花束のアスター

たーりー

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月桂樹の花を抜く

視線を合わせて

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「ちょっと待ってね」
 
 里梨は、あざみが差し出した名刺を一瞥したあと、あえて受け取らなかった。ビジネスマナーをどうこう言う気は無いのは確かだが、流石にこれは違うと思ったためだ。自分の分は他のキャスト(既に名前は忘却している)に渡した名刺で済ますのも、自分は座ったままで相手は床に膝付きの姿勢なのも、そのどちらも里梨的には落ち着かない。これが先程のようにテーブル越しに行うお互いフランクな交換であるなら気にしないが、自分が一方的に礼を失する形になるのは受け入れられない。
 両手で名刺を差し出したまま少し困惑している様子のあざみをそのままにするのも申し訳ないが、里梨は急いで新しい名刺をスマホケースから取り出した。

「私はこの、テーブルの上にあった名刺で大丈夫ですよ?」
「それは俺が、だいじょばないかな。」
「あは、だいじょばんなら仕方ないですね。」

 里梨があえて崩して答えると、あざみも同じように崩して応える。その程度の軽いやり取りだけで、里梨は心に刺さった棘が一本抜ける感じがした。果たして何本の棘が刺さっているのかは不明だが、それでもこの瞬間、確かに心は軽くなり始める。
 里梨は新しい名刺を取り出すと、スマホをポケットへ戻し、あざみの前で同じく床に膝付きの姿勢をとり視線を合わせた。

「あ、ちょっと、ズボン汚れますよ!?」
「男の服は汚すためにあるって言葉しらない?」
「知らないです!」
「だろうね、今考えた。」
 
 でもほら、小川とかトイレ行った後ズボンで手拭いてるし? そう続けた里梨に対し、突然流れ弾が飛んできた小川は目を丸くする。
 元々畏まる必要がない時はフランクで、話していても空気が淀み出したら話題を切り替える癖を持つ里梨を知っているだけに、調子が戻ってきてるかなーと思い様子を見ていた小川だが、流石に名誉毀損は頂けない。

「ちゃんとハンカチ使いますよ!」
「ハンカチ忘れた時は?」
「服で拭きます!」
「忘れる確率は?」
「さあ、週三くらいですかね?」

 残念ながら名誉毀損の成立要件を満たしていないようである。
 そんな2人の会話を聞いて、名刺で口元を隠してコロコロと笑っているあざみの手から、里梨は自らの古い名刺を抜き取った。こんな物はその辺にポイだ。

「さとなし、です。よろしくおねがいします。」
「改めて、あざみです。」

 よろしく、再度そう言いながらお互いに頭を下げる。
 そのまま目を落としたあざみの名刺には、先ほどと違い、印刷でさまざまな事が書いてあった。

店名 片栗の花
住所 〇〇
電話 〇〇
営業時間 19:00-25:00(延長29:00)
源氏名 あざみ
プロフィール 179cm ナイショkg LGB[T]Q
趣味 ゲーム、マンガ
好きな食べ物 お肉、お魚、お酒
嫌いな食べ物 美味しくない料理

 里梨の名刺は会社のテンプレートなだけあって、つまらないことしか書いていない。このように様々なことを書いた名刺を持っていれば、確かに話題作りには最適だろう。最も、営業職という訳ではない里梨が名刺で話題作りする意味はないのだが。
 あざみの名刺の情報量が多いだけに、気になった事はいくつかある。遅くまでやっている店だなとか、身長高めだなとか、ゲームやマンガの内容は何だろうとか、嫌いな食べ物が美味しくない料理って、そりゃそうだろうとか。
 しかし、最も気になったのは。

「この、LGBTQのTに括弧がついているのは?」
「私がトランスジェンダーですよーって意味です。」

 体は男だけど性自認は女って意味で、ついでに恋愛対象も男性です。あざみはそう続ける。
 中には性自認が女性で恋愛対象も女性とか、そもそも性自認が定まらず恋愛対象も定まらない人もいるらしい。なんとも複雑なものだな、と里梨は考える。というか、だ。

「体は男って言っちゃうんだね。さっきのたんぽぽさんは内緒にしてたけど?」
「えーっと。内緒にしても良いんですけど、私の場合おっきいのですぐバレちゃうんですよね。」
「あぁ……。なるほど。」

 何がとは言わなくても理解した里梨。世の中小さくて悩む人も多いのに、理不尽なものだ。
 
「さとなし、って珍しい苗字ですよね?」

 今度はあざみが里梨の名刺を見ながらそんな質問をしてくる。これも良く聞く内容で、いままで幾度となく聞かれたことだ。里梨は、自分の親戚以外で同じく里梨の苗字を持つ人に会ったことは無い。おかげで良くも悪くも覚えられやすく、得したことも有れば、損したこともある。社会人になってからは得することの方が多いが、子供のころはよく『故郷が無い奴』だといじられたものだ。いじめとは少し違うものの、大人になったら本気で改名しようと思っていただけに不思議なものである。

「そうだね、あまり聞かないかも。何せ故郷が無いからね。」

 今ではこうして自分から言っていく始末である。勿論いつもという訳ではないが。

「じゃあ今日からここが故郷ですねー。また帰ってきてくださいね。」
「え、もう退店していいの?」
「絶対にダメです。」

 っく、あはは、と二人そろって様相を崩す。小川や他のキャストが物珍しそうに二人を見つめていることにも気づかずに。まだお酒を飲んでいないあざみが声を出して笑っているのは滅多にないことなのだが、もちろん里梨はそんなことには気づかないし、知る由もない。
 そんな二人の元へ、カウンターの奥からたんぽぽが戻ってきた。二人の様子を見て最初に出て来た言葉は、もちろん次の言葉で。

「あなたたち、ずっと床にお座りするの? 残念だけど、このお店お座敷無いのよ。」

 小上がりでも作った方がいいかしら? その、たんぽぽの呆れたような声色の言葉を聞いて、やっと二人は立ち上がった。里梨は自覚していたがタイミングを逃していただけなので気にしないが、あざみは単純に失念していたのかキャストだからなのか、少々ばつが悪そうにしている。
 二人で苦笑しながらお互いの顔を見合わせると、あざみは何かに気づいたように眉を上げた。

「あ、背高いですね。私より大きい人久しぶりかも。」

 里梨の身長は182センチ、あざみの身長は公称179センチ。目線の高さからするとほぼ同じ高さのように感じるが、それは靴の違いのせいだろうか。若しくはサバを読んでる。
 里梨が何気なく背筋を伸ばしてちゃんと立つと、あざみは一歩踏み込んで背の高さを比べだした。あざみは自らの頭の上に手を載せて、前後したときに里梨の頭に当たることを確認して、やっぱり大きいーなどと無邪気にしている。しかしお互い顔と顔の距離は10センチ程度しか離れていないため、里梨は多少ドギマギした気持ちだ。
 これが普通の女性なら冗談交じりに抱きしめたりするのかもしれないが、トランスジェンダーということを考えるとどうしていいのかよくわからない。普通の女性として扱えばいいのか、それともやはり男同士抱きしめるというのも……? そんな考えが頭をよぎる。

「里梨さん、思ったんですけど。」
「ん、何?」

 手のやり場が無く、気を付けをしようか、抱きしめようか、やめようかと手をウロウロさせていた里梨に対して、身長比べを終えて満足したあざみは距離をつめたまま次のように切り出した。

「さとなし、って少し言いにくいじゃないですか。」
「そう、かも?」
「なので、リリーちゃんって呼んでも良いですか?」

 ほら、里も、梨も、両方り、って読みますし。ダメ?
 あざみは両手を胸の前で合わせて、そうお願いする。確かに両方り、と読むが、流石に男の里梨に対してリリーと名付ける人は今まで居なかったので初めての経験だ。今日は何だか初めての経験が沢山あるな、と頭の片隅で思いながら、里梨、いやリリーは、いいよ、と頷いた。

「ありがとうー!!!」

 すると、あざみは花開いたように満面の笑みをうかべる。目の前で全開の笑顔を見せられた里梨は、どくん、と胸が大きく鼓動する音を聞いた。いや、おちつけ、相手は男だ。化粧してるから可愛いけど、胸を高鳴らせるような相手じゃない……。そう思い落ち着こうとするのも束の間、あざみは、ぎゅーーーっと全力で里梨に抱きつく。ちなみに腕ごと抱きしめられたので里梨は身動きが取れず、抱きしめられた感想は、

(やっぱりチカラつえー)

 だった。当然男に抱きしめられるのも初めての経験である。店に入ってからまだ5分も経っていないにも関わらずだ。そして、胸の高鳴りは加速していく。もはや自分がどうこうというより、この鼓動があざみに気づかれるのではないかと、そちらのほうが心配になっていた。

「こらこら、あざみちゃん、お触り禁止ですよ! おすわり!」
「はーい!」

 ぴょん! と、あざみは漫画であればそう擬音を書かれるであろう動きで椅子に座る。その横ではたんぽぽが呆れたように見つめている、というか実際呆れているのだろう。もはや犬耳が幻視出来るほどの笑顔を浮かべたあざみとは対照的である。
 キャスト二人と小川の視線を感じながら、無意識に手を胸に置きながら、自らも座ろうとした里梨。だが、ふと気になるものを見つけた。それはあざみの膝についた黒い汚れ。
 膝付かせちゃったしな、気休めだけど、しないよりマシか。そう考えた里梨はズボンのポケットからハンカチを取り出すと、それであざみのワイドパンツについた汚れを払う。リネンっぽいので擦らず軽くだ。ちなみにだがハンカチはちゃんと洗いたてだ、一度家に帰ったときに交換してきた。

「あ、そんな、全然いいですって! っていうかリリーのズボンも汚れてるじゃないですか!?」
「俺のは汚れてるんじゃなくて、汚したの。ほっといて良いよ。」

 そんな訳にいきませんよ! あざみはそう答え、おしぼりを手に取ると里梨のズボンをしっかり擦る。その結果、膝の汚れは見事に上下に広がった。

「あ……」
「っく、ふふっ」

 予想外です!!! 顔にそう書いてあるあざみをみて、里梨は思わず吹き出す。そして。

「「はは、あはははははっ!」」

 前衛的なズボンですね! お前がやったんじゃねーか!
 そんなことを言い合いながら、涙を流して笑いあう二人であった。

「小川ちゃん、ちょっとあっちで飲まない?」
「たんぽぽちゃん、そうしようか。絶対気づかないよこの二人。」

 そんなことを言う二人を他所に、里梨とあざみは、二人の世界へ入って行った。

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