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第六章 勝利の朝
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優しかった夫の苦渋の決断も、今の紗矢歌に汲み取れる訳はない。一気に現実のものとなった自らの破滅におののきながら、紗矢歌はその美しい顔を醜悪に歪ませ、自分を売った夫を狂ったように罵る。
そんな紗矢歌の様子を、尚毅は冷笑して見物していた。
尚毅に言わせれば、自分と不倫し、夫と共同経営の会社オフィス内で犯罪劇場を主催しておきながら、何故、夫に許されると考えられるのか。この女の思考回路が不思議で仕方がなかった。
何にしろ終わりの時は訪れた、予定通り逃げるとしよう。尚毅は物憂げにコートを羽織る。
オフィスのクローゼットに掛けられていたそのコートは、皮肉にも、寛嗣から、妻がいつも世話になっている礼だと言って贈られた品だった。しかし尚毅にとっては、何着も持っているハイブランド製のうちの一着という認識しかなかった。
「ヘリ来てるよね、すぐ飛べるようにしておいて」
寛嗣が協力したとはいえ、これだけの規模で警察が乗り込んできたということは、警察側に自分を売った者がいたのだろうと、尚毅は悟った。おそらくそれが側近の伊武であることも。
今思えば、伊武がインフルエンザに罹患り、倒れて入院したというのも、警察に言わされた嘘だったに違いない。
腹心の裏切りに、尚毅は焦げ付くほどの苛立ちを感じた。
しかし長年つきあってきた仲間の翻意も、元より使えない玩具が壊れただけだ、としか感じられない尚毅には、それ以上の感情をもたらすことはなかった。
伊武の代わりに侍らせた別の仲間は、伊武より格段に使えない男だった。
警察の来襲で、普段から洗練されているとはとても言えない動作が、さらにおたおたと鈍くなっている。
震えているのか、覚束ない手つきで屋上のヘリポートに連絡を取るのを横目に見ながら、尚毅は、すでに正気を失いかけているかつての恋人に、一応声を掛けた。
「紗矢さん、俺逃げるけど、紗矢さんどうする?」
あり得ないほど淡々とした態度の尚毅に、紗矢歌はさらに狂気を炎上させた。
「逃げるってどこによ? どこに逃げられるっていうのッ……なんであたしがこんな……ッ」
掴みかかってきた腕を乱暴に振り払う。
床に転がった紗矢歌に、尚毅はにこやかな笑顔を向けた。
「そ。一緒に来ないならもういいよ。じゃあね紗矢さん」
紗矢歌の絶叫を背に、尚毅は、部屋を後にした。
仲間が小走りで尚毅の後を追う。
「……宮嶋教授はどうしましょう?」
宮嶋は、階下の出来事など全く気付かず、『劇場』で最後のお楽しみ中だ。
「放っておけば?」
事がこうなれば、客が逮捕されようと知ったことではない。
屋上へ向かうべく、フロア脇の通路に出ようとしたまさにその時、仲間の端末に警告が入った。
「尚毅さん! 三十階エレベーター前のドアが故障しました! 今警備が警察と銃撃戦に入ったそうです」
「はあ? なんだよ故障って?」
「あ、いえ、故障かどうかはわかりませんが……操作を受け付けなくなったと……え? 何だって? 通信が?……照明……?」
更なる連絡に焦る仲間の耳から、尚毅は端末をもぎ取った。
「何? ちゃんと説明してよ。何が起こってるの?」
警備室の担当者もパニックに陥っているのか、全く要領を得ない。いや、報告も忘れて室内で叫びあっているようだ。
ようやく尚毅の方へ向けられた声は、焦りに上擦っていた。
「……三十階の警備員が全員戦闘不能にされましたッ……!」
「何それ……あんたたちプロでしょ? たかが日本の警察相手に何やってんの」
尚毅は、心底軽蔑する目つきで舌打ちした。高額の報酬で雇った非合法の戦闘員が、まさかトウガラシ爆弾で一掃されるとは。尚毅も、そして雇われた男たち自身も、夢にも思わなかったことだろう。
苛々と床を蹴り、尚毅は怒鳴る。
「三十一階は死守してよ。ヘリポートは大丈夫なんだろうね?」
屋上のヘリポートへは、ここ三十一階から昇るしかない。
下層階から通じる非常階段は、普段から三十一階手前で分厚い扉が閉じられ通行不能であり、今は、二十九階の手前の防火扉も固く閉じられているはずだ。
しかし、先程のエレベーターホール扉の故障が気になる。嫌な予感がした尚毅は、軽く舌打ちして警備室に問うた。
「非常階段の扉は機能してんの?」
「……あ、はい! 下層階から非常階段経由で来た警官共には、足止めを食らわせてます」
混乱のざわめきをバックに、やや落ち着きを取り戻した声が返ってきた。
非常階段の扉が機能しているなら、侵入者たちを恐れることはない。。
尚毅は、エレベーターホールに横目で視線を遣った。六人の男たちが、昇ってくる警察に対して臨戦態勢を取っている。
「払った契約金分はちゃんと働いてよ?」
自らを護ってくれる男たちにそう捨て台詞を残し、屋上へ至る階段に足を掛けようとした。
その瞬間、低い機械音とともに、エレベーターホールとフロアの間に設置された防御扉が閉まりはじめた。
「はあぁっ?」
間抜けな声を上げたのは尚毅、そしてホールに残された銃を構えた警備の男たちだ。
男たちが扉に取り付き、閉まるのを阻止しようとする。だがVIPたちを守るためにと、無駄に重厚に造られた金属製の扉の勢いには勝てなかった。
左右の扉はあっさりと、三十一階の戦闘員を、全員、エレベーターホールに閉じこめたのだった。
ほぼ同時に、非常階段の扉が開く音がした。
何人かの足音と指示を飛ばす声がする。非常階段経由で三十一階へとやってきた、市野瀬たちの別働隊だ。
「なんだよあれ! 奴らは足止め食らってるんじゃなかったの?」
ぶち切れた尚毅は、血走った目で仲間の男を怒鳴りつけた。
怒鳴られた男は想定外の事態に呆然と立ちすくんでいる。そして警備室にいる者も、信じられない光景に目を疑っていた。何故なら警備室のモニターには、二十八階から二十九階に至る非常階段で、目の前の防火扉に為すすべもなく、呆然と立ちすくむ捜査員たちの姿が、今も映し出されているのだから。
そんな紗矢歌の様子を、尚毅は冷笑して見物していた。
尚毅に言わせれば、自分と不倫し、夫と共同経営の会社オフィス内で犯罪劇場を主催しておきながら、何故、夫に許されると考えられるのか。この女の思考回路が不思議で仕方がなかった。
何にしろ終わりの時は訪れた、予定通り逃げるとしよう。尚毅は物憂げにコートを羽織る。
オフィスのクローゼットに掛けられていたそのコートは、皮肉にも、寛嗣から、妻がいつも世話になっている礼だと言って贈られた品だった。しかし尚毅にとっては、何着も持っているハイブランド製のうちの一着という認識しかなかった。
「ヘリ来てるよね、すぐ飛べるようにしておいて」
寛嗣が協力したとはいえ、これだけの規模で警察が乗り込んできたということは、警察側に自分を売った者がいたのだろうと、尚毅は悟った。おそらくそれが側近の伊武であることも。
今思えば、伊武がインフルエンザに罹患り、倒れて入院したというのも、警察に言わされた嘘だったに違いない。
腹心の裏切りに、尚毅は焦げ付くほどの苛立ちを感じた。
しかし長年つきあってきた仲間の翻意も、元より使えない玩具が壊れただけだ、としか感じられない尚毅には、それ以上の感情をもたらすことはなかった。
伊武の代わりに侍らせた別の仲間は、伊武より格段に使えない男だった。
警察の来襲で、普段から洗練されているとはとても言えない動作が、さらにおたおたと鈍くなっている。
震えているのか、覚束ない手つきで屋上のヘリポートに連絡を取るのを横目に見ながら、尚毅は、すでに正気を失いかけているかつての恋人に、一応声を掛けた。
「紗矢さん、俺逃げるけど、紗矢さんどうする?」
あり得ないほど淡々とした態度の尚毅に、紗矢歌はさらに狂気を炎上させた。
「逃げるってどこによ? どこに逃げられるっていうのッ……なんであたしがこんな……ッ」
掴みかかってきた腕を乱暴に振り払う。
床に転がった紗矢歌に、尚毅はにこやかな笑顔を向けた。
「そ。一緒に来ないならもういいよ。じゃあね紗矢さん」
紗矢歌の絶叫を背に、尚毅は、部屋を後にした。
仲間が小走りで尚毅の後を追う。
「……宮嶋教授はどうしましょう?」
宮嶋は、階下の出来事など全く気付かず、『劇場』で最後のお楽しみ中だ。
「放っておけば?」
事がこうなれば、客が逮捕されようと知ったことではない。
屋上へ向かうべく、フロア脇の通路に出ようとしたまさにその時、仲間の端末に警告が入った。
「尚毅さん! 三十階エレベーター前のドアが故障しました! 今警備が警察と銃撃戦に入ったそうです」
「はあ? なんだよ故障って?」
「あ、いえ、故障かどうかはわかりませんが……操作を受け付けなくなったと……え? 何だって? 通信が?……照明……?」
更なる連絡に焦る仲間の耳から、尚毅は端末をもぎ取った。
「何? ちゃんと説明してよ。何が起こってるの?」
警備室の担当者もパニックに陥っているのか、全く要領を得ない。いや、報告も忘れて室内で叫びあっているようだ。
ようやく尚毅の方へ向けられた声は、焦りに上擦っていた。
「……三十階の警備員が全員戦闘不能にされましたッ……!」
「何それ……あんたたちプロでしょ? たかが日本の警察相手に何やってんの」
尚毅は、心底軽蔑する目つきで舌打ちした。高額の報酬で雇った非合法の戦闘員が、まさかトウガラシ爆弾で一掃されるとは。尚毅も、そして雇われた男たち自身も、夢にも思わなかったことだろう。
苛々と床を蹴り、尚毅は怒鳴る。
「三十一階は死守してよ。ヘリポートは大丈夫なんだろうね?」
屋上のヘリポートへは、ここ三十一階から昇るしかない。
下層階から通じる非常階段は、普段から三十一階手前で分厚い扉が閉じられ通行不能であり、今は、二十九階の手前の防火扉も固く閉じられているはずだ。
しかし、先程のエレベーターホール扉の故障が気になる。嫌な予感がした尚毅は、軽く舌打ちして警備室に問うた。
「非常階段の扉は機能してんの?」
「……あ、はい! 下層階から非常階段経由で来た警官共には、足止めを食らわせてます」
混乱のざわめきをバックに、やや落ち着きを取り戻した声が返ってきた。
非常階段の扉が機能しているなら、侵入者たちを恐れることはない。。
尚毅は、エレベーターホールに横目で視線を遣った。六人の男たちが、昇ってくる警察に対して臨戦態勢を取っている。
「払った契約金分はちゃんと働いてよ?」
自らを護ってくれる男たちにそう捨て台詞を残し、屋上へ至る階段に足を掛けようとした。
その瞬間、低い機械音とともに、エレベーターホールとフロアの間に設置された防御扉が閉まりはじめた。
「はあぁっ?」
間抜けな声を上げたのは尚毅、そしてホールに残された銃を構えた警備の男たちだ。
男たちが扉に取り付き、閉まるのを阻止しようとする。だがVIPたちを守るためにと、無駄に重厚に造られた金属製の扉の勢いには勝てなかった。
左右の扉はあっさりと、三十一階の戦闘員を、全員、エレベーターホールに閉じこめたのだった。
ほぼ同時に、非常階段の扉が開く音がした。
何人かの足音と指示を飛ばす声がする。非常階段経由で三十一階へとやってきた、市野瀬たちの別働隊だ。
「なんだよあれ! 奴らは足止め食らってるんじゃなかったの?」
ぶち切れた尚毅は、血走った目で仲間の男を怒鳴りつけた。
怒鳴られた男は想定外の事態に呆然と立ちすくんでいる。そして警備室にいる者も、信じられない光景に目を疑っていた。何故なら警備室のモニターには、二十八階から二十九階に至る非常階段で、目の前の防火扉に為すすべもなく、呆然と立ちすくむ捜査員たちの姿が、今も映し出されているのだから。
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