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13.追いかける

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 宣言通り、ロドニスは翌日1人で中央に戻った。
 口論したあと、ロドニスは昼食にも夕食にも現れなかった。夜は夫婦の寝室にさえ現れなかった。彼がエウリッタと一緒に寝ないのはいつものことだが、性交渉すらしに来ないのはひどく珍しかった。

(そんなにわたしに怒ってるのかな……)

 悶々としてその夜は眠れなかった。
 彼のことを人殺しと呼んだ妻に、ロドニスは弁解しなかった。いや、なんの説明もしなかった。彼のそんな無関心にエウリッタはひどく腹が立ったはずだ。けれど徹底して避けられると、さびしい。

(でも自分から謝るのも嫌だ……)

 気づくと、相手が自分を避ければ避けるほど、自分も相手を避けるようになってしまって、エウリッタはロドニスの見送りにさえ出なかった。
 ケンカ別れしたことをとうとう後悔しはじめたのは、ロドニスがいなくなってからだった。

(今まで一緒に住んでたのに、急に会えなくなるなんて……)

 ひとりになって9日目、エウリッタは中央に出ようと決めた。中央の家に戻れば何でもあるので荷造りはほとんどいらなかった。

「どちらへ参られるのですか? 奥方様」

「旦那様に会いに行くの。止めないで」

 寝台の上にどすんと出した大型の鞄を詰めていると、アグネスが頭痛を覚えたように眉間を押さえた。

「奥方様は1度言い出したら聞かない方ですからね。わかりました。わたしも付き添いましょう」

「えっ一緒に来てくれるの?」

「シャンティ―領の女主人に一人旅をさせるわけにはいきませんから」

 馬車は何日もかかって退屈だし、1人で遠出するのは初めてだし、正直アグネスがついてきてくれたら願ったりだ。『そんなことなら、初めから、一緒に来て、と言ってくださったらいいのに』アグネスがそう苦笑いする。エウリッタも苦笑いした。
 アグネスが城を離れるための準備をするのに1日置いて、2人は次の朝早くに出発した。

「きゃあっ!?」

 出ることを告げようと犬笛がいる内政室へ行くと、カーテンをしめきった密室から、ほとんど裸の召使が飛び出してきた。アグネスが悲鳴を上げる。

「サンドラ! 何をしているの!」

「わっアグネス様!? えっそっそこにいらっしゃるのは奥方様!? おっお許しをっ! 失礼しました! ごめんなさい!」

「サンドラ!」

 アグネスの姿を見てギョッとして、次にエウリッタの姿を見て気絶しそうなほど青褪めたサンドラは脱兎のごとく走り去っていった。服も着ず、くしゃくしゃに乱れる髪を必死に手で整えながら。

「……なんてことでしょう。城をあけるのがよっぽど不安になってしまいましたわ!」

 アグネスが嘆いたとき、開きっぱなしのドアから犬笛が現れた。

「犬笛様! こんな朝から何をなさっているのです! 信じられません!」

「あー、召使長のアグネス様。おはようございます。朝からじゃなくて夜通しですよ」

「不潔な! かつ、ここはお仕事の場でしょう? だいたいあなたは……」

 アグネスが怒鳴り込むと、犬笛は早々に両手を上げて降参した。なおも詰め寄られながら、彼は声を張り上げる。

「奥方様、おはようございます」

「おはよう」

「ロドニス様を追っかけて行くんでしょう? 俺に黙って城を出られちまうかと思ったが」

「内政長の犬笛にはもちろん話すつもりだったわ。行方不明になったと思われたら面倒くさいし」

「出発の用意を整えてから言いに来るあたり周到ですね。止められると思ったんだろ」

「止めるの?」

「いや。俺にそんな権限ないんで。あんたは城主の妻で俺より偉い。……その代わり、護衛を連れてってください。それくらいならいいだろ?」

 エウリッタはうなずいた。こう言われるのは予想していたのだ。
 
(でも、……わたしたちが今日城を出るって犬笛は解ってたみたい。だったらどうして女遊びしたんだろ? アグネスさんに怒られるの、わかってただろうに)

 そこまで考えて、エウリッタはハッとした。
 ほぼ同時、気怠そうに佇む犬笛のガウンの腰紐がゆるんだ。腰紐はぽてっと彼の裸足の足元に落ち、紫花の優美な染め柄がほどこされる布が前開きになる。

「あ」

「まあ」

「――きゃあああ奥方様! 見ちゃだめです! 行きっ行きますよっ!」

 半勃ちの男根を見た瞬間、アグネスが魂ぎるような悲鳴を上げ、エウリッタの腕を掴んで走った。

「あ、じゃあね。良い旅を」

 ドアにもたれて犬笛がくすくす笑う。

(この男わりと不器用なのかな)

 『見てはなりません! わたしも見ていません!』と叫ぶアグネスに引きずられて遠ざかりながら、エウリッタは首をひねった。

 

 馬車で休憩をはさみながら旅をして、5日目に家についた。
 その日は夜遅かったからすぐ寝た。旅疲れでわりとゆっくり眠れたが、夫は帰ってこなかった。
 翌日、疲れがとれたすっきりした表情で、アグネスが物珍しそうに屋内を探検した。エウリッタは家主として軽い朝食を用意した。

「なんだか居心地が悪いです。奥方様がわたしをもてなすなんて」

「ふふ、気にしないで。ここはわたしの家ですから」

「……シャンティーの城も、奥方様の家なのですよ?」

「そんな風に人に言われたの初めて」

 エウリッタは驚いてそう答えた。実家では『ここはおまえの家だよ』と言われたことがなかったから。
 アグネスはお世辞を言う人間には見えない。夫はシャンティ―の城で好かれている。その延長みたいなものだろう。

「ありがとう、アグネスさん」

「お礼を言われることではありませんわ」エウリッタの答えに、アグネスは少し寂しげな顔をしたようだった。
 正午になっても夫は帰らなかった。
 仕事があるのでしょう、とアグネスが諭すが、エウリッタは落ち込んだ。

(会いたいな。今夜は戻って来るのかな……)

 落ち込んだままだと一緒に来てくれたアグネスに申し訳ないと思って、少し迷ったが、エウリッタはリヴに会いに行くことにした。そのついでに、アグネスを連れて観光に出るのだ。

「中央と言ってもかなり田舎よりだけれど、シャンティ―領であまり見なかった物もあるよ。マーケットやカフェの並び。王立図書館とか」

「図書館があるのですか?」

「あ、行ってみたい?」

 ぜひ、とアグネスが顔を輝かせる。「行ったことはありませんが、本を好きなだけ読めると聞いてさぞかし楽しい場所なのだろうと思っていたのです」

(読書って楽しいか?)

 本を読んだのは留学先で勉強していたときくらいだ。それを言うと、「まあ素敵。毎日、本を読めたのですね」とアグネスはますます羨ましそうに言う。ますます解らない。

「じゃあアグネスさんは時間を気にせず読書にひたってきて。さっき決めたように、図書館についたら午後から別行動にしよう」

「でも、やっぱりお一人だと危険ですわ。犬笛様がつけてくださった護衛の兵士たちは中央の家についた時点で返してしまいましたし」

 スプーンで紅茶に蜂蜜を溶かし込みながら、アグネスが心配する。
 アグネスはエウリッタの行き先を聞かない。エウリッタ本人が言い出さないと何も聞いてこないだろう。
 アグネスの言葉のない気遣いに、エウリッタは複雑な思いがする。
 アグネスのことは好きだ。信用している。
 けれど、リヴのことは人にしゃべりたくない。出来る限り隠しておきたいほど大切な存在なのだ。

「危険じゃないわ。あそこを見て」エウリッタは遮光カーテンを少しだけ開けて、玄関の物陰を指さした。「あそこに立ってるのは多分旦那様の部下。向かいの通りにもう一人いる。他にもいるかもしれない。家を出たらついてくるだろうし、わたしたちが別れたら、あっちも2手に別れて見守ってくれると思う」

「まぁ……全く気づきませんでしたわ。ええと、お茶に上がってもらうべきでしょうか?」

「見守ることが仕事だと思うから、そっとしとこう。前にご飯を食べようって呼んでも来なかったし」

「前に? ……シャンティ―卿は、奥方様が外出するときは必ず護衛をつけるのですか?」

「多分そう。旦那様から何か言われたことはないけれど」

「まあ」

「今回は犬笛が早馬でも使って旦那様にわたしたちが来ることを知らせたんでしょう。それでここにいることをもう知ってる」
 
「旦那様は奥方様を大切にされているのですね。ほんとうは自分で守りたいに違いありませんわ」

「そんな風に言われたことはないけど」

「……き、きっと面と向かっていうのは恥ずかしいのでしょう」

「恥ずかしがり屋なら成り上がれないと思う。旦那さまは面の皮厚いと思うよ」

「……」

 食べ終わって図書館へ向かったが、行く道でおいしそうな焼き菓子の店をアグネスが見つけた。相談して、イチゴがたくさん盛られたムースをひとつだけ買って、ふたりで分けた。午後の日射しで生温くなる前に急いで食べきる。
 いろいろと小さい道草をしながら、白い柱が花の綻ぶようなデザインで建っている図書館の正面口に着いた。

「ここで大丈夫ですわ、奥方様」

「え、中まで一緒に行きますよ?」

「奥方様は、その肩掛けを渡しに行きたい方がいらっしゃるのでしょう?」

(もしかして旦那様に届けに行くと思ってるのかな?)

 リヴのことを話すつもりはなかったし、エウリッタは曖昧に笑んだ。
 アグネスは家路を覚えていると言ったが、念のため図書館で集合してから帰ることにして時間を決めると、ふたりは別れた。


 リヴに会うようになったのは中央へ出てわりとすぐのことだった。
 エウリッタはリヴに会いたさで実家へ帰ったが会わせてもらえなかった。父が許さなかった。
 そのことにひどく落ち込みながら、それでもこっそり、知り合いの召使いにリヴ宛ての手紙を託したのだが、それから2週間ほどして、リヴ本人から手紙が来たのだ。
 召使はほぼ文盲だが、エウリッタは留学先で文字の読み書きを覚えて、留学から帰るとそれをリヴに教えた。
 だからリヴはまだまだ学習中なのだが、一生懸命な文体で、最近ジョナルダ伯爵について外に出られることがある、外にいるとき、おつかいで一人にされることがある、会えそうなら会おう、といったことを手紙に書いてきた。
 それから何度か手紙を交わしあって、ふたりはリヴが外に出ているとき会うようになったのだった。

「リッタちゃん。城に帰ってるんじゃなかったの?」

 イチョウの並木が黄金に染まる最近、いつもの公園のベンチで待っていると、ほぼ時間どおりにリヴが現れた。

「旦那様とケンカした」

「ええ? そうなの?」

「姉ちゃんこそ来ないかと思った。わたしがこっちに帰ってること知らなかったでしょう?」

「あなたがいるかもしれないから公園を見に来てるよ。ジョナルダ伯爵は今度の娼婦がとても気に入ってる。毎週木曜日は欠かさずこの辺りに来てるの」

(というか、わたしたちがこっそり会ってるの絶対解ってるでしょう。わかってて、面白がってこのへんの娼婦に入れ込んでるフリしてるんだと思うけど)

 頭のなかで父を罵倒する。けれど、父の気まぐれのおかげでリヴと会えるのだ。何も疑ってないリヴを不安にさせることもないし、エウリッタは黙って彼女を抱きしめた。

「リッタちゃん、落ち込んでるの?」

 召使たちが使う石鹸の素朴なにおいがして、姉の腕がエウリッタの体に回った。ぽんぽん、と姉のしわしわの手のひらが背中をあやす。
 なつかしさに胸が締めつけられる。
 姉にすすめられて、エウリッタはベンチに腰を落ち着けた。彼女のために編んだ肩掛けを渡すといたく喜んでくれた。

「嬉しいな。これから寒くなるもの。髪の毛が短いと冬が辛いよね。首まわりとか」

「次はマフラー持ってくるよ」

「前の冬にくれたじゃない。あれまだ使ってる」

 ほっかむりの奥から伸びるブルネットの毛先を揺らして、姉が礼を言う。日差しが透きとおるような凛とする微笑みにつられて、エウリッタも笑う。
 エウリッタは結婚して家を出てからリヴに会うたびに差し入れしていた。召使は持ち物がほとんどないし、ジョナルダ伯爵はリヴにだけ物を与えたりもしない。

(そのへんは考えてるんだな、ジョナルダ伯爵。目に見える形で特別扱いしたら他の召使いたちにいじめられるもの。まあ、……姉ちゃんはいじめられっ子の性分じゃないけど)

 ジョナルダ伯爵とリヴの関係はきっと屋敷の誰も知らない。エウリッタ自身も結婚することになって初めてジョナルダ伯爵に聞かされた。10年以上も続いていたそうなのに最近まで知らなかったのだ。
 そして、リヴはエウリッタが知っていることを知らない。
 リヴは穢れを知らない天使みたいな黒い瞳で笑う。エウリッタが12歳のころ、男爵家が潰れてふたりで路頭に迷いそうになったときも、だいじょうぶよ、と笑った。エウリッタが不安にならないように、エウリッタが心配しないように、姉はいつも凛と笑うのだ。
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