想い合っていたのであれば、彼と結婚すればよかったのに、そうはいかなかった原因があるのだ。ラダベルの虚ろな目から雫が溢れ落ちる。
(失恋、ね)
分かっていたとしても、いざこの瞬間が訪れるとなると、抉られるものがある。ラダベルは窓に体を預けながら、ひとり泣き続けたのであった。
涙を流し尽くしたのではないかと思うほど、喪服の袖口を濡らした頃。
「ラダベル?」
何者かに声をかけられる。
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