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第88話 今さら……
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花が綻ぶような微笑みを見て、ティオーレ公爵は瞠目した。彼の薄めの唇がゆっくりと開く。
「あいつに、似ているな」
ティオーレ公爵がひとりでに呟いた。ラダベルは首を傾げる。彼の言う「あいつ」とは、一体誰なのだろうか。ティオーレ公爵が自身を通して誰を見つめているのか。ラダベルには到底分からなかった。露骨に眉間に皺を寄せる。
「どなたのことですか?」
ラダベルが問うと、ティオーレ公爵は瞬時に口元を押さえた。どうやら知らぬうちに、声に出してしまっていたことに仰天したようだ。トパーズ色の瞳が動揺に揺れる。
「お前の……母のことだ」
「……私のお母様ですか? 私とお母様が似ているのですか?」
「………………」
「お父様?」
ラダベルがティオーレ公爵の顔色を窺う。するとティオーレ公爵は、ごくりと息を呑んでこう言った。
「笑顔が、そっくりだ」
ラダベルは、愕然とした。ティオーレ公爵夫人と笑顔が似ているなどと言われるとは、さすがの彼女もまったく予想をしていなかった。
物心がついた頃には、母、ティオーレ公爵夫人はもう既に他界してしまっていた。ティオーレ公爵は、ラダベルに対して常に厳しく接していたため、ラダベルが心を許せる人間は屋敷内には誰ひとりとしていなかった。ティオーレ公爵夫人が生きていたならば、ラダベルも悪女にはならなかったのかもしれない。生粋の悪女だと、嫌われることもなかったのではなかろうか。
ティオーレ公爵夫人の顔は、肖像画でしか見たことがない。ラダベルの美しい艶やかな黒髪は、彼女譲りだ。気の強そうな美貌の持ち主であった。笑顔がそっくりということは、ラダベルとティオーレ公爵夫人は似ている。ティオーレ公爵は、ふたりの笑顔が似ていると今さら口にした。それは、これまでラダベルがティオーレ公爵の前で笑顔になったことがないと証明している。
ラダベルは顔から表情を消し去った。ティオーレ公爵は表情を殺しきった彼女を目の当たりにして、黙りこくる。
「もう、失礼してもよろしいですか?」
ラダベルの言葉に、ティオーレ公爵は何も言わない。それを肯定と受け取ったラダベルは、颯爽と席を立つ。
ふたりの間に、親子の絆などという温かいものは存在しない。別世界から転生した今、ラダベルとして生きてはいるが、ティオーレ公爵を実の父親だと思ったことは一度もない。もとのラダベルも、もしかしたら同じ気持ちだったのかもしれない。父親であるティオーレ公爵に愛されず、公爵邸ではひとり寂しく育った。社交界でも冷遇されれば、なおのこと。孤独に陥った彼女がアデルという光に依存するのは、致し方のないことだったのだ。ラダベルは、自分自身に同情を寄せる。
「では、失礼いたします」
ティオーレ公爵に頭を下げて、背を向ける。すると背後で、ガタッという椅子の音が鳴り響く。
「待て」
ティオーレ公爵に呼び止められる。命令口調だが、冷静ないつもとは違い、切羽詰まった声だ。ラダベルは立ち止まり、振り返る。
「結婚生活に嫌気が差したのなら、いつでも戻ってきていい」
優しさを滲ませたティオーレ公爵の言葉に、ラダベルは目を見張った。
(今さら、何を……。私に、ラダベルに、結婚を強いたくせに……!)
あえてそれを口にはしなかった。口にしたところで、過去は何も変わらないのだから。それにラダベルがやりたい放題のわがまま娘、悪女であったことは事実。そんな彼女をいつまでも公爵家に置いておけば、ティオーレ公爵家の尊厳に関わると判断して、さっさと彼女を嫁がせたかったのだろう。ティオーレ公爵の思いは、ラダベルもよく分かっている。しかし、彼女が悪女としての心を捨てたと知った矢先、離婚して公爵家戻ってきてもいいなど、あまりにも酷いのではないか。もとから、幼い頃からラダベルのことを気にかけてさえいれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
「お断りします。ティオーレ公爵家には、二度と、戻りません」
ラダベルが真っ向から宣言して見せると、ティオーレ公爵は目を見張った。
「たとえ、ジークルド様と離婚したとしても、公爵家は戻りません。ひとりで生きていきます」
ラダベルはそれだけ言うと、今度こそ決別の意志を示すかのように、ティオーレ公爵に背中を向けた。そんな自分を、彼がどんな目で見つめているかも知らずして……。
ティオーレ公爵のもとを去ったラダベルは、本来の目的地であった自身の宮までの道のりを急ぐ。
(ひとりで生きていくなんて大口叩いたけど、やっぱりやばかったかも……)
ラダベルは自身の発言を後悔していた。万が一、ジークルドと離れることになってしまったら、自分はどうなってしまうんだろう。先程までは清々しかった心に、濃い霧がかかる。ラダベルは足を止める。ジークルドと離婚するという、未だ見ない未来に不安を抱いたのであった。
「あいつに、似ているな」
ティオーレ公爵がひとりでに呟いた。ラダベルは首を傾げる。彼の言う「あいつ」とは、一体誰なのだろうか。ティオーレ公爵が自身を通して誰を見つめているのか。ラダベルには到底分からなかった。露骨に眉間に皺を寄せる。
「どなたのことですか?」
ラダベルが問うと、ティオーレ公爵は瞬時に口元を押さえた。どうやら知らぬうちに、声に出してしまっていたことに仰天したようだ。トパーズ色の瞳が動揺に揺れる。
「お前の……母のことだ」
「……私のお母様ですか? 私とお母様が似ているのですか?」
「………………」
「お父様?」
ラダベルがティオーレ公爵の顔色を窺う。するとティオーレ公爵は、ごくりと息を呑んでこう言った。
「笑顔が、そっくりだ」
ラダベルは、愕然とした。ティオーレ公爵夫人と笑顔が似ているなどと言われるとは、さすがの彼女もまったく予想をしていなかった。
物心がついた頃には、母、ティオーレ公爵夫人はもう既に他界してしまっていた。ティオーレ公爵は、ラダベルに対して常に厳しく接していたため、ラダベルが心を許せる人間は屋敷内には誰ひとりとしていなかった。ティオーレ公爵夫人が生きていたならば、ラダベルも悪女にはならなかったのかもしれない。生粋の悪女だと、嫌われることもなかったのではなかろうか。
ティオーレ公爵夫人の顔は、肖像画でしか見たことがない。ラダベルの美しい艶やかな黒髪は、彼女譲りだ。気の強そうな美貌の持ち主であった。笑顔がそっくりということは、ラダベルとティオーレ公爵夫人は似ている。ティオーレ公爵は、ふたりの笑顔が似ていると今さら口にした。それは、これまでラダベルがティオーレ公爵の前で笑顔になったことがないと証明している。
ラダベルは顔から表情を消し去った。ティオーレ公爵は表情を殺しきった彼女を目の当たりにして、黙りこくる。
「もう、失礼してもよろしいですか?」
ラダベルの言葉に、ティオーレ公爵は何も言わない。それを肯定と受け取ったラダベルは、颯爽と席を立つ。
ふたりの間に、親子の絆などという温かいものは存在しない。別世界から転生した今、ラダベルとして生きてはいるが、ティオーレ公爵を実の父親だと思ったことは一度もない。もとのラダベルも、もしかしたら同じ気持ちだったのかもしれない。父親であるティオーレ公爵に愛されず、公爵邸ではひとり寂しく育った。社交界でも冷遇されれば、なおのこと。孤独に陥った彼女がアデルという光に依存するのは、致し方のないことだったのだ。ラダベルは、自分自身に同情を寄せる。
「では、失礼いたします」
ティオーレ公爵に頭を下げて、背を向ける。すると背後で、ガタッという椅子の音が鳴り響く。
「待て」
ティオーレ公爵に呼び止められる。命令口調だが、冷静ないつもとは違い、切羽詰まった声だ。ラダベルは立ち止まり、振り返る。
「結婚生活に嫌気が差したのなら、いつでも戻ってきていい」
優しさを滲ませたティオーレ公爵の言葉に、ラダベルは目を見張った。
(今さら、何を……。私に、ラダベルに、結婚を強いたくせに……!)
あえてそれを口にはしなかった。口にしたところで、過去は何も変わらないのだから。それにラダベルがやりたい放題のわがまま娘、悪女であったことは事実。そんな彼女をいつまでも公爵家に置いておけば、ティオーレ公爵家の尊厳に関わると判断して、さっさと彼女を嫁がせたかったのだろう。ティオーレ公爵の思いは、ラダベルもよく分かっている。しかし、彼女が悪女としての心を捨てたと知った矢先、離婚して公爵家戻ってきてもいいなど、あまりにも酷いのではないか。もとから、幼い頃からラダベルのことを気にかけてさえいれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
「お断りします。ティオーレ公爵家には、二度と、戻りません」
ラダベルが真っ向から宣言して見せると、ティオーレ公爵は目を見張った。
「たとえ、ジークルド様と離婚したとしても、公爵家は戻りません。ひとりで生きていきます」
ラダベルはそれだけ言うと、今度こそ決別の意志を示すかのように、ティオーレ公爵に背中を向けた。そんな自分を、彼がどんな目で見つめているかも知らずして……。
ティオーレ公爵のもとを去ったラダベルは、本来の目的地であった自身の宮までの道のりを急ぐ。
(ひとりで生きていくなんて大口叩いたけど、やっぱりやばかったかも……)
ラダベルは自身の発言を後悔していた。万が一、ジークルドと離れることになってしまったら、自分はどうなってしまうんだろう。先程までは清々しかった心に、濃い霧がかかる。ラダベルは足を止める。ジークルドと離婚するという、未だ見ない未来に不安を抱いたのであった。
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