ありもしない君へ

明里露草

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1空虚

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ありもしない君に

住宅地のなかの古い平屋に少女は合鍵を使って入った。大学の教科書と財布だけを入れた重いカバンを玄関に置く。玄関だけは綺麗だからだ。廊下を歩くと右手にあるキッチンも比較的綺麗だが、左手にある本来ダイニングの物置は本やよくわからない雑貨が雑多に置かれている。鼻歌を歌いながら突き当たりの部屋に少女は入った。そこにはパソコンの周りがメモ用紙でぐちゃぐちゃになった机があり、傍に椅子が転がっている。
「誠司さん、寝てるの?」
「起きてる」
衝立の向こうから声がする。少女は衝立に手をかけ、彼を見つけると嬉しくなり抱きついた。ベッドに寝転んでいた誠司は彼女を受け止めると頭を撫でた。
「昨日が締切?」
「一昨日に終わって一日寝ていた」
「じゃあ昨日も来れば良かった」
「華くん、昨日は我慢してたの?」
「締切間に合わないと拓磨さんが怒るじゃん」
誠司は小説家だ。拓磨はその編集担当者で、ほとんど締切を守れない誠司に火を吹くことが多々ある。華を誠司はぐっと抱き寄せた。内心これが彼には気持ち悪い。
「今日ね、ゼミの先生に褒められたの」
約八年前の当時通っていた大学の記憶を頼りに誠司は華の話を聞いた。ツインテールにしていた華の髪を手遊びで解く。
「聞いてる?でね、二限は休みだったから、図書館に行ったらね、誠司さんの小説、新刊コーナーにあったよ」
誠司は華の頬に触れる。
「お昼はね、大学のカフェでパンを買って食べたら、三限は眠くなってあんまり覚えてない」
華は話し続けた。
「でもここまで歩いてきたら目が覚めた」
誠司は微笑んだ。
「ねぇ、頑張ったでしょう? ご褒美にキスして」
誠司は華の頬を触っていた手をそのまま引き寄せて、キスをした。触れるくらいの軽いものだ。
「ねえ、もっと」
華は年齢より幼い――最近二十歳になったばかりとは思えない容姿で、せいぜい高校1年生、悪くすれば中学生に見える顔を恥ずかしそうに歪めながらねだる。
「疲れてるから少しだけね」
誠司に華は寄りかかる。軽いキスが深いものに変わっていくので華はより誠司にしがみついた。
「好き」
そう華が漏らすと誠司はキスをやめて頭を撫でる。頬に伝い肩まで降りて優しく離れた。

華は不思議そうに誠司を見る。
「ダメ?」
「疲れてるんだ」
誠司はため息をつく。彼はかなり疲れていた。一日本当に疲れて眠り込んでいて目を覚ましてすぐに華が来たのだ。
「誠司さんが疲れてるってときは、違う」
華はそう言って誠司にキスをした。それから口を尖らせて言う。
「だめだよ、誠司さん。締切終わったらいつも死にたいしか言わないんだもん」
誠司は苦笑する。
「華くんは何でも知ってるね」
華は子供のような甘えた声で話しながら、誠司のシャツのボタンを外す。
「ダメ、誠司さん。ね? それより褒めてよ、華のこと」
触れられるたび、誠司は不快だった。その気持ち悪さが少しずつ心地良さに変わる。
「本当に最後までは出来ないよ、今日は」
華は不満そうに頬をふくらませたがそのまま続ける。華は知らなかったのだ。他のやり方を知る術すらない。まだ日が高い。夜までは限りなく遠かった。


拓磨は出版社に勤める編集担当者であり、やや面倒な気持ちで誠司の家を訪れた。基本的に合鍵で出入りしているので、不在かどうかすらわからないところも、まるで不法侵入してるようで彼は嫌いだった。――だが、誠司が玄関に出てくることは宝くじが10万当たるくらいの確率なので仕方ないのだ。
「あっ、拓磨さん。どうも」
家にあがると物置と化したダイニングから声が聞こえた。
「亮さん、こんにちは。誠司さんは?」
「さっき、水ようかん食べさせたら昼寝しだした」
拓磨より2歳年上の亮という男性はせっせとダイニングに積まれた本をビニールテープでまとめていた。図書館の裏なのではないかというほど本があり、ひとつのモニュメントにすら見えるため、拓磨には亮の作業が解体にも見える。
「水ようかんでしたっけ、食べられるもの。なんかこうもっと栄養価が高いものを食べて欲しいです」
亮は笑う。
「確かに。でも水ようかん探すまでも長かったからな。仕方ない。拓磨さん、今日は?」
拓磨は亮に促されてバッグのなかから企画書を出した。
「企画書を渡しに。今度オンラインでうちの出版社から本を出している作家でオンライン雑談会をやるんです。先生は熱狂的なファンも多いですし、顔出しもしませんし如何かなと」
亮は受け取りながら「言ってみよう」と言う。
「無理なのは薄々わかってるんですけどね。そもそも作家でこういうのに肯定的な人って少ないんですよ」
いなくはないですけど、と拓磨は足した。
「でもこれを通して作家さん同士の交流に先生も入っていいと思うんです。デビューから十年近くてSNSもしなければ授賞式にも来ない、他作家と交流もない、というのは、先生を孤立させてるのでは、と」
亮は「そうかもな」とだけ返した。拓磨はそれからしばらく亮と話して誠司が起きないかと待ったが、仕方なく帰って行った。


亮は仕事場に指示を電話で入れたり、取引先と連絡を取ったり、事務の上げた書類に目を通したりしながら誠司が起きるのを待っていた。個人経営者であるとはいえ、最近そこそこ従業員が増えたことにより、現場に毎日立たなくなったのは彼を随分楽にしていた。しかし、困ったことは起きないわけではない。
『社長~発注間違えました。ごめんなさい』
店長の情けない声が響く。
「仕方ない、なにかメニュー勝手に増やせ。どうせ今の時間帯なら肉の種類間違えたんだろう」
『その通りです。今日は豚肉ではなく鶏肉がきて、それで……』
「予約客に詫びを入れろ。店頭分は鶏肉の何ちゃらで出せば誰も気づかないよ」
『はい~。本当にすみません』
電話を切ると、誠司が近くまで歩いてきていた。
「また? 店長さんに発注任せない方がいいんじゃない。繁盛してるんだね」
亮はビニールテープを縛り上げて、ダンボールに本の束を詰めて言う。
「接客は誰よりもいいんだがな。管理職させたのは悪手だったかもな」
「意外だよねぇ。僕はちっとも興味がないのに、亮は飲食店経営はじめたなんて」
誠司はくすくす笑う。
「お前の趣味で商売はじめたら、万年筆販売とかになるだろう」
「僕は買ってあげるよ」
「これ以上増やすな」
誠司は万年筆を時々買い替えるが、そこまで耐久性がないものでもなく、捨てもしないので溜まっていく一方なのである。
「あっ、これ拓磨さんから」
そう言った亮から企画書を渡され、誠司はペラペラ捲った。速読は彼の特技である。
「やらない」
そう言うと、企画書をダイニングテーブルに投げた。5ページ分の紙の束がテーブルにぶつかる。
「少しは聞いてあげてもいいんじゃないか」
「僕が人と話して楽しかったことがないのに、それを聞いて楽しいわけ?」
亮が本を片付けて空けたソファに誠司は座った。亮は眉間に皺を寄せた。
「人と話すのは楽しくないのか。俺とは?」
「亮は特別。そうじゃなきゃ」
誠司は近くの本をペラペラ捲りながら続ける。
「僕はここにいないよ」
亮は誠司の頬をつねるように触れた。そこにあることに安心する。
「なに?」
誠司は本から目を離さず聞く。くすぐったそうにはにかむ。
「察してくれよ」
亮はそう言って顔を上げさせた。誠司はさすがに本を閉じる。唇が触れる。華とはかなり違う。年齢も性別も。とても気持ち悪くて、それが心地いいと誠司は思う。
「亮って本当に…… いや。ここは嫌だな。本にぶつかるの痛そう」
そう言いながらてきとうに本を置く。せっかく綺麗にしたダイニングがまた汚れていくのを亮は仕方なさそうにしながら、食事がとれた彼の機嫌の良さを喜んでいた。


華は泣きながら亮の部屋に来た。
「どうしたんだ?」
と亮は少し冷たい声で言う。
「わかんない」
十中八九これだからだ。十年前、十歳たった華と出会ってから、泣いているときに理由を聞いてもまともな答えが返ってきたことはほとんどない。理由が言えるのは誰が見てもわかる怪我や体温計で測った熱がとても高かったときなど目に見えてわかるものだけで、あとは言語化することが難しいのだ。
「華、不安になることは仕方ない。でも、その不安を言えるようにならないと俺も何も出来ない」
少しずつ言葉にするように亮は促している。
「あのね、寝てたら怖くて、夢がね」
亮に近づく華を亮は膝に座らせた。
「それでね、あの、亮さんも誠司さんも夢でね、いなくて。怖くてね」
ほとんど単語単語だがそこまででも亮としては成長を感じた。
「俺はここにいるよ」
「いなくならないでよね」
華は少し強く亮に抱きつく。亮は背中を何度かとんとんと叩いた。
華は亮の首筋にキスをする。
「今日は咲と……」
妻の名前を出して亮は拒否したが、華は理解出来ていない。
「咲さんのごはん、美味しいよね」
そう言って首に回していた手で亮の髪を弄ぶ。
「亮さん、いなくならないよね?」
そう繰り返す華を亮は諦めて抱き寄せる。それから深く口付けた。ただ慰めるようにゆったりと。涙の味がする。
「いなくならないよ」
そう言って、そうして、宥めることしか亮は出来なかった。
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