ズレてるふたり

黒い白クマ

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ロストデイ

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「谷澤、今日はどうするの?泊まってく?」

今日も今日とて家に帰ったら当たり前のように居座っていた旧友が用意した夕食を一緒に食べている時。ふと思いついて尋ねれば、口いっぱいに夕食を頬張っていた彼が顔を上げた。

「ん、ひょふははへふほ、」
「あはは、飲み込んでから話せよ。」

子どもみたいな仕草に、思わず吹き出す。谷澤はちょっと眉を寄せてから、しばらくもごもごと口を動かした。

「今日は帰るヨ。お恥ずかしながらネ、シンクに洗い物がいっぱい溜まっちゃっているのサ。」

そろそろハエさんがたかっちゃうからネ、と頭をかいた彼に、思わず目を見開いた。彼にしては珍しいことだ。

「忙しかったのか?」
「そんなところカナ。案件が重なっちゃったんだよネェ……」
「ならうちに来ないで真っ直ぐ帰れば良かったのに。」
「一人で食べるよりも君と食べた方が美味しいジャナイ。」

気まぐれに来たり来なかったりする癖に、調子のいいことを言う。思わずふは、と笑えば、彼は楽しそうに目を細めた。

「ア、今日って十四日だよネ?」
「うん?そうだけど。」

唐突にぽんと手を打った彼に驚く。まぁ彼の言動が突飛で読めないのは今に始まったことでは無いのだが。

「明日は土曜日だからオフ、デショ?」
「うん、休みだよ。」
「映画見に行こうヨ。今日解禁のやつ、見たいのがあるんだヨ。奢ってあげるからサ。」

シンクは?と聞けば、今日帰ったらパパッと片付けちゃうから大丈夫、と胸を張る。なら、断る理由もないかと頷いた。

「映画館かぁ……久々に行くな。」
「家で見るのとはまた違うよネ。大画面で高音質っていうのカナ?」
「あぁ、分かる。」

映画の内容は敢えて聞かない。大抵のものは楽しめる自負があるし、映画館で映画を見る、という行為自体が既に楽しみであった。

食べ終わって食器を片付けていれば、谷澤が時計を見て呟く。

「アリャ、そろそろ十九時になるネ。」
「帰る?」
「ウン、どうせならスーパー寄りたいのサ。二十時に閉まっちゃうカラ、そろそろ出なきゃネ。」
「じゃあ洗い物いいよ。ほら、君、自分ん家の洗い物もあるだろ。」
「アハ、耳が痛いヤ。」

ケラケラ笑って、谷澤が帰り支度に取り掛かる。といっても、充電器からスマートフォンを抜いて、キーケースを手に取って、ポケットに入れればおしまい。

「じゃ、また明日ネ。朝でもいいなら七時に来るケド。」
「分かった、七時ね。朝ご飯うちで食う?」
「いいのカイ?じゃそうするヨ。映画の時間調べとくネ。」

七時というのは別に上映開始時間を見越した提案ではなかったらしい。いつも通りのノープラン。じゃあ七時に来るネ、と閉じたドアをしばらく眺めてから、鍵をかける。

***

どうせ勝手に入って起こしてくるだろう、と高を括って目覚ましをかけていなかった。翌日目が覚めて手元のスマートフォンを確認すれば、すでに九時を回っている。あれ、とベッドの上に跳ね起きて、リビングのほうに顔を出した。

「谷澤?」

いない。珍しい、寝坊だろうか。電話をかけようと思って、握っていたスマートフォンをタップする。また、あれ、と首を傾げる羽目になった。

ないのだ。彼の連絡先が悉く、ない。電話帳、通話アプリ、SNS、メールと確認して、何かがおかしいぞ、と背中に嫌な汗が伝った。まさかな、とカメラロールを開く。外出先で時折ねだられて撮っていたはずのツーショットからも、先日友人達と撮ったはずの集合写真からも、丁寧に彼だけが切り取られていた。彼が持ち込んだたくさんの物が溢れるこの部屋は相変わらずなのに、まるで最初からいなかったみたいな。

恐る恐る、共通の知人の連絡先をタップする。

この間一緒に遊んだ時、誰がいたっけ。

不自然に思われぬようそう聞けば、すぐに数名の名前が飛んできた。着替えながらもスマホを握りしめて、返信を待つ。その後もまだいた、とまた数名の名前が送られてきた後、自分が確認したのと同じ集合写真が送られる。名前にも、写真にも、彼はいない。

半ば転がるように物置にしている棚の前に走って、奥から卒業アルバムを引っ張り出した。周りに詰まっていたものが雪崩れて散らばったが、そのままにしておく。目当てのページを開いて、何度も目を通した。いない。彼の空白分出席番号がつまって、私の出席番号は記憶よりも一つ若かった。

いない。

彼を証明するものはもはや部屋に残った生活用品だけ。それもお前が買ったのだろうと言われてしまえばそれまでの、何の変哲もない物ばかり。私はインスタントで十分だからコーヒーミルを使わないし、歯ブラシは一本で十分だし、かき氷機なんてふざけたものは購入しない。でも、それを誰が知るというのだ。彼がいるからこそ、これらが彼の形をつくっていただけだ。残されたものから彼の存在を証明することなど不可能だった。

キーケースの中に変わらず居座っていた合鍵を確認する。押し付けられた時から一度も使っていないそれを見て、キーケースごとポケットにねじ込んだ。机に放り投げたスマートフォンをもう片方のポケットにねじ込んで、部屋を出る。彼の家に行ったところできっとそこは空き家なのだろうという予感はしたけれど、せめてそれを自分の目で確認しようと思った。

谷澤の家は電車で二駅先の、小さい貸アパートだ。端から私の家に入り浸る気だった青年は、寝られればいい、と言ってここに居を構えた。私の家のローンの一部まで払う奴に、いっそうちで暮らせばいいと思ったことは片手では足りないが、あいつの考えはいつだって突飛で読めない。わざわざ言う気は起きなかった。

かかっていたはずのポストの表札が無くなっていることを確認し、のろのろと二階へ上がる。錆びついた手すりから、嫌なにおいがした。彼の部屋だったはずのドアに、色褪せた内見の案内の張り紙がへばりついている。試しに差し込んだ合鍵は合わなくて、口の端から乾いた笑いが落ちた。

どうしたものかな、と途方に暮れて、結局映画館に足を向ける。自分の駅を通り過ぎて三駅。比較的大きな駅に降り立って、少し前の記憶を思い返しながら映画館へ進んだ。最後に来たときは一人だった。その前は、谷澤ともう一人別の友人と来た。その前は彼と二人で来た。だから、きっと今日も谷澤はここで映画を見る気だったのだろう。どの映画を見る気だったのかさっぱり分からなくて、売店でジュースを買って待合スペースに座った。映画館を出たり入ったりする人を眺めて、ゆっくりジュースを流し込む。気が付けばもう午後二時を過ぎていた。

映画館を出て、目に付いたチェーン店に入る。腹は空いてなかったけれど、朝から何も食べていないから、兎角何か食べるべきだろうと思った。倒れたら笑えない。適当にファストフードを胃に詰めて、スマートフォンをもう一度確認する。電話帳、通話アプリ、SNS、メール、カメラロール。やっぱりいない彼に、馬鹿め、と呟く。怒りなのか心配なのか諦めなのかは、分からなかった。

日が傾いてきたので、もう家に戻ることにする。帰って、もう寝てしまおう。寝て起きたら、いつも通りかもしれないじゃないか、なんて。やけに長い三駅を過ぎて、慣れた帰り道を歩く。自分の家の窓が目に入って、思わず眉が寄る。焦っていたのか、電気を消さずに来てしまったらしい。窓が明るかった。

鍵穴に鍵を差し込んだ途端、ガタン、と家の中で物凄い音がした。驚いて固まると、ドタドタと足音がして中から鍵が開いた。

「え、」

何、と思う間もなくドアから伸びた手が肩を掴む。

「どこ行ってたのサ!」
「た、にざわ、こそ。」

半泣きの目がこちらを睨むから、言葉に詰まる。どこに行っていたんだ、はこっちのセリフだ。

「君、どこにもいなくなっちゃうんだモノ。写真もないし、誰も君のこと知らないっていうし、連絡先もなくなってサ!でも、ここはいつも通りだったから、もしかしたら帰ってくるかもって、」

思って。最後の言葉はほとんどため息に混じって、谷澤は私の肩口にぐりぐりと頭を押し付けた。私とまったく同じ経験をしたらしい。取り乱す彼を見ていたらこちらは逆に冷静になって、ポンポンと背中を叩きながら部屋の中に入る。

「そっくりそのまま返すよ。君の家、売りに出されていたんだぞ。」
「え、そうなのカイ?今朝、普通に出たんだけどナ。」

肩口に顔を埋めたまま話されるとくすぐったい。無理矢理剥がせば、彼は少し照れたように笑った。

「明日は、映画見よう。な?」

なんなら一緒に寝ようか、と冗談めかして言えば、彼は案外すんなりと頷いた。彼の事をガキみたいだ、と思いながらも、同じくらい不安がっている自分にも気が付く。

「ア、写真戻ったのかナ。」

そう呟いた彼につられてスマートフォンを見れば、液晶にうつった時計が十四日の十九時を示していた。
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