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第18話 名前
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「伯爵?」
ジークルドは何かが不服な様子だ。一体何が気に入らないのだろうか。確かに夕刻の件は、ラダベルが悪かったが、彼女の自室兼寝室に勝手に足を踏み入れたのはジークルドだ。動揺してろくに返事ができなかったラダベルにももちろん非はあるが……。ラダベルは、もう一度問いかける。
「ルドルガー伯爵、どうされたのですか?」
ジークルドの顔を覗き込む。先程より明らかに、眉間に皺が寄っている。怒っているわけではなさそうだ。ただ、不機嫌なだけで。
「ラダベル」
ジークルドは唐突にラダベルの名を呼ぶ。それに仰天するラダベル。彼の美貌を穴が空くほど見つめると、心做しか彼の頬がほんのりと紅潮していることに気がついた。数十秒の沈黙ののち、ジークルドが口を開く。
「俺の名は、ジークルド・レオ・イルミニア・ルドルガーだ」
「……はい、心得ておりますが……」
ラダベルが小首を傾げながらそう答えると、ジークルドは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「親しい者は、ジークルドと呼んでいる」
「……はい」
「お前もあと数日でルドルガー姓を名乗り……俺の妻となる」
ジークルドにはっきりとした言葉で現実を突きつけられたラダベルの顔から、勢いよく火が出る。誰がどう見ても真っ赤だと答える頬の色。林檎色に染色された彼女の顔を見て、ジークルドもさらに顔を赤らめた。
ジークルドの言う通り、ラダベルはもうすぐで、ラダベル・ラグナ・イルミニア・ルドルガーとなる。ルドルガー伯爵夫人を名乗り、僅か27歳にして生ける伝説を残す、かの“剣王”のたったひとりの正妻となるのだ。決して他人事ではないと改めて自覚したラダベルは、さらに赤面した。正直本音を言ってしまえば、第二皇子妃という称号よりも、ずっと欲しいものだ。
両手で口元を隠し、目線を泳がせるラダベル。ジークルドは、崖っぷちに立ちながらも転落しないようなんとか頑張っている彼女を崖から突き落とす、衝撃的な一言を放った。
「お前に、ジークルド、と呼んでほしい」
ラダベルの脳天を容赦なく貫く。ラダベルは、口元を手で覆うことも忘れ、わなわなと唇を震わせた。
「俺もお前を、ラダベルと呼ぶ」
トパーズ色の瞳が大きく瞬く。情を感じられる一言に、ラダベルは心臓が激しく揺さぶられる思いをした。対峙するふたりの間に、穏やかな夜風が吹き抜ける。夜風は、ジークルドの純白の長髪と、ラダベルの漆黒の長髪を弄んだ。ラダベルは照れに照れたあと、婉然と微笑む。
「はい、ジークルド様」
緩やかに口角が上がり、目には熱がこもる。化粧で隠されていないラダベルの素顔が浮かべる笑みは、ジークルドの心を鷲掴みにするには十分すぎるものであった。彼女の純真な笑顔に暫し見惚れる。ラダベルの笑顔は、悪女と噂されているような禍々しいものではなかった。あまりにも清廉で美しい。風で吹き飛んでしまう儚さを感じさせた。
「ジークルド様?」
魂ごと旅をさせてしまっているジークルドを現実に引き戻すラダベル。ジークルドは我に返り、顔を背ける。まるで、ラダベルの笑顔になど見惚れていないと誤魔化かしているようだ。挙動不審の彼に、ラダベルは問う。
「ところで、ジークルド様はどうして私の部屋に?」
「……夕刻の件を謝罪しに来た。……すまなかった」
素直に謝罪を口にするジークルド。ラダベルは、まさか謝罪されるとは思っていなかったため、五里霧中となってしまった。
「尋ねても返事がなかったからやはり怒っているのだと思っていたが……怒っては、いないか?」
ジークルドはラダベルの顔色を窺う。叱られた幼子が母親の様子を窺っている姿に酷似した彼を目の当たりにして、ラダベルは「ふふっ」と軽く笑いをこぼした。
「怒ってなどいませんよ。夕刻の件は、私が悪いのです。ジークルド様に断りも入れず、勝手に訪ねてしまったのですから」
「……軍施設は何かと危険だ。今回はウィルがついてくれていたからいいが……。せめて俺に事前に報告をするか、軍人を従えて来るようにしてくれ」
「かしこまりました」
ジークルドの頼みに、ラダベルは大人しく首肯する。できれば二度と訪ねたくない、と思いながら。
ジークルドはラダベルに背を向ける。
「勝手に部屋に入ってしまって悪かった。よい夜を」
「はい、おやすみなさい」
ラダベルは、ジークルドが去るのを最後まで見送る。会釈をする彼女に、ジークルドは小さな笑顔を見せたあと、扉を閉めた。
ひとりきりとなった空間。悪いのは全面的に自分なのにも拘わらず、ジークルドは誠心誠意謝罪をしてくれたのだ。どうやらいい関係を築こうと努力したいと思っているのは、ラダベルだけではないらしい。その事実にラダベルは浮かれたのだった。
ジークルドは何かが不服な様子だ。一体何が気に入らないのだろうか。確かに夕刻の件は、ラダベルが悪かったが、彼女の自室兼寝室に勝手に足を踏み入れたのはジークルドだ。動揺してろくに返事ができなかったラダベルにももちろん非はあるが……。ラダベルは、もう一度問いかける。
「ルドルガー伯爵、どうされたのですか?」
ジークルドの顔を覗き込む。先程より明らかに、眉間に皺が寄っている。怒っているわけではなさそうだ。ただ、不機嫌なだけで。
「ラダベル」
ジークルドは唐突にラダベルの名を呼ぶ。それに仰天するラダベル。彼の美貌を穴が空くほど見つめると、心做しか彼の頬がほんのりと紅潮していることに気がついた。数十秒の沈黙ののち、ジークルドが口を開く。
「俺の名は、ジークルド・レオ・イルミニア・ルドルガーだ」
「……はい、心得ておりますが……」
ラダベルが小首を傾げながらそう答えると、ジークルドは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「親しい者は、ジークルドと呼んでいる」
「……はい」
「お前もあと数日でルドルガー姓を名乗り……俺の妻となる」
ジークルドにはっきりとした言葉で現実を突きつけられたラダベルの顔から、勢いよく火が出る。誰がどう見ても真っ赤だと答える頬の色。林檎色に染色された彼女の顔を見て、ジークルドもさらに顔を赤らめた。
ジークルドの言う通り、ラダベルはもうすぐで、ラダベル・ラグナ・イルミニア・ルドルガーとなる。ルドルガー伯爵夫人を名乗り、僅か27歳にして生ける伝説を残す、かの“剣王”のたったひとりの正妻となるのだ。決して他人事ではないと改めて自覚したラダベルは、さらに赤面した。正直本音を言ってしまえば、第二皇子妃という称号よりも、ずっと欲しいものだ。
両手で口元を隠し、目線を泳がせるラダベル。ジークルドは、崖っぷちに立ちながらも転落しないようなんとか頑張っている彼女を崖から突き落とす、衝撃的な一言を放った。
「お前に、ジークルド、と呼んでほしい」
ラダベルの脳天を容赦なく貫く。ラダベルは、口元を手で覆うことも忘れ、わなわなと唇を震わせた。
「俺もお前を、ラダベルと呼ぶ」
トパーズ色の瞳が大きく瞬く。情を感じられる一言に、ラダベルは心臓が激しく揺さぶられる思いをした。対峙するふたりの間に、穏やかな夜風が吹き抜ける。夜風は、ジークルドの純白の長髪と、ラダベルの漆黒の長髪を弄んだ。ラダベルは照れに照れたあと、婉然と微笑む。
「はい、ジークルド様」
緩やかに口角が上がり、目には熱がこもる。化粧で隠されていないラダベルの素顔が浮かべる笑みは、ジークルドの心を鷲掴みにするには十分すぎるものであった。彼女の純真な笑顔に暫し見惚れる。ラダベルの笑顔は、悪女と噂されているような禍々しいものではなかった。あまりにも清廉で美しい。風で吹き飛んでしまう儚さを感じさせた。
「ジークルド様?」
魂ごと旅をさせてしまっているジークルドを現実に引き戻すラダベル。ジークルドは我に返り、顔を背ける。まるで、ラダベルの笑顔になど見惚れていないと誤魔化かしているようだ。挙動不審の彼に、ラダベルは問う。
「ところで、ジークルド様はどうして私の部屋に?」
「……夕刻の件を謝罪しに来た。……すまなかった」
素直に謝罪を口にするジークルド。ラダベルは、まさか謝罪されるとは思っていなかったため、五里霧中となってしまった。
「尋ねても返事がなかったからやはり怒っているのだと思っていたが……怒っては、いないか?」
ジークルドはラダベルの顔色を窺う。叱られた幼子が母親の様子を窺っている姿に酷似した彼を目の当たりにして、ラダベルは「ふふっ」と軽く笑いをこぼした。
「怒ってなどいませんよ。夕刻の件は、私が悪いのです。ジークルド様に断りも入れず、勝手に訪ねてしまったのですから」
「……軍施設は何かと危険だ。今回はウィルがついてくれていたからいいが……。せめて俺に事前に報告をするか、軍人を従えて来るようにしてくれ」
「かしこまりました」
ジークルドの頼みに、ラダベルは大人しく首肯する。できれば二度と訪ねたくない、と思いながら。
ジークルドはラダベルに背を向ける。
「勝手に部屋に入ってしまって悪かった。よい夜を」
「はい、おやすみなさい」
ラダベルは、ジークルドが去るのを最後まで見送る。会釈をする彼女に、ジークルドは小さな笑顔を見せたあと、扉を閉めた。
ひとりきりとなった空間。悪いのは全面的に自分なのにも拘わらず、ジークルドは誠心誠意謝罪をしてくれたのだ。どうやらいい関係を築こうと努力したいと思っているのは、ラダベルだけではないらしい。その事実にラダベルは浮かれたのだった。
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