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第一幕 生存・デートル
09 エミリーがやって来た 1
しおりを挟む王宮でのそういった生活が半月ほど続いたある日、ジョセフィーヌの親友エミリーがやって来た。
もちろん、こちらに親友だという記憶はないのだが、母親やエミリー当人がそう言うのだからそうなのだろう。
ジョセフィーヌが大病により記憶を無くしているという話は、ごく限られた人間しか知らない秘密とされていたが、エミリーは信頼できる家柄の出であり、記憶を失う前のジョセフィーヌを良く知る人物でもあることから、特別に事情を説明して招かれたのである。
エミリーはジョセフィーヌよりも二つ年下の幼馴染で、血の繋がりのないジョセフィーヌのことをお姉様と呼んで慕っていた。
「初めまして、お姉さま。ご機嫌麗しゅうございます」
よく見知ったはずのジョセフィーヌに対し、彼女はとびきりの笑顔でそう挨拶をしてきた。
愛らしい娘だ。
十四歳と聞いた年齢よりも幼く映るのは、きっと何不自由なく暮らす貴族令嬢の身分がそうさせるのだろう。
その頃の歳になれば、何らかの家事や仕事を与えられ大人と変わらない扱いを受ける砦村の娘たちとはものが違う。正真正銘のお嬢様なのだった。
「ご機嫌よう、エミリーさん。どうぞ、よろしくお願いします」
俺は初対面の若い女性に対し、おっかなびっくり会話を始める。
事前に事情を話してあるとは言え、それでも彼女が知っているのは、俺の秘めたる事情の半分だけだ。
その中身が本当は別の人物で、しかも男であることは、間違っても勘付かれてはならない。
緊張している俺をよそに、エミリーは挨拶を交わしただけでケラケラと笑い出した。
どうしたというのだろう。何か、ボロを出すような挨拶だっただろうかと俺は慌てる。
「本当にご記憶を無くされておいでなのですね」
随分直接的な物言いをするが、まるで悪意がないことはその口調や表情から窺える。
「ごめんなさい。試すようなことをしてしまって。訳が分からないでしょう? 私の知っているお姉さまは、今のようなご機嫌を伺う挨拶を大層嫌っておいででしたので」
「そう、だったの?」
「ええ、何で機嫌がいいことを前提に振舞わなければならないのかと。この世でもっとも無意味で失礼な礼儀の一つに数えておいででしたよ?」
ジョセフィーヌのあの日記にそんな記述はなかったと思うが、ジョセフィーヌも流石に気に入らないこと全てを書きしたためるわけにはいかなかったのだろう。
「本当に何も覚えていなくて、ごめんなさい。貴女を悲しませることにならなければ良いのだけれど」
「いいえ、お姉さま。わたくし、本日お会いするのをとても楽しみにしておりましたの。だって、また最初からお姉さまと仲良くなれるのですもの」
気を遣ってのことかもしれないが、記憶がないことを前向きに捉えて話してくれるのは助かる。
立場上の付き合いではなく、本当にこのジョセフィーヌという姉貴分を慕っていることが声や目線の端々から伝わってきて、俺は当初の緊張を忘れ、このエミリーという娘にすっかり気を許してしまっていた。
とても感じの良い、話し易い娘というのが第一印象だった。
「私の方が年上のようだけれど、色々と教えてくださると助かります」
そう言って右手を差し出すと、エミリーは一瞬きょとんとした顔でその手を見つめた。
そして一拍遅れて満面の笑みを作り、両手でそれを握り返す。
不味い。もしかすると女性同士で握手というのはおかしかっただろうか。
アンナのときもそうだったので、きょとんとした顔には要注意だぞと警戒心が働く。
「お任せください。お姉さま。ブリジット様からは記憶を取り戻す手伝いをと頼まれましたけど、わたくし、記憶を失う前よりも、もぉっと素敵なお姉さまになっていただけるよう、全力でお手伝いいたしますわ」
「え、ええ、お願いします」
エミリーがあまりに強く手を握ってくるので、そういうものかと思い、こちらももう片方の手をおずおずと差し出し両手で握り返した。
柔らかい。仕事を知らない赤子のような無垢の手だ。
こうして握りあっている相手が、本当は見も知らない男であるという事実を隠していることに後ろめたさを覚える。
そこへ後ろで控えていたアンナが口を挟んできた。
「エミリー様、私からもお願いします」
「あら、アンナ。貴女もお久しぶり。聞かせてくれる?」
俺は頃合いかと思って手を離したのだが、エミリーはなお両手で俺の右手を握ったままアンナの方を向いて話し始める。
しまった。まだ早かったのか。
女友達同士の所作がどういうものか分かるように、砦村にいた同世代の女たちをもっと観察しておけば良かった。
俺の態度が冷たかったと、後で泣かれなければ良いのだが。
「はい。姫様のご記憶の混乱は、どうやら人間関係だけでなく、身の回りのことにも及んでいるようなのです」
「身の回り?」
「はい。身だしなみの整え方も忘れておいでのようですし。今は全て私がして差し上げておりますが、今後殿方の前にお出になられる際に、何か粗相をされることがないかと心配で」
「あら、そんなこと? 容易くてよ。他には?」
「はい。全てではないのですが、主に道具の扱いでしょうか。お医者の先生は、身についた習慣は以前と同じようにできるはずだとおっしゃるのですが……」
意外なほど自分が見られていたことが分かり、身のすくむ思いだった。
しっかりしなければ、いくら記憶がないとは言え、このままでは中身が女性でないことがバレてしまう。
それと、進んだ王宮の文化を知らない田舎者だということも。
「トイレの使い方もご存じないご様子でしたので、私少々心配で……」
「まあ……」
いや、アンナ。何もそんなことまで言わなくても良いのではないか。
確かに、大量の水を使って汚水を外に排出する便利な仕掛けなど、田舎にはないものだったので、恥を忍んで彼女の助けを借りはしたが……。
若い女性同士でそんな不浄の話を気安くされては聞いているこちらが赤面してしまう。
「大丈夫です。お姉さま。何も分からないのですもの。お姉さまが恥ずかしがることはありませんのよ。分からないことは何でもこのエミリーにお尋ねくださいね」
全くの善意でそう言っていることが分かるだけに、自分のポンコツ振りが余計に意識されてしまう。
せいぜい恥をかくのはこのエミリーとアンナの前だけにして、王宮の外の人間の前ではしっかり王女らしく振舞えるようにしようと、俺はそう密かに決意した。
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