モリウサギ

高村渚

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第六章 勝利の朝

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 「あれ? 鈴木さんどうしたのこんな時間に」
 現場主任の男にいきなり声を掛けられて、鈴木次郎こと古閑こが正太郎は、びくりと肩を震わせた。
 慣れない作業を控えて緊張していたせいか、呑気に近づいてきた一般人にも気付かないとは。
 内心で己を叱りつけて、ややひきつった作り笑顔で振り返る。
「ああ主任さん、すいませんねえ。時間外に事務所に入り込んじまって」
「いやそんなことはいいけど。びっくりしたよ、誰もいないと思ったのに。鈴木さん、今日シフトじゃないよね」
 特にとがめる様子もなく、主任は、持ってきたファイルを棚に仕舞う。
 そして古閑の手元に置かれた、派手なデザインの袋に目をった。
「あれ、もしかしてそれ買いに来たの? 三階の店のでしょ。 何個だかの限定で凄く並んでたらしいじゃない? よく手に入ったね」
 言い訳のため用意していた設定を、上司が先に、ほぼ全て言ってくれたので、古閑はほっと胸をなで下ろして続きの台詞を喋った。
「……遠くにいる親類の子どもに、どうしてもって頼まれちまって……慣れない行列に並ぶもんじゃあないですね。疲れっちまいまして……ご迷惑かと思いましたが、事務所でちょいと休ませてもらおうかとね」
「ははは、そりゃあお疲れさん。ゆっくりしてっていいよ」
 じゃあね、と、笑顔を向けて、主任の男が事務所を出て行った。
 古閑は冷や汗の滲んだ額をぴしゃりと打つ。
「さて、と」
 事務所の片隅、掃除道具の入ったびたロッカーに埋もれるように、社員たちの勤務管理に使用するための、旧式のPCが置かれていた。
 そのPCの前に立ち、気合いを入れて腕をまくる。
 古閑は、主任が目にした、テナントの有名雑貨店の袋にそっと手を入れた。ひやりと重い金属の感触に、古閑はまた、ぶるりと身震いした。

  
 夜なおまぶしい白いヘッドライトの河を脇に逸れ、宮島教授を乗せたタクシーが新宿MLビル脇の道路に停止した。
 彼は車を降りて、商業施設入り口からビルに入っていく。
 午後八時四十七分。ビル周辺に配置された捜査員たちに、緊張が走った。
 施設内の捜査員が、尾行を開始する。
 フロア中央のエスカレーターに乗って七階レストランフロアに降り立った宮島教授は、ディナータイムの客の波に逆らって人気のないフロア奥に向かうと、やや落ちつきなく周囲を見回し、上層階オフィスフロアと共用となっている階段を登り始めた。
 ふたつ階を昇って、九階でオフィスフロアへと出る。
 そのまま、数社のオフィスがテナントに入っているフロアを、足早に抜けていった。
 地階商業施設の出口に、カップルを装って張り込んだ捜査員が、エレベーターの作動を確認し仲間たちに合図を送る。
 オフィス階用のエレベーターホールに続く地下街入り口近くには、三十一階へ突入するため構成された数個の班が待機している。また、オフィス階用の非常階段前にも、十数名の捜査員が同じく配置されていた。
 以前みはやが探り出してきたとおり、MLビルの上層階へと通じるルートには、蟻が這い入る隙もない間隔で監視カメラが設置されていた。類似の地下街、オフィスビルとしては異常ともいえる。
 さらに、ミッドロケーションプランニングのオフィスには、ビル全体のそれとは別に、専属の警備員が雇われており、十七階には彼らが詰めるための警備室も存在していた。監視カメラの映像などはその警備室で厳重に監視されているはずだ。
 そして今日は『イベント開催日』のためだろうか、通常の日と比べて何倍もの警備員が出勤していることが確認されていた。
 警備室にこちらの動きを悟られては突入の邪魔をされるおそれがある。
 この突入計画に参加する捜査員たちは、河原崎派の人間を念入りに除外して構成された精鋭部隊だ。今のところ、情報が河原崎派に漏れている形跡はない。このまま絶対に計画を遂行させねばならないのだ。
 エレベーターホールの責任者を任された恭士は、部下の捜査員たちを慎重に配置し、その時を待っていた。
 じりじりと肌を灼く緊張感。
 地下街に流れるゆったりしたテンポのレット・イット・スノーが軽快なジングル・ベルに変わったその瞬間、ふいに肩をぽんと叩かれ、恭士の心拍数が跳ね上がった。
 ばくばくと耳を打つ鼓動をなだめながら振り返る。
 緊迫した状況にもいつも全く動じない、肝の据わった後輩が、その頼もしい笑顔で背後に立っていた。
「……お前なあ……俺はマル対じゃねえっつの、気配殺して近づくんじゃねえ」
 突入前で、緊張が最高潮に達していた恭士である。那臣に向けられた責めるような目つきには、半分以上の本気が混じっていた。那臣は苦笑して軽く頭を下げる。
「すみません、遅くなりまして」
 長身の那臣の陰から、ゆっくりとこちらへ歩み寄る人物の姿があった。
 恭士は僅かに驚きの含まれた視線を、その人物、そして那臣に向ける。
「……まさか本当に連れてくるとなあ」
 事前に説明された作戦通りとはいえ、彼が状況に納得し、作戦の切り札となってくれるかは、かなりの賭けであったはずだ。
 那臣も片頬にほろ苦いものを浮かべ、頷いてみせる。
「ええ、本当に。よく協力してくださったと思います。彼のためにも、絶対に成功させないと」
 午後九時、最終上演のベルが鳴る。
 それは、河原崎親子の牙城突入の合図となった。
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