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第一章
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しおりを挟む第一章 1
家を出てから何度目かの赤信号で車が停止した時、ふと空の色が変わっている事に気がついた。
少しだけ体を前のめりにして空を伺ってみるも、シートベルトがカチッと作動して阻まれる。
「俺、雨が降る時はわかるんだよね」
横の運転席に座っている誠也は、自分の横の窓を半分開け顔だけ車内から外へ出した。
空気を思いっきり吸い込んだのか、肩が大きく何度か上がった。
そして、「結構降るな」と呟いてから、窓を閉めて車を発進させる。
「ふーん…」
私は半信半疑で返事を返す。
自分の膝上に乗せていた鞄の中からクリアファイルを取り出した。
この鞄で紙を持ち歩く時、いつもファイルに入れている訳でない。
ただ今回は、自発的にファイルに入れて持ってきた。
たった一枚の紙の為に、わざわざファイルを新調した程だった。
少しの皺も出来ないようにと思っての行為だったが、そのわりに、そこから紙を取り出す時の気使いはなかった。
薄っぺらい紙は、すぐにふにゃりと折れ曲がろうとする。
私はファイルを膝の上に置き、両手で紙を広げ、書かれている一文字一文字に目を向けた。
「婚姻届の書き方ってさ、よくわかんないよね」
ポツリと聞こえてきた声。
隣を見ると、誠也は前を見たまま「あ、やっぱり降ってきた」と言葉を繋ぎながら車のワイパーを動かした。
再び正面を向きなおして見ると、確かに粒上の水滴が数箇所にあった。
「なんとなくで書いてみたけど、それで大丈夫なのかな?」
誠也から疑問符で聞かれ、私は手元の紙を見ながら「どうかな」と言葉を出した。
それから、昨日の記憶を手繰り寄せてみる。
「私の友達の恵美ってわかる?」
「昨日一緒に飲んでた人でしょ?」
「そうそう」
私は頷き、再度口を開く。
「その恵美が婚姻届出した時さ、書き方の間違いがいっぱいあったみたいだけど、線引いて訂正印押せば大丈夫だったみたいだよ」
お酒の席でするような話ではない気もするが、それでも気兼ねなく聞ける存在がいるのはありがたい。
「区役所の人が、間違い全部教えてくれるって」
私は婚姻届をファイルに戻しながら、「だから大丈夫じゃない?」と疑問符で続けた。
「んー…婚姻届なのに訂正印ばっかってゆーのも、なんか縁起悪い感じすっけどな」
誠也は冗談っぽく言った。
「それは…」
私は赤線と訂正印だらけの用紙を思い浮かべ、「確かにそうだね」と呟く。
「でしょ」
少しだけ声のトーンが上がった誠也に、私は「うん」と同意した。
「出来れば完璧にして出したいけど…でも、やっぱよくわかんねーってのが本音」
「うん、そーだね」
初婚である私達は、初めてみる婚姻届の記入の仕方が無知だった。
それでも何とか文字を埋めていったが、2人分の“証人”項目は今も空欄のままだ。
「ねー。わざわざお互いの親に書いてもらわなくても、ここの証人欄って誰が書いてもいいんでしょ?」
今まさにその欄を埋めてもらいに行く車内で、もっとも相応しくない台詞を私は言った。
「恵美は友達に頼んだってよ。旦那さんは会社の上司とかに…」
そこまで続けた時、「いーじゃん」と誠也の声が被さった。
「里帰りも兼ねて行くんだから」
これを記入した際にも言われた台詞。
「どうせ俺も優香も地元一緒なんだし、1回でどっちの親の署名ももらえんだから」
そう言われると、確かにその通りではあった。
私は同意も否定もせず、顔を窓ガラスへ向けた。
そしてこれもまた誠也の言うとおり、空から降る雨の量が増していった。
誠也とは地元が同じ。
幼稚園は違ったけれど、小学校・中学校が同じの同級生。
地区は離れていたので誠也の家の場所までは知らなかったが、一緒のクラスには何度かなった事もある。
だからと言って、その頃から交際していた訳ではない。
どちらかと言えば、その頃の誠也の記憶があまりない。
たぶん隣の席になった事もあった気がするが、気のせいなような気もする。
同じ建物の中で約9年も過ごしてきたが、会話らしい会話なんて、したことがなかったようにも思う。
誠也は高校も地元の学校に入学し、自転車通学をしていたが、私は都内の高校を受験した。
そこは地元から電車で2時間掛かる場所にあったが、寮制度があったので3年間寮生活をした。
都内への憧れが半分と、親元を離れる事で周りの同級生より少しだけ大人になった優越感が半分。
そんな感情を抱えながらそれなりに楽しく高校時代を過ごし、卒業と同時に都内の会社へ就職が決まった。
なので、実家に“住む”という表現をするならば、もう10年以上前の事になる。
就職して一人暮らしも慣れてきた頃、会社の先輩に誘われた飲み会で、たまたま会ったのが誠也だった。
誠也は地元の高校を卒業した後、都内の大学へ通い、そのまま都内で就職したのだ。
最初はお互いに気がつかなかったが、話していく内に同級生だったと気が付いた。
いや、思い出したという言葉の方が正しいかも知らない。
その飲み会の時、誠也と連絡先を交換し、月に1回会っていたのが、週1回になり…と会う頻度が増えた。
今思えば、就職してから周囲に友人と呼べる人がほぼいない環境で、旧友というだけで誠也の存在が私の中で大きくなっていったんだろう。
たぶんそれは誠也にもいえる事だと思っているが、本人に直接聞いた事はない。
不意に鞄の中に入れてあるスマートフォンが鳴った。
液晶画面に表示されているのは、実家の番号。
私は通話を押し、耳へと運んだ後で「はい」と声を届けた。
『あ、優香?今日こっちに来るんでしょ?』
母は私が返事をする前に『駅まで迎え行くわよ』とたたみ掛けるように続けた。
『何時着なの?』
「迎えは大丈夫。今日は車だから」
『車?』
母は何処か不満を交えた声で、『あら、東京じゃ車なんていらないって言ってたのに、結局買ったのね?』と漏らす。
「違うよ。レンタカー借りた。また着きそうになったら電話する」
母の『はいはい』という言葉を聞き、私は耳からスマホを離した。
「お義母さん?」
誠也の問いに、私は「そう」と短い返事をする。
「お義母さんに対する優香の態度、素っ気ないよね」
「素っ気なくしないと、お母さんずっと喋り続けるもん」
私はスマホを鞄にしまいながら、「今から行くのにさ」とため息交じりに呟く。
高層ビルが並ぶ都市から比べ、序々に道路沿いの建物が低くなってくる。
緑が増えてくる。
視界の中の、空の面積も増えてくる。
少しずつだけど確実に変化していく景色と同様、私の心も昔に戻るようだった。
一ヶ月ぶりの実家は、前に来た時と何も変わっていなかった。
その時も、誠也と一緒に来た。
両家の親を交えての顔合わせという名目だったが、私達の知らない所で母親同士は顔見知りだったらしい。
“小学校だか中学校だかのPTAの役員が一緒だった”…とか、“運動会の役員が一緒だった”とか…。
何かは忘れたけど、初対面という訳ではなかったようだ。
恋人の親同士というよりも、同級生の親同士。
やはり親たちの原点はそこのようで、他愛無い話をする母親達の姿を見て、私は授業参観を思い出した程だった。
流石に父親同士は初対面みたいだったが、私が思っていた結婚の堅苦しいイメージとはほど遠く、単なる飲み会になっていた。
私達の今後についてよりも、会話の大半が昔話で占めていたのもそう感じた理由だと思う。
だけど、気まずい雰囲気になるよりはましだった。
そう、帰りに誠也と笑い合った。
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