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3 バレーボールですっきりしたのは良いものの……
しおりを挟む私たちはその後課長の突拍子もない提案に付き合うことになった。
もちろん最初はお断りした。
こんな馬鹿馬鹿しいことで勝負などしていられない。しかし、あれこれと課長と言い合っていると「敵前逃亡か。全国一位の選手が聞いて呆れるな」と言い放たれ、安い挑発に乗ってしまった。
「相手になります! 後で後悔しても知りませんから!」
気が付いた時には勢いよくそう言い放っていた。後から思い返してみれば、かなり酔っぱらっていたのは私の方だったかもしれない。
課長は話がまとまった途端にその場の全員を巻き込んで居酒屋を出ると、スポーツアトラクション施設に向かった。
道中隣にいた上原さんの話によると、ここ最近、一課の仲間内でこの施設は流行っているらしく、何度かストレス発散と運動不足解消のために足を運んでいたらしい。
「にしても、わざわざ川瀬さんを飲みに誘っておいてこの展開は何なんだろう?」
「え、どういうことですか?」
「今日川瀬さんを誘うって言い出したのは課長なんだよ」
上原さんの言葉に私は一瞬戸惑った。
けれども、すぐにならば何故あんな酷いもの言いをするのだと、怒りが倍増してやる気もそれに比例して上がった。
道中、巻き込まれた全員がかなり怪訝な顔をしていた。しかし、課長と私がやる気満々でチームを決め、絶対勝つから協力しろと熱く語っていると、体育会系で勝負事大好きな面々は段々やる気になり、施設に着くころには楽しむ気満々になっていた。
多目的用のコートにバレーのネットをセットしてもらい、ボールとサイズのあったシューズを借りる。
全員がジャケットをベンチに掛けてワイシャツの腕を捲る。
私に至ってはパンツスーツのままで念入りにストレッチまでした。
歩いて移動した分、酔いは適度に醒めてきている。
ゲームは3ゲーム先取。3人チームに別れてネットを挟んで並ぶ。
「負けても文句言わないで下さいね」
私のほうから宣戦布告してやった。ボールを持ってからよりやる気が増していて、怒りよりも興奮が強くなっていたのだ。
課長が鼻で笑って応戦する。
「男の運動神経を甘くみるなよ」
この時の私は完全に課長への敬いは無くなっており、「全国一位になった実力を見せてあげます」と言い放ってコートの中央にぷいっと歩いて行った。
全員にどう思われていようが、今の私はコートの上。お望みのようだから真剣勝負を致しましょう。
絶対に課長をギャフンと言わせてやる!
試合が始まる。
サーブ権は向こうに譲ってあげたのでまずはレシーブから。
私は本格的に構えた。
全員がその体勢に「おお」などと声を上げたが、そこは気にしない。
課長が打ったサーブが浅い弧を描いて飛んでくる。
強気の態度だっただけあって強さと正確さもあるいいサーブだった。けれども所詮は素人だ。
すかさず、私はそれをレシーブする。
「トスお願いします!」
チームメイトの上原さんにトスを上げてもらうと、ボールは良い感じに上がった。
そして、全身を使って高くジャンプ。
身体をしならせ、落ちてくるボールを思いっきり叩く。
勿論、そのボールは勢い良く課長のコートの床に叩きつけられた。
一同唖然。
そして次の瞬間に大歓声。
「スッゲー、本物だ!」
「超ジャンプ高いんじゃない!?」
「全国一位のストライカーって感じメッチャするわ!」
賞賛の声を浴びて、軽く手を挙げてそれに自慢気に答える。
そして、さり気なく課長の表情を伺った。
さぞ悔しそうな顔をしているのだろうと思ったが、何故か課長は割と穏やかな顔で苦笑いをしていた。
「次は絶対あの弾丸取るからな」
とチームメイトに声を掛けているが、どちらかといえば楽しげだ。
少し調子が狂ったが、それでも私は勝負に徹した。売られた喧嘩は最後まで消化するタイプなので。
さすがというべきか皆運動から遠のいた生活をしているはずなのに誰もが平均以上に動けた。特に課長は30歳を越えているにも関わらず、誰よりも正確なプレーをする。運動神経の良さがすぐにわかった。
それでも相手はこの私。バレーで勝負を挑んだことを一生後悔させてやると言わんばかりに手加減なし。
これまで溜まっていた心のストレスをすべてぶつけるつもりで応戦した。
すると段々勝負云々よりも純粋に久々のバレーが楽しくなってきて、いつの間にか賭をしていたことなんて忘れてはしゃいでしまっていた。
ボールの手触り、コートを踏みしめる感覚、得点を決める毎に上がる歓声。
すべてが私の好きなもの。
何もかも忘れて集中できるそれまでの人生を捧げて来た、私の一部。
課長の健闘によりなかなか良い勝負になったが、私のアタック・バックアタック・フェイントなどの玄人プレーが見事に決まり、気が付いたときには私のチームが勝利を収めていた。
試合が終わると本気だった私と課長はスーツ姿だというのに汗だくで息を切らしていた。他の人にはまだ余裕があるようだったので、試合中に私が何度か決めていたバックアタックが羨ましくなったのか練習をしはじめる。
それを横目にベンチに腰掛けると課長もやってきてドカッと隣に座り込み背もたれに腕を回して天を仰いで呻いた。
「30を越えたオッサンにこんなハードなスポーツは堪えるな」
心底疲れた様子で、らしくないことを言うので笑ってしまった。
「オッサンだなんて。課長かなり運動神経いいじゃないですか。普通の31歳はあんなに動けないと思いますよ」
試合中の課長はかなり動いていた。レシーブやトスも上手くアタックも強かった。
何より、動いて乱れたワイシャツの中からちらっと見えたお腹がかなり引き締まっていたのには驚いた。
「今でも普段運動はされているんですか?」
「ああ、体を動かすのは昔から好きだからな。時間のあるときは仕事帰りにジムに行ったりする」
大きく息を吐きながら課長は上を指さす。
意味がわからず首を傾げると、この施設の上にあるジムに通っているらしい。
確かに仕事帰りに立ち寄るには便利な立地だ。
思いのほか体を動かすのが楽しかったので、自分も通おうかなどとぼんやり考える。
すると課長が天を仰ぐのを止めて体を屈めた。自らの膝に両肘を付き、今度は私の方に顔を向ける。
「さすがは全国一位だったな」
爽やかな笑顔を向けられて思わずドキっとする。
そしてふと今まで忘れていた事を思い出す。
以前に一課で働いていることを同期の女子に羨ましがられたことがあった。
そのとき私はこんなハードな職場のどこが良いのかと心底思ったが、理由は簡単、課長を筆頭にイケメンが多いからだそうだ。
今までそんなことを気にしたこともなかったが確かにイケメンだ。
普段はしっかりセットされた髪が今は乱れて普段より若々しく見える。くっきりした二重瞼の切れ長な目。スッと通った鼻筋に大きめの整った口とシャープな顎のライン。
そんな私の思考には気がつかず、課長は笑みを深めた。
「どうだ、運動するとスッキリするだろう」
「そうですね」
「嫌なことも忘れられるよな」
言葉が妙に胸に響く。強く頷いて応じてからはっとする。
私が言葉を発する前に課長はさらに続けた。
「気分を害するような事を随分言った。悪かった」
課長の瞳は真剣で、心からの謝罪なのだということが伝わってくる。勝負に負けたから仕方が無く言った台詞などではまったくなかった。
逆に戸惑ってしまう。
「いえ、そんな、私こそ失礼なことを沢山言いました。すいませんでしたっ」
慌ててこちらの非礼を詫びると、目元に皺を寄せて課長は楽しそうに笑った。
「女の部下とあんなやり取りしたのは初めてだな」
「本当に申し訳ありません…」
今更ながら自分の仕出かしたことを振り返って謝罪が一段階強くなる。課長が挑発したせいとはいえ、上司に向かって失礼な台詞を吐き過ぎた。
穴があったら入りたい。
課長はそんな私に気づかず再び問いかける。
「で、少しはすっきりしたか?」
課長の問いの答えを考えてみる。試合の初めの内は、課長への苛立ちをボールに込めていたが、すぐにそれは「男」への苛立ちに変換されて、最後は内心「良也のバカヤロー!」と叫んでアタックをしていたかもしれない。
そして、途中からバレーが純粋に楽しくなって勝つことに集中し出していた。
終わった今、確かに心はどこかすっきりしている。
「そうですね、なんだかすっきりした気がします」
「そうか、そりぁ良かった」
課長の態度に私はひとつの疑惑を口にした。
「…もしかして、わざと私を挑発してバレーに誘ってくれたんですか?」
「そんなわけないだろ」
課長は視線をコートに戻して急に素っ気ない態度になる。
そうだよね。私のためにこんな手の込んだことをしてくれる訳がない。
鬼課長の優しさを垣間見た気がしてちょっぴり嬉しい気分になりかけたが、それは勘違いだったらしい。私がスッキリできたのは偶然の産物だったのだ。
少し残念な気分になったところで、課長が視線をそのままにボソッと「自分のためだ」と言い捨てた。
「あれだけ泣いたにも関わらずこれ見よがしに落ち込んだ姿を見せられて、どれだけ課全体の空気が乱れたことか…」
「――えっ?」
「課の人間全員が失恋して傷心中の女子社員一人のことを気にして、大の大人がそわそわそわそわ。下手したら業績が落ちた」
「そんなこと――」
ない。と言おうとしたが言い切れなかった。
「あるな。お前はうちの唯一の女子社員だ。普段ハキハキ明るいやつが、失恋の噂をどっかの馬鹿が一課に振りまいた後にこれ見よがしに萎れた顔で入って来やがって。お前を癒やしにしていたおっさん連中は気が気じゃなかっただろうな」
「私が癒やし? まさか」
「お前が自分をどう評価してるのかは知らんが、うちの課のムードメーカーの一人は川瀬だよ。何だかんだ影響力がでかいんだ。だから来週からは前みたいにしっかり明るく元気に課を盛り上げろ」
課長からの思わぬ評価に驚き、ちょっぴり感動してしまった。
純粋なやる気が出てきた。
「はい! もう、来週からは大丈夫そうです! 今日は本当にスッキリしました! ありがとうございます!」
部下らしく課長にお礼を言い、気持ちがより一層晴れ晴れした。
ん?
そして、途端にさっき一瞬感じた違和感を思いだし、脳がそれを見つけだそうとする。
今度はとても嫌な予感に支配される。
嫌な予感が勘違いでありますようにと、恐る恐る課長の顔を窺う。
「あの…、あれだけ泣いてって」
「ああ」
課長は何かを思い出したかのような軽い返事をすると、こっちを向いて意地の悪い笑みを浮かべた。
「第一資料室の奥に映像資料室があるよな」
第一資料室というキーワードを聞いて嫌な予感は最高潮。
言葉なく頭だけで頷く。
「あそこには元々応接室に使っていたソファがある。実は俺は休日出勤すると資料を取りに行くついでにあそこで少し休憩することがある」
私はゴクリと唾を飲んだ。
「そういえばいつぞやの土曜日に、ものすごい安眠妨害にあったな」
「――――嘘っ!!」
まさか、あそこに課長がいたの!?
課長は意地悪く口の端を上げる。
「扉の前で号泣ときたら俺はどこへ行くことも出来ず、もう心配で心配で」
「えっ、でもあの時鍵は私が――」
そうだ、第一資料室自体の鍵は私が持って帰っていたし、ドアもちゃんと閉まっていたではないか。課長が中に入れるわけ――
ジャラリと音がした。
「権力者っていうのはな、色んな特権を持ってんだよ」
課長の手には近くの鞄から取り出されたキーケース。フックにかかった鍵の数は一般人のそれより明らかに多い。
ということはやっぱり――
全身から血の気が引いた。
課長は立ち上がり、上原さん達に「もう帰るぞ」と声を掛ける。
「かっ課長!」
何を言ってよいか分からなかったが、このまま話が終わったら目覚めが悪すぎる。
勢いよく自分も立ち上がって課長を見上げると、向けられたのは極上の、そして最高に悪そうな大人の笑み。
「俺とお前の秘密ってことにしといてやるよ」
私にだけ届くように囁かれた意地悪な声。
――――誰だこの人は。
人生で最大級の恥ずかしさと見知った人物の見知らぬ一面に、私はしばらくその場で立ち尽くし、混乱する頭を持て余した。
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