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45 【最終話】オンとオフのスイッチ
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「やっと終わった!」
なんとか冷静になってデスクに戻り、平日にやり残した仕事をやりきった瞬間、勢い余って声を上げてはっとした。自分以外の社員を驚かしてしまったかもしれないと、首をすくめて周囲を見回す。けれど、室内には自分以外誰も居なかった。
時計を確認すると仕事を再開してから数時間が経過していた。
考えてみれば私ほど仕事を貯めていた人間が他にいるはずもなく、私の仕事が終わるまで残っている社員がいるわけがない。集中して仕事をしている内にみんな帰ってしまったようだった。
課長もいない。
少し寂しさを感じたけれど、仕事が終わっているにもかかわらずあの人が無駄にオフィスに残るはずもないと割り切り、課長のデスクの後ろにある窓に目を向ける。
ブラインドの向こうの空がいい感じに紅に染まっている。
私は立ち上がり、窓に歩み寄り普段は下げられているブラインドを上まであげて外の景色を眺めてみた。
3階のため決して眺めがよい訳ではないのだけれど、ビルの間から見えるグラデーションの空がなんだかとても綺麗に見えてついつい見入ってしまう。
夕暮れ独特のどこか物悲し気な雰囲気に呑まれていると、頭の中が空っぽになった。
そんな自分に気がついて思考を始めたとき、一番に頭浮かんできたのは課長の姿だった。
「やっぱり、これは好きってことだよな」
久々に冷静になりすっきりした頭は今までに導き出すのにもの凄く時間をかけた答えをあっさり肯定した。
そしてその答えを改めて認めた自分にため息をひとつ。
自分の気持ちはもうわかった。そして幸運なことに相手の気持ちも恐らくだけれど知っている。
何を迷うことがあると思う一方、告白などしたことのない心はブレーキを掛ける。
だけれど、避けまくっていたここ最近の関係のままでは良くないし、もっと進んだ関係を自分が求めていることももう自覚している。
「さて、どうしたものかなぁ」
「何がだ?」
「へっ?」
突然背後から声がして反射的に振り向くと、そこには課長が立っていた。
「えっ、あれ? もう帰ったんじゃ――」
「ここの荷物が目に入らなかったのか?」
言われて指さされた方向を見ると、そこにはたしかに課長の鞄が置いてあった。どうやら一時席をはずしていただけだったらしい。
今の今まで考えていた相手が突如現れたことでパニックになりかける。私は自分の気持ちを落ち着かせるためにとりあえず会話を続ける。
「こんな時間まで残っていらっしゃるなんて珍しいですね。そんなにお仕事残ってらっしゃったんですか?」
けれども、私が選択した会話内容は私の心臓を落ち着かせるどころか、さらに大きく動揺させた。
「仕事ならとっくに終わった。お前の仕事が終わるのを待っていたらこんな時間まで残ることになった」
「えっ、どうして?」
「何がどうして、だ。あんな変な状況に巻き込まれたんだぞ俺は。どう話しがまとまったのかくらい知る権利があるし、川瀬には報告する義務があると思うが」
どうやら課長も第一資料室でのことが気にはなっていたようだ。私は慌てて口を開く。
「ええと、色々丸く収まりました。りょ――杉浦と木野さんも仲直りして元に戻った、というか改めて向き合ってみるみたいです。あっ、懲戒処分の必要はないです」
「ふうん」
課長は自分で聞いておきながら興味なさそうに返事をして腕を組んだ。
窓から差し込んでくる紅い光が課長を照らす。
正面から見るその姿に私はドキリとしてしまう。目の中のフィルターが変わってしまったかのようにかっこよく見えた。
何だか無駄にドキドキする。
見ているだけで自分の気持ちが溢れ出てしまいそうな気がして、私はそっと目を逸らす。
夕日の光があって良かった。でなければ自分の顔が赤くなっていることがバレてしまう。
「で、何が“どうしたもの”なんだ?」
けれども、折角逸らしていた視線はあっという間に課長に戻してしまった。
まっすぐこちらを見ている目と目が合う。
「いえ、別に、大したことでは……」
「好きってことに関係あるんだろ?」
「えっ?」
「自分でそう言ってたじゃねーか」
「そっそこから聞いてたんですか!?」
私は思いっきりのけぞって自らの口元を無意味に隠した。
考えてみれば課長は私が振り向いたときに既に私とデスクを挟んだ真後ろにいたのだ。その数秒前に発せられた独り言が拾われていて当然だ。
当然なのだけれども、私はとてつもなく慌てた。
ぼんやり自分の恋心を再確認していた背後にその想い人が居て、独り言を聞かれていたなんて恥ずかしいにも程がある。
唯一の救いは課長の名前を出していなかった点だけれど、それでも私は内心で悲鳴を上げた。
でもって、課長は私の唯一の救いすら粉砕しようとしてくる。
「で、“好きってこと”に対して“どうしたものなぁ”っていうのはどういうことなんだ?」
「いや、そこは掘り下げるところでは……」
「どう考えても掘り下げるべきところだろう」
目の前の課長は眉を顰めた。
そして歩き出したかと思うとデスクを迂回して私との距離を詰めて来た。私の後ろは窓なので逃げたくても後退できない。
私の目の前に立った課長を恐る恐る見上げると不機嫌な顔。
何故と思って直ぐにマイナス思考になる。
もしかして、今更私に好きになられる事が迷惑とか。
数時間前の矢印の話は方便?
一人でグルグル考えていると、課長がさらに一歩私との距離を詰める。腕を組んだままの状態で鋭い目線で見下ろされる。
戦々恐々としていると課長はゆっくりと口とを開いた。
「お前が今考えていた相手は杉浦か?」
「えっ?」
問われた質問の意味がわからない。
「だから、お前が好きだって思ったのは杉浦かって聞いてるんだよ」
「何言って――」
「何だかんだ言って俺に完全に傾いてると思ってたのに、今更元彼がやっぱり良かったなんて思ってるんじゃねぇだろうな?」
「はあ?」
何を言っているのだろうかこの人は。
そう思った途端に課長の捲し立てられ私は黙るしかなくなった。
「そもそもお前、ここしばらく俺のこと避けてただろう? 話しかけようにも直ぐに外へ出る。朝の時間帯は定時ギリギリに出社。終業後は話しかけるなと言わんばかりに残務処理に追われて、俺が少し集中して仕事している間にいつの間にか荷物だけ残して社内のどこかに隠れて仕事してただろ? 遠目に見ても顔色が良くないのが分かってやっと声を掛けられたと思ったら、俺なんて必要ないの一点張り。俺はもうどうして良いのやら――」
「もっもうそのくらいにして下さいっ!」
焦りが込み上げてきて耐えきれなくなりストップを掛ける。
自分がしてきた失礼な態度を思い出すと居た堪れなくなり、今更ながら後悔する。
あぁ、
どうして、仕事やバレーみたいに積極的になれなかったんだ自分!
意気地なし!
恥ずかしく情けない過去の自分を罵倒する。
それでも否定しなくてはならないことを放置することは出来ず、私は伝えるべきことを伝えた。
さすがにこの点に関しては黙ってはいられない。
「さっ避けてた事はごめんなさいっ。でもって、今まさに杉浦は木野さんとちゃんと向き合うことになったて言ったじゃないですか!」
「向き合うって事は付き合うって意味じゃないだろう。まぁ、性懲りも無くまたあの二人がまとまりそうだったとしても、自分には見込みがなくなって“どうしたもんかなぁ”だった可能性もゼロじゃないだろ」
「ゼロですよっ! ゼロもゼロ、今更私が杉浦に惹かれるなんて100%あり得ません!」
あらぬ疑いを掛けられ、それを払拭することに必死だった私は他方面に関して完全に油断していた。
目の前の課長の不機嫌な表情がガラリと変わる。整った形の唇の端がニヤリと上がった。
「じゃあ、俺か?」
「えっ?」
………はっ嵌められた!
先ほどまでの怒りを孕んだ表情が嘘みたいな余裕たっぷりの笑顔になって、課長が組んでいた腕を解く。
そして解いた右腕が伸びてきて、私の顔の横を通り過ぎ窓に手をついた状況で正面から見つめられる。
「なあ?」
男の人にしては異様に艶のある声に問われて私は逃げ道のないところへと追い込まれる。
どこから来るのかわからない自信を私にも分けて欲しい!
この人は完全に私の答えを分かっている。
分かった上で私の口から言わせたいのだ。
「なっなんのことですか?」
やられっ放しは癪なので苦し紛れにしらばっくれてみるが、相手にダメージを与えるまでには全く及ばない。
「往生際が悪いな」
「べつに――」
「俺の言った通りになっただろ?」
「だから――」
「ほら、早く言えよ」
「えーと――」
「避けられた事がショックで、ここ最近仕事が滞って滞って――」
「申し訳なかったとは思いますが、滞ってたのは嘘ですよね! 大口案件あっさり片付けてたの知ってますからね!」
「まぁ、明らかに精神的に参っているお前に何もしてやれなくて、それなりに落ち込んでたのは本当だ」
「えっ……」
課長が一瞬だけ苦笑を浮かべて、リアルに悔しそうな顔をする。けれども、直ぐにその表情は消えて、今度は真剣な顔になった。
正面にあった課長の顔がゆっくり動いて耳元ギリギリに唇を寄せられる。
「――正直に言わないと、この場で海での続きすんぞ」
「んなっ」
背筋に電流が走った。
色気たっぷりのとんでもない発言に、耳が溶けて背中が震えそうだ。
私ばっかり翻弄されている。こんなやり方で告白しろと迫られるなんてあんまりじゃないか。
私は課長と違って恋愛上級者なんかじゃないんだ。
胸にこみ上げてきた感情が目元から流れ出そうになるのをぐっと堪えて、私は最後の抵抗を試みる。
触れ合うギリギリのところにある課長のスーツの前襟を掴んで、力いっぱい体を引き離す。
そして正面に戻ってきた課長の顔を精一杯上目づかいで睨みつけた。
「分かってるくせにっ。意地の悪いこと言わないでくださいっ」
途端課長が目を見開いて停止。
次いで空いていた左手で口元を押さえると眉根を寄せて私から視線を逸らした。
あれ?
勝ち目のない勝負の最後の無意味な抵抗のつもりだったのに、何故か課長の表情から余裕がなくなった。
さらには、ただでさえ夕日に染まって赤くなっていた顔がより赤くなっている気がする。
「課長?」
らしくない姿にどうしたのだろうかと小首を傾げると、逸らされた目がこちらに戻ってきた。
ひと睨みされる。
けれども、何故だかその表情は普段と違って恐くない。
「やっぱり生意気だよ、お前」
「――えっ」
いつだか聞いた台詞に耳を奪われていると急に視界が僅かに暗くなる。
気がついたときには少し離れたはずの課長との距離がなくなって、課長の左腕が私の腰を引き寄せ右手に顎を掬われている。
「抵抗しなかったら、肯定したってことにしてやるよ」
言葉の意味を理解したときには私の唇と課長のそれが重なっていた。
突然過ぎる行為に全身が強張る。
次いで反射的に抵抗しそうになる体を精一杯抑え込んだ。
言葉で言えない想いを伝える最大のチャンス。
これを逃したら、伝える機会が次にいつ回ってくるのかなんてわからない。
私は緊張で固まった全身の内、指先だけを僅かに動かして掴んでいた襟を僅かに引き寄せ目をぎゅっと閉じた。
その僅かな動きは課長に伝わったらしく、課長のキスがその小さな動きの分だけ深くなる。
永遠のようで一瞬だったその時間。
ゆっくりと唇が離される。
そのときに呼吸をするのを忘れていたのに気がつき思いっきり息を吸い込んだ。
そして酸素を得た勢いで私は恥ずかしさから黙っていられなくなり、まだ至近距離にある課長の顔を睨みつける。
「会社は仕事をするために来る場所なんじゃないですか?」
目の前の顔は私の台詞を予想していなかったようで一瞬きょとんとするが、すぐにオフモードの不敵な笑みを浮かべた。
「馬鹿言え。会社に居ようが仕事をしてようが、こういう人生における希少なチャンスをおめおめ逃がせられるか」
普段の真面目さと厳しさはどこへ行ったのやら。
そう思わずにはいられず私が呆れて肩を落とすと、課長は不遜な態度そのまま言葉を続けた。
「切り替えっていうのは重要なんだよ。でもって今は完全に――」
――お前に集中するための時間だ。
耳に音が届くと同時に再び唇が塞がれる。
そんな状況の中、私は切り替えの激しい上司の有難いお言葉を部下の手本のようにしっかり聞き入れた。
そして、目の前の愛する相手にだけ集中するためのスイッチを心の中でそっと押した。
―FIN―
なんとか冷静になってデスクに戻り、平日にやり残した仕事をやりきった瞬間、勢い余って声を上げてはっとした。自分以外の社員を驚かしてしまったかもしれないと、首をすくめて周囲を見回す。けれど、室内には自分以外誰も居なかった。
時計を確認すると仕事を再開してから数時間が経過していた。
考えてみれば私ほど仕事を貯めていた人間が他にいるはずもなく、私の仕事が終わるまで残っている社員がいるわけがない。集中して仕事をしている内にみんな帰ってしまったようだった。
課長もいない。
少し寂しさを感じたけれど、仕事が終わっているにもかかわらずあの人が無駄にオフィスに残るはずもないと割り切り、課長のデスクの後ろにある窓に目を向ける。
ブラインドの向こうの空がいい感じに紅に染まっている。
私は立ち上がり、窓に歩み寄り普段は下げられているブラインドを上まであげて外の景色を眺めてみた。
3階のため決して眺めがよい訳ではないのだけれど、ビルの間から見えるグラデーションの空がなんだかとても綺麗に見えてついつい見入ってしまう。
夕暮れ独特のどこか物悲し気な雰囲気に呑まれていると、頭の中が空っぽになった。
そんな自分に気がついて思考を始めたとき、一番に頭浮かんできたのは課長の姿だった。
「やっぱり、これは好きってことだよな」
久々に冷静になりすっきりした頭は今までに導き出すのにもの凄く時間をかけた答えをあっさり肯定した。
そしてその答えを改めて認めた自分にため息をひとつ。
自分の気持ちはもうわかった。そして幸運なことに相手の気持ちも恐らくだけれど知っている。
何を迷うことがあると思う一方、告白などしたことのない心はブレーキを掛ける。
だけれど、避けまくっていたここ最近の関係のままでは良くないし、もっと進んだ関係を自分が求めていることももう自覚している。
「さて、どうしたものかなぁ」
「何がだ?」
「へっ?」
突然背後から声がして反射的に振り向くと、そこには課長が立っていた。
「えっ、あれ? もう帰ったんじゃ――」
「ここの荷物が目に入らなかったのか?」
言われて指さされた方向を見ると、そこにはたしかに課長の鞄が置いてあった。どうやら一時席をはずしていただけだったらしい。
今の今まで考えていた相手が突如現れたことでパニックになりかける。私は自分の気持ちを落ち着かせるためにとりあえず会話を続ける。
「こんな時間まで残っていらっしゃるなんて珍しいですね。そんなにお仕事残ってらっしゃったんですか?」
けれども、私が選択した会話内容は私の心臓を落ち着かせるどころか、さらに大きく動揺させた。
「仕事ならとっくに終わった。お前の仕事が終わるのを待っていたらこんな時間まで残ることになった」
「えっ、どうして?」
「何がどうして、だ。あんな変な状況に巻き込まれたんだぞ俺は。どう話しがまとまったのかくらい知る権利があるし、川瀬には報告する義務があると思うが」
どうやら課長も第一資料室でのことが気にはなっていたようだ。私は慌てて口を開く。
「ええと、色々丸く収まりました。りょ――杉浦と木野さんも仲直りして元に戻った、というか改めて向き合ってみるみたいです。あっ、懲戒処分の必要はないです」
「ふうん」
課長は自分で聞いておきながら興味なさそうに返事をして腕を組んだ。
窓から差し込んでくる紅い光が課長を照らす。
正面から見るその姿に私はドキリとしてしまう。目の中のフィルターが変わってしまったかのようにかっこよく見えた。
何だか無駄にドキドキする。
見ているだけで自分の気持ちが溢れ出てしまいそうな気がして、私はそっと目を逸らす。
夕日の光があって良かった。でなければ自分の顔が赤くなっていることがバレてしまう。
「で、何が“どうしたもの”なんだ?」
けれども、折角逸らしていた視線はあっという間に課長に戻してしまった。
まっすぐこちらを見ている目と目が合う。
「いえ、別に、大したことでは……」
「好きってことに関係あるんだろ?」
「えっ?」
「自分でそう言ってたじゃねーか」
「そっそこから聞いてたんですか!?」
私は思いっきりのけぞって自らの口元を無意味に隠した。
考えてみれば課長は私が振り向いたときに既に私とデスクを挟んだ真後ろにいたのだ。その数秒前に発せられた独り言が拾われていて当然だ。
当然なのだけれども、私はとてつもなく慌てた。
ぼんやり自分の恋心を再確認していた背後にその想い人が居て、独り言を聞かれていたなんて恥ずかしいにも程がある。
唯一の救いは課長の名前を出していなかった点だけれど、それでも私は内心で悲鳴を上げた。
でもって、課長は私の唯一の救いすら粉砕しようとしてくる。
「で、“好きってこと”に対して“どうしたものなぁ”っていうのはどういうことなんだ?」
「いや、そこは掘り下げるところでは……」
「どう考えても掘り下げるべきところだろう」
目の前の課長は眉を顰めた。
そして歩き出したかと思うとデスクを迂回して私との距離を詰めて来た。私の後ろは窓なので逃げたくても後退できない。
私の目の前に立った課長を恐る恐る見上げると不機嫌な顔。
何故と思って直ぐにマイナス思考になる。
もしかして、今更私に好きになられる事が迷惑とか。
数時間前の矢印の話は方便?
一人でグルグル考えていると、課長がさらに一歩私との距離を詰める。腕を組んだままの状態で鋭い目線で見下ろされる。
戦々恐々としていると課長はゆっくりと口とを開いた。
「お前が今考えていた相手は杉浦か?」
「えっ?」
問われた質問の意味がわからない。
「だから、お前が好きだって思ったのは杉浦かって聞いてるんだよ」
「何言って――」
「何だかんだ言って俺に完全に傾いてると思ってたのに、今更元彼がやっぱり良かったなんて思ってるんじゃねぇだろうな?」
「はあ?」
何を言っているのだろうかこの人は。
そう思った途端に課長の捲し立てられ私は黙るしかなくなった。
「そもそもお前、ここしばらく俺のこと避けてただろう? 話しかけようにも直ぐに外へ出る。朝の時間帯は定時ギリギリに出社。終業後は話しかけるなと言わんばかりに残務処理に追われて、俺が少し集中して仕事している間にいつの間にか荷物だけ残して社内のどこかに隠れて仕事してただろ? 遠目に見ても顔色が良くないのが分かってやっと声を掛けられたと思ったら、俺なんて必要ないの一点張り。俺はもうどうして良いのやら――」
「もっもうそのくらいにして下さいっ!」
焦りが込み上げてきて耐えきれなくなりストップを掛ける。
自分がしてきた失礼な態度を思い出すと居た堪れなくなり、今更ながら後悔する。
あぁ、
どうして、仕事やバレーみたいに積極的になれなかったんだ自分!
意気地なし!
恥ずかしく情けない過去の自分を罵倒する。
それでも否定しなくてはならないことを放置することは出来ず、私は伝えるべきことを伝えた。
さすがにこの点に関しては黙ってはいられない。
「さっ避けてた事はごめんなさいっ。でもって、今まさに杉浦は木野さんとちゃんと向き合うことになったて言ったじゃないですか!」
「向き合うって事は付き合うって意味じゃないだろう。まぁ、性懲りも無くまたあの二人がまとまりそうだったとしても、自分には見込みがなくなって“どうしたもんかなぁ”だった可能性もゼロじゃないだろ」
「ゼロですよっ! ゼロもゼロ、今更私が杉浦に惹かれるなんて100%あり得ません!」
あらぬ疑いを掛けられ、それを払拭することに必死だった私は他方面に関して完全に油断していた。
目の前の課長の不機嫌な表情がガラリと変わる。整った形の唇の端がニヤリと上がった。
「じゃあ、俺か?」
「えっ?」
………はっ嵌められた!
先ほどまでの怒りを孕んだ表情が嘘みたいな余裕たっぷりの笑顔になって、課長が組んでいた腕を解く。
そして解いた右腕が伸びてきて、私の顔の横を通り過ぎ窓に手をついた状況で正面から見つめられる。
「なあ?」
男の人にしては異様に艶のある声に問われて私は逃げ道のないところへと追い込まれる。
どこから来るのかわからない自信を私にも分けて欲しい!
この人は完全に私の答えを分かっている。
分かった上で私の口から言わせたいのだ。
「なっなんのことですか?」
やられっ放しは癪なので苦し紛れにしらばっくれてみるが、相手にダメージを与えるまでには全く及ばない。
「往生際が悪いな」
「べつに――」
「俺の言った通りになっただろ?」
「だから――」
「ほら、早く言えよ」
「えーと――」
「避けられた事がショックで、ここ最近仕事が滞って滞って――」
「申し訳なかったとは思いますが、滞ってたのは嘘ですよね! 大口案件あっさり片付けてたの知ってますからね!」
「まぁ、明らかに精神的に参っているお前に何もしてやれなくて、それなりに落ち込んでたのは本当だ」
「えっ……」
課長が一瞬だけ苦笑を浮かべて、リアルに悔しそうな顔をする。けれども、直ぐにその表情は消えて、今度は真剣な顔になった。
正面にあった課長の顔がゆっくり動いて耳元ギリギリに唇を寄せられる。
「――正直に言わないと、この場で海での続きすんぞ」
「んなっ」
背筋に電流が走った。
色気たっぷりのとんでもない発言に、耳が溶けて背中が震えそうだ。
私ばっかり翻弄されている。こんなやり方で告白しろと迫られるなんてあんまりじゃないか。
私は課長と違って恋愛上級者なんかじゃないんだ。
胸にこみ上げてきた感情が目元から流れ出そうになるのをぐっと堪えて、私は最後の抵抗を試みる。
触れ合うギリギリのところにある課長のスーツの前襟を掴んで、力いっぱい体を引き離す。
そして正面に戻ってきた課長の顔を精一杯上目づかいで睨みつけた。
「分かってるくせにっ。意地の悪いこと言わないでくださいっ」
途端課長が目を見開いて停止。
次いで空いていた左手で口元を押さえると眉根を寄せて私から視線を逸らした。
あれ?
勝ち目のない勝負の最後の無意味な抵抗のつもりだったのに、何故か課長の表情から余裕がなくなった。
さらには、ただでさえ夕日に染まって赤くなっていた顔がより赤くなっている気がする。
「課長?」
らしくない姿にどうしたのだろうかと小首を傾げると、逸らされた目がこちらに戻ってきた。
ひと睨みされる。
けれども、何故だかその表情は普段と違って恐くない。
「やっぱり生意気だよ、お前」
「――えっ」
いつだか聞いた台詞に耳を奪われていると急に視界が僅かに暗くなる。
気がついたときには少し離れたはずの課長との距離がなくなって、課長の左腕が私の腰を引き寄せ右手に顎を掬われている。
「抵抗しなかったら、肯定したってことにしてやるよ」
言葉の意味を理解したときには私の唇と課長のそれが重なっていた。
突然過ぎる行為に全身が強張る。
次いで反射的に抵抗しそうになる体を精一杯抑え込んだ。
言葉で言えない想いを伝える最大のチャンス。
これを逃したら、伝える機会が次にいつ回ってくるのかなんてわからない。
私は緊張で固まった全身の内、指先だけを僅かに動かして掴んでいた襟を僅かに引き寄せ目をぎゅっと閉じた。
その僅かな動きは課長に伝わったらしく、課長のキスがその小さな動きの分だけ深くなる。
永遠のようで一瞬だったその時間。
ゆっくりと唇が離される。
そのときに呼吸をするのを忘れていたのに気がつき思いっきり息を吸い込んだ。
そして酸素を得た勢いで私は恥ずかしさから黙っていられなくなり、まだ至近距離にある課長の顔を睨みつける。
「会社は仕事をするために来る場所なんじゃないですか?」
目の前の顔は私の台詞を予想していなかったようで一瞬きょとんとするが、すぐにオフモードの不敵な笑みを浮かべた。
「馬鹿言え。会社に居ようが仕事をしてようが、こういう人生における希少なチャンスをおめおめ逃がせられるか」
普段の真面目さと厳しさはどこへ行ったのやら。
そう思わずにはいられず私が呆れて肩を落とすと、課長は不遜な態度そのまま言葉を続けた。
「切り替えっていうのは重要なんだよ。でもって今は完全に――」
――お前に集中するための時間だ。
耳に音が届くと同時に再び唇が塞がれる。
そんな状況の中、私は切り替えの激しい上司の有難いお言葉を部下の手本のようにしっかり聞き入れた。
そして、目の前の愛する相手にだけ集中するためのスイッチを心の中でそっと押した。
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