モリウサギ

高村渚

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第六章 勝利の朝

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 ほとんど一瞬に四つ聞こえた、やや鈍い破裂音。
 程なくして四人の男たちの、世にも情けない悲鳴が上がった。
 ふいに照明が生き返る。捜査員たちは明順応に未だぼやける目を擦りながら、何が起こったのかとデスクから身を乗り出す。
 そこで彼らが見たものは、ひいひいと泣き叫び、身を悶えさせながら、両手で顔を覆い転がる四人の男たちだった。
「……何だあ?」
 恭士が慎重に立ち上がる。
 しかし反撃の心配はなかった。男たちを襲った物体の中身は、男たちの意思を、完膚なきまでに奪い去っていたのである。
「あ、倉田さん、捜査員のみなさんも。警備のみなさんのお顔付近にあまり近づかないほうよいですよ? 
 カプサイシンたっぷり、ハバネロエキス入りのカプセルをプレゼントさせていただきました。
 ごく少量なら美味しくいただけますが、大量にお顔付近に使用するのはおすすめしません、結果はご覧のとおりです」
 成程、ご覧のとおりだった。いかに訓練を受けた屈強な男たちでも、そんなものが目に入ればもう戦闘どころではない。
 恭士と、その隣から男たちをのぞき込んだ捜査員が、床でのたうち回る男たちに憐れみの眼差しを向ける。
 カプサイシンが飛散したわけでもないのに、那臣ともおみは、思わず片手で顔を覆って、がっくりと肩を落とした。深すぎる溜息を吐き出し、ちらりと気配のあるデスクをにらむ。
 デスクの陰から小さな手だけが現れ、ひらひらと応えていた。
 まがりなりにも銃器禁止を真面目に遵守しているのだろう。相棒の酔狂すぎる必殺技であったが、いつまでも頭を抱えているわけにもいくまい。首を振ってエレベーターホールへと足を向けた。
 そこへ古閑から、支援情報が飛んでくる。
「三十一階にも銃持った奴らがお出迎えだ。トカレフが四人。あと二人は、なんとMP5ときたもんだ」
「おいおい、マシンガンとかまじかよ、マトモに相手したら蜂の巣にされるぞ。
 どうする那臣」
 このままエレベーターを使って被害者の監禁されている三十一階へ向かえば、敵のいい的となるだけだ。
 頭に入れたフロアの設計図を思い浮かべ、古閑に尋ねてみた。
「古閑さん、その六人の位置を正確に教えてもらえますか?」
 男たちの立つ位置を聞き取って、那臣はデスクの陰に隠れた相棒に、聞こえよがしに策を語る。
「これは……そうだな、相手にしないほうがよさそうだ。なあ?」
 再び小さな手が現れて、了解のサインを送ってきた。


  二十九階の異変は、三十一階のオフィスにいた尚毅と紗矢歌にもすぐに伝わった。
 夫である寛嗣が警察を引き連れて現れたことに、紗矢歌は殊更青ざめ、震えが止まらなかった。
 ミッドロケーションプランニングは、もともと四谷に本社ビルがあり、事業拡大とともに手狭になったため、この新宿都庁近くに新社屋を建築し移転してきた。
 だが社長の寛嗣は、四谷の旧社屋に深い愛着を抱いていて、本社機能移転後も古参の社員らとともに、四谷の旧社屋を主な拠点として活動していたのだ。
「若い社員の仕事を年寄りが邪魔しちゃいけないよね」
 そうおどけて笑ってみせた寛嗣は、事実ほとんどこの新宿MLビルのオフィスには顔を見せなかった。もっとも通常の用件ならメールとチャットで事は足りるし、地球の裏側とでも、なんなら衛星軌道上の宇宙ステーションとでもモニター越しに会話できる時代である。仕事にはなんの支障もなかった。
 そしてMLビルのオフィスの社員たちを指揮する紗矢歌に、一人でじっくりとアイディアを練るため、そして気の合う仲間を接待するため必要なのだとねだられ、三十一階フロアはすべて紗矢歌が好きに使うようにと言ってくれた。
 寛嗣は紗矢歌を、優秀なビジネスパートナーとして全幅の信頼を置き、また、愛する妻として相当甘やかしていた。
 年齢差があることを寛嗣が引け目に感じていたことも、紗矢歌はよく知っていた。
 だからこそ、紗矢歌がプライベートとして線を引いている部分には決して踏み込んでこないと、たかをくくっていたのだ。


「ミッドロケーションプランニングのオフィス部分……二十九階から三十一階のうち、最上階三十一階については、奥さん個人のスペースにされているようですが、立ち入られたことはありますか」
 四谷のオフィス前で突然、警視庁の参事官という名刺を携えた男に呼び止められた寛嗣は、それでも丁重に、那臣に対応した。
 二言三言交わす他愛ない挨拶にも、謙虚で誠実な人柄が見て取れる。しかし那臣の質問に答えるうちに、寛嗣は、床の一点に視線を落としたまま動けなくなった。
 客が紗矢歌のプライベートフロアである三十一階へ向かう場合、二十九階、三十階のオフィス部分を通過し、三十階エレベーターホールからエレベーターに乗る。
 地下駐車場からの直通エレベーターーも終着点は三十階で、いずれにしろ一度は三十階エレベーターホールを通過せねばならない。
 客は当然、一般の社員の目に触れる機会もある。
 頻繁に出入りする尚毅の姿を、ただのVIP客でなく紗矢歌の不倫相手と捉えて、夫である寛嗣にそっと進言するものもあったのだろう。
 薄々気付いていた疑惑が、さらに悪い現実であるかもしれないことに、寛嗣は顔を苦悩に歪め、重く苦い溜息を吐き出した。
「やはり妻と尚毅君は……いえ、いえ。警察の方がいらしているということは、問題は妻の浮気などではないのでしょう……我が社のオフィスで、妻と彼、尚毅君によって、何か犯罪行為が行われている、そうなんですね?」
 深刻な様子で、全身で戸惑いに向き合う寛嗣に、那臣は静かに告げた。
「現段階では共犯者の証言しかありません。もしかしてMLビルの三十一階には全く何の問題もないのかもしれない。
 ですが今、河原崎尚毅に対していくつかの犯罪の嫌疑がかけられています。
 犯罪の実行犯に対する指示を、あなたの会社のオフィスから出している形跡もある。
 そして社内には奥さんの指示を受けて動いている社員がいるはずです。残念ですがその者が、尚毅の行動について、全く何も知らないはずはない」
 妻をまるで教祖のように盲信する部下の顔が頭をよぎった。彼なら紗矢歌の命令を、なんの疑いもなく聞き入れるに違いない。
 寛嗣は、のろりと顔を上げた。蒼白な頬は、一瞬で何歳も老けたように艶を失っていた。
 困惑と怯えがあふれ、悲壮な色をたたえた瞳が、那臣に向けられた。
「……私は、どうすればいいんでしょうか」
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