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11 タチの悪い大人

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タチの悪い大人。

私は社会人3年目にしてその言葉が最も似合う男を認識した。

普段は鬼のように厳しくて誰も逆らえない鬼課長。仕事をしているときに少しでも手を抜いてそれがバレたりしたら瞬時に雷が落ちてくる。

これが仕事モードのつまりオン状態の榊恭介。

そして、この男は突如鬼から悪魔に豹変する。

早めに出勤した日のオフィス、仕事が一段落した昼休み、終業後の社内の人気のない場所。

私と二人きりになったとき、奴は前触れもなくオフモードに切り替わる。

そして私をからかうことを全力で楽しんでいる。

時には砕けて話しかけてきたり、突然耳元で頭に響くような低音で囁いてきたり、眉間に皺を寄せえているのが基本形の顔でふと目が合うと意味あり気な笑顔を向けてきたり。

そんな課長と接する度に戸惑いアタフタする私。

その私を見て課長は満足気な表情をする。

本当にタチが悪い。

何をどうこうするわけでもなくひたすらからかってくる。

翻弄される私を傍目に頭が切り替わってしまうと本人は涼しい顔でいつも通りに仕事をこなし、まごつく私に厳しく指導までしてくる。

余裕のある態度で周囲にはわからないように追い詰めてくる。

抵抗しようにも相手が上手過ぎて自分程度の女ではどうこうすることも出来ない。

掌の上で踊らされているとはこのことだ。

仕事に支障は今のところ出ていないけれど、落ち着かないことこの上ない!!

そんな気分のまま湿った長梅雨が終わり、本格的な夏がはじまって数日経過した。気持ちもカラッと夏モードになれたらよいけれど、私の心境はどちらかというと夏のスコールだ。そんな生産性のない事を考えつつ、私はデスクで大きく伸びをする。

あのS社との契約は万事上手くいき、過分な程に周囲からお褒めの言葉を私は賜った。でもって、それ以前から通常業務以上の仕事をこなしていたため、ここのところの仕事内容は多少余裕のあるものになっている。

それでも忙しい日は定期的にやってきて、久々に本腰を入れて残業をしていた。

時計を確認すると夜の10時過ぎ。

あたりを見回してみると社員の殆どが帰った一課は私と課長と森さんだけになっていた。

視界に捉えた森さんが調度良く立ち上がる。

荷物を持って帰る準備をしている姿を見て私は大層焦った。

森さんが帰ったら課長とふたりっきりになってしまう。

そんな恐ろしい事態は絶対に避けたい。

どうにかまだ留まっててもらえるように森さんに念を送ると、私の思いが通じたのか森さんは鞄を持たずに課長の方に歩み寄って行った。

「昨日は無事に帰れたのか?」

あっタメ語だ。

森さんは普段業務中にかはり礼儀正しい敬語を課長に対して使っていたはず。

今はもう夜も遅いし離れたデスクに私しかいない状況だからか、同期として課長に話しかけたようだ。

「ああ」

課長は集中してパソコンに向かって作業をしているようで、素っ気ない返事。

「なら良かった。昨日の夜は凄い雨だったからな。残業させちまって悪かったな」

森さんは申し訳なさそうに課長に詫びを入れている。

詳しくは知らないけど、確か昨日は森さんがリーダーをしているチームが課長の承認が必要な書類でミスをして長時間残業になったらしい。

それでもって、初夏には珍しく発達した状態で関東に上陸した台風が日付が変わる前から猛威を振いはじめていた。

昨日の夜は雨の音で眠れないくらいだった。

森さんの発言を聞いていると、どうやらタクシーが一台しか捕まらず、終電間際の社員を優先して課長はあの雨の中徒歩で帰ったらしい。びしょ濡れもよいところだっただろう。

課長は申し訳なさそうにする森さんに再び「ああ」とだけ答える。

集中している時にいくら話しかけても無駄だと判断したのか、森さんはお疲れ様でしたと言って自らのデスクに戻り鞄を手に取ってしまう。

帰ってしまう様子の森さんを目の当たりにして、私は二人を観察するためにいつの間にな止まっていた手を勢い良く動かし始めた。

早く終わらせて帰らねば。

二人きりは本当にご勘弁。

そんな心の声を聞きとって森さんが待ってくれるはずもなく、私に軽く手を挙げて挨拶の代わりにしてそのまま部屋を出て行ってしまった。

カタカタとキーボードを叩く音だけが響く室内。

課長と残業という形で二人きりになるのは久しぶりだ。

そう思った途端、空調が効いているおかげで暑くもないのに嫌な汗が流れる。

ここに居るのは危険だ。また、揶揄われる!

私は1秒でも早く帰るために、さらにキーボードを叩く速度を早めた。



30分程時間が経過して私の仕事はやっと終わった。

そそくさと帰る準備をし、簡単に声だけ掛けて帰ろうと課長の方に視線を向ける。

すると有り得ない光景が目に飛び込んできた。

課長が寝ていた。

デスクに突っ伏した状態で動かない。

思わず目をこすってもう一度確認する。

なんて珍しい光景だろう。

そういえば、先ほどから自分がキーボードを叩く音しか聞こえてこなかった気がする。

昨日の夜はもしかして徹夜だったのだろうか。

しかし、困った。

さらりと帰る予定だったけど、寝てしまっている課長をそのまま起こさずに帰るのは気が引ける。

私が起こさずに帰ってしまったら、あの様子じゃいつ起きるか分からない。

何より、起こさずに帰ったら明日揶揄いついでに文句を言われそう……。

仕方なく、私は課長のデスクに近づいた。

一歩近づくごとに課長の寝ている姿がしっかり見えてくる。

キーボードを無造作に端に寄せて折り曲げた両腕の上に頭をのせている。

さらに近づく。

静まり返った室内で寝息が聞こえる範囲にきた。

そこで私は内心首を傾げた。

これ寝息?

課長の寝息がかなり激しい。けどそれはいびきではない。

どちらかというと、息切れのような――。

瞬間私はとある可能性に気が付き慌てて課長との距離を詰める。

そして完全に課長の顔が見えるところまで歩みよると、課長が寝ているのではないことが分かった。

「大丈夫ですか!?」

デスクに突っ伏した課長は荒い呼吸をして顔を真っ赤にしていた。

体調に異常があるようにしか見えない。

「――っん?」

声で私がそばに居ることに気が付いた課長は、そのタイミングで自分がデスクに突っ伏していることを自覚したらしい。ガバッと勢いよく体を起こした。

その勢いで目が眩んだのか椅子に深くもたれかかると辛そうに額を押さえる。

それでも、私に向かって言ったのは上司としての言葉。

「終わったのか。なら早く帰れ」

明らかに体調が悪いというのに、こんなときだけしっかり上司として振る舞う課長になんだかイラっとした。

「帰れ、じゃありませんよ。課長の方こそ早く帰ってください。顔が真っ赤です」

普通では有り得ない顔色をして、座っているだけなのに息を切らしている。

目を開けていることすら辛そうだ。

「俺はまだ仕事がある…」

言ってパソコンに向かう課長。

けれどもどう見ても仕事ができる状態ではない。

しかもこの様子じゃ急に出た熱じゃない。

しばらく前から体に異変があったはず。

にも関わらず、自分も含め誰も課長の体調変化に気が付かなかった。

周囲にも、そしてそれ以上に自分に厳しい人だ。

弱った姿など部下には見せるまいと、1日自分の体調の悪さを隠してきたのだろう。

ポーカーフェイスにも程がある。

課長の仕事に対する姿勢を見せつけられて私は一瞬言葉を失った。

目の前で課長はキーボードを叩いて、ディスプレイに朦朧としながら噛り付こうとしている。

このまま放っておくわけにはいかない。

「仕事は終わりです。今すぐ帰って休んで下さい」

デスクの脇に立ち強く促した。

「明日の会議の資料だ。今作らないと間に合わない」

「…明日って。そんな体調じゃ明日出勤できるわけないじゃないですか!」

「出勤するかしないかは俺が決める。川瀬が決めることじゃない」

さっさと帰れとあしらわれ、血が頭に上った。

私はデスクの脇から椅子の真横に移動し、課長の左肩を掴んで体をこちらに向けた。そして勢いに任せて真っ赤になった顔のおでこに手を当てた。

「熱過ぎです! 一課の代表として会議に出るなら万全の体調で冴えた頭でいつのも課長でいていただかないと困ります。というか、こんな状態で会議に出られたら迷惑です!」

課長は目を丸くして私を見上げた。その表情のまま唇だけが動く。

「……言ったな」

「言いました」

課長の圧力に負けないように、強く返す。

すると、課長が項垂れ肩を掴んでいた左手に一気に重みが掛かる。

「かっ課長?」

反射的に右手も逆の肩に移して力を込めて支える。

触れた課長の体は服越しでも体温が高いことが分かった。

「……悪い。――本当に申し訳ないんだが、お前の言うとおりちょっと限界だ」

意志の力で体調不良を押さえ込んでいた課長の身体は私の言葉で一気に気が抜けてしまったようで、先ほどよりもさらに呼吸が荒くなっていった。

「大丈夫ですか? 医者は……この時間じゃやっていませんね。だから、とにかく早く帰りましょう」

「……ああ」

やっと、帰ることを承諾してくれた課長に私は少し安堵する。

課長はよろよろと私から体を起こすと仕事のデータを抜き取りパソコンの電源を落とす。

荷物を纏めて立とうとすると、すぐによろめいて机に手をついた。

思わず手を出して体を支えた。

立つこともまともにできないなんて……。見ていられない。

「課長今日も徒歩出勤ですよね?」

「ああ」

「タクシー呼びますね」

「……悪い」

私は駆け足で自分の荷物を取りに行き携帯でタクシー会社に連絡する。そしてすぐさま課長のもとに戻ると自分より大きな体を支えながら会社を後にした。

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