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第五章 刑事たち、追い詰める
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新宿MLビル三十階にあるミッドロケーションプランニングのオフィスの一角に、観葉植物と洒落た格子細工のパーテイションで仕切られたオーナーブースがある。
会社の共同代表の一人である緑川紗矢歌のために設けられた空間で、紗矢歌が利用するデスクと、彼女を囲んで少人数でミーティングをするためのテーブルが置かれており、最も奥まった位置には、最上階の彼女のプライベートオフィスへ昇るエレベーターの設置されたホールがあった。
社員の一人の女性がブースへとやってきた。
先刻のミーティングのときに、テーブルにペンを置き忘れたようなのだ。いつものようにパーテイションの手前でノックの代わりに声をかけ、足を踏み入れる。
デスクに紗矢歌の姿はない。
午後九時二十分、フレックスタイムを利用している社員たちもそろそろ退社する時間だ。紗矢歌ももう帰ってしまったのかもしれない。
見るともなしに奥に目を遣ると、二人の男の姿があった。
一人はエレベーターホール前に常駐しているガードマンだ。
三十一階、紗矢歌のプライベートオフィスに通じる奥のエレベーターホールへは、許可された社員の認証がないと入れず、エレベーター自体も動かないのだと聞いている。なのにさらに警備の人員を配置するのは大げさではないかと感じたこともあった。
しかし、情報漏洩が会社の命運を左右する時代だ。
紗矢歌のビジネスのアイディアは独創性が高く、オープンになるまでは絶対に秘密にせねばならないプロジェクトも少なくない。念には念を入れることも必要なのだろうと理解していた。
そしてもう一人の男にも見覚えがあった。
紗矢歌の親戚にあたるという青年だ。
まだ学生の身分ながら、優れたアイディアを生み出す人材で、紗矢歌がその才能を重用し、たびたび助言を得ているのだという。
その青年がちらりとこちらに目を遣る。社員の女性の姿を認めて笑ってみせた。
彼女も内心の微かな動揺を押さえて会釈を返す。ガードマンがホールへのゲートを開き、二人はエレベーターホールへと姿を消した。
僅か数秒の間に何故か身体が強ばった感じを覚えて、ブースに残された女性は大きく息を吸い込んで、吐き出した。
どうもあの青年は苦手だ、と、彼女は思った。
話したこともない相手に、そんな感情を抱くのもおかしな話だ。
「……でも、なんか怖いのよね」
呟いてみて素直に納得する。
彼は、怖いのだ。
三十一階の一角に設えられた尚毅のオフィスは、つい数日前までの落ち着いた内装とはうってかわって、白い壁に鮮やかな海の青のタイルがちりばめられ、デスクやソファーも、白を基調としたリゾート地のカフェを思わせるデザインで揃えられていた。
尚毅は、全裸のままソファーにだらしなく転がって、スマホの画面を眺めていた。
すぐ横のシャワーブースで紗矢歌がシャワーを使う水音が、微かに響いてくる。
今夜はこのオフィスで待ち合わせて、ホテルのレストランへ向かう予定だったのだが、ソファーでじゃれあっていて、ついそのまま事に及んでしまった。行為の後の気怠い恍惚感のまま、なんとなくスマホを弄ぶ。
すると音声通話の着信があった。
画面のアイコンで相手を確認すると、尚毅は露骨に顔をしかめて舌打ちした。
声を聞きたくはないが、仕方なく通話のアイコンをタップする。
「樋口先生からクレームが入ったぞ、お前がちゃんと部下を躾けておかないから、俺が迷惑を被る」
名乗りもせずいきなり文句を浴びせられ、尚毅もほとんど殺気を漂わせて返した。
「俺は、ミスにはそれなりの処分をきちんと与えて教育してるよ。まともに仕事出来てないのは、あんたの部下じゃないの?」
電話の向こうでは、親にあんたとは何事だ、と憤る声がする。尚毅はスマホをソファーに放ったまま適当に流して起きあがり、脱ぎ捨てたシャツを肩に引っかけた。
とうに滅んだ化石のような価値観を振りかざし、粗暴粗野と剛腕剛胆の区別もつかない輩と付き合うのは、血のつながった親子とはいえ疲れるものだ。
だが、ビジネスの種として勇毅がもたらす人脈や資金は、それなりに価値があると、尚毅は思っていた。
もっとも勇毅に言わせれば、親である自分を、権力と金が無限になる木としか見ていない尚毅は、いまいましく疎ましい存在であった。
だが、いがみ合い憎しみ合いこそする二人には、共通した価値観があった。
他者は、利用するものなのだ。
強者は、弱者をどのように利用してもよいのだ。
生命も財産も尊厳も。それが彼らにとって世界の摂理であった。
水音が止んだ。紗矢歌がシャワーを浴び終えたようだ。
尚毅は再びソファーに転がると、面倒くさそうにスマホを拾い上げた。
「まあいいよ、あんたの不始末もまとめて処分しておくから。それでいいんでしょ?」
警視庁本庁舎から徒歩十数分、東京駅丸の内中央口前の一等地に、陽光ホールディングの本社ビルはその偉容を誇っていた。
戦後まもなく建造された旧社屋から、丸の内再開発計画の一環として、つい最近建て替えられたばかりの新しいビルだ。
初代社屋建築当時のそれを模してデザインされたという、煉瓦と大理石を組み合わせた重厚な造りの低層階には、老舗のカフェと美術ギャラリー、そして音楽ホールが入り、上層階はシンプルでソリッドな外観のオフィスとなっている。
「たまに前を通りはするが、中に入ろうとは思ったこともねえな……この前のホテルといい、どうにも庶民には近寄りがたいというか、そもそも用事がねえしなあ」
午後の日差しを受けてそびえ立つ建物を、やや眩しげに眺めてみる。
同じ東京駅近くでも、官庁街の人々には、宮仕え同士それなりの親近感がなくはない。
しかし、仕立ての良さそうな洒落たスーツを着こなし、億単位の金を操る、超のつく大企業に勤める人々は、どこか別世界の住人に思えてしまう。
「そうですか? こちらのカフェ、スルガ珈琲店のパンケーキは超有名なんですよ? 東京駅近インスタ映えスイーツ、堂々三位ランクイン。女子なら一度は訪れたいスポットです。
ちなみにパンケーキはトッピングなしのプレーンが千三百円、オリジナルのカップ&ソーサーでいただくスルガブレンドコーヒーは七百円です。
SNSでいいねを買うなら、海外絶景スポットと比べて、庶民女子でも十分手の届く投資の部類かと」
渋さを増した顔の名波を促し、みはやはカフェの扉を開けた。那臣は苦笑しつつ後に続く。
会社の共同代表の一人である緑川紗矢歌のために設けられた空間で、紗矢歌が利用するデスクと、彼女を囲んで少人数でミーティングをするためのテーブルが置かれており、最も奥まった位置には、最上階の彼女のプライベートオフィスへ昇るエレベーターの設置されたホールがあった。
社員の一人の女性がブースへとやってきた。
先刻のミーティングのときに、テーブルにペンを置き忘れたようなのだ。いつものようにパーテイションの手前でノックの代わりに声をかけ、足を踏み入れる。
デスクに紗矢歌の姿はない。
午後九時二十分、フレックスタイムを利用している社員たちもそろそろ退社する時間だ。紗矢歌ももう帰ってしまったのかもしれない。
見るともなしに奥に目を遣ると、二人の男の姿があった。
一人はエレベーターホール前に常駐しているガードマンだ。
三十一階、紗矢歌のプライベートオフィスに通じる奥のエレベーターホールへは、許可された社員の認証がないと入れず、エレベーター自体も動かないのだと聞いている。なのにさらに警備の人員を配置するのは大げさではないかと感じたこともあった。
しかし、情報漏洩が会社の命運を左右する時代だ。
紗矢歌のビジネスのアイディアは独創性が高く、オープンになるまでは絶対に秘密にせねばならないプロジェクトも少なくない。念には念を入れることも必要なのだろうと理解していた。
そしてもう一人の男にも見覚えがあった。
紗矢歌の親戚にあたるという青年だ。
まだ学生の身分ながら、優れたアイディアを生み出す人材で、紗矢歌がその才能を重用し、たびたび助言を得ているのだという。
その青年がちらりとこちらに目を遣る。社員の女性の姿を認めて笑ってみせた。
彼女も内心の微かな動揺を押さえて会釈を返す。ガードマンがホールへのゲートを開き、二人はエレベーターホールへと姿を消した。
僅か数秒の間に何故か身体が強ばった感じを覚えて、ブースに残された女性は大きく息を吸い込んで、吐き出した。
どうもあの青年は苦手だ、と、彼女は思った。
話したこともない相手に、そんな感情を抱くのもおかしな話だ。
「……でも、なんか怖いのよね」
呟いてみて素直に納得する。
彼は、怖いのだ。
三十一階の一角に設えられた尚毅のオフィスは、つい数日前までの落ち着いた内装とはうってかわって、白い壁に鮮やかな海の青のタイルがちりばめられ、デスクやソファーも、白を基調としたリゾート地のカフェを思わせるデザインで揃えられていた。
尚毅は、全裸のままソファーにだらしなく転がって、スマホの画面を眺めていた。
すぐ横のシャワーブースで紗矢歌がシャワーを使う水音が、微かに響いてくる。
今夜はこのオフィスで待ち合わせて、ホテルのレストランへ向かう予定だったのだが、ソファーでじゃれあっていて、ついそのまま事に及んでしまった。行為の後の気怠い恍惚感のまま、なんとなくスマホを弄ぶ。
すると音声通話の着信があった。
画面のアイコンで相手を確認すると、尚毅は露骨に顔をしかめて舌打ちした。
声を聞きたくはないが、仕方なく通話のアイコンをタップする。
「樋口先生からクレームが入ったぞ、お前がちゃんと部下を躾けておかないから、俺が迷惑を被る」
名乗りもせずいきなり文句を浴びせられ、尚毅もほとんど殺気を漂わせて返した。
「俺は、ミスにはそれなりの処分をきちんと与えて教育してるよ。まともに仕事出来てないのは、あんたの部下じゃないの?」
電話の向こうでは、親にあんたとは何事だ、と憤る声がする。尚毅はスマホをソファーに放ったまま適当に流して起きあがり、脱ぎ捨てたシャツを肩に引っかけた。
とうに滅んだ化石のような価値観を振りかざし、粗暴粗野と剛腕剛胆の区別もつかない輩と付き合うのは、血のつながった親子とはいえ疲れるものだ。
だが、ビジネスの種として勇毅がもたらす人脈や資金は、それなりに価値があると、尚毅は思っていた。
もっとも勇毅に言わせれば、親である自分を、権力と金が無限になる木としか見ていない尚毅は、いまいましく疎ましい存在であった。
だが、いがみ合い憎しみ合いこそする二人には、共通した価値観があった。
他者は、利用するものなのだ。
強者は、弱者をどのように利用してもよいのだ。
生命も財産も尊厳も。それが彼らにとって世界の摂理であった。
水音が止んだ。紗矢歌がシャワーを浴び終えたようだ。
尚毅は再びソファーに転がると、面倒くさそうにスマホを拾い上げた。
「まあいいよ、あんたの不始末もまとめて処分しておくから。それでいいんでしょ?」
警視庁本庁舎から徒歩十数分、東京駅丸の内中央口前の一等地に、陽光ホールディングの本社ビルはその偉容を誇っていた。
戦後まもなく建造された旧社屋から、丸の内再開発計画の一環として、つい最近建て替えられたばかりの新しいビルだ。
初代社屋建築当時のそれを模してデザインされたという、煉瓦と大理石を組み合わせた重厚な造りの低層階には、老舗のカフェと美術ギャラリー、そして音楽ホールが入り、上層階はシンプルでソリッドな外観のオフィスとなっている。
「たまに前を通りはするが、中に入ろうとは思ったこともねえな……この前のホテルといい、どうにも庶民には近寄りがたいというか、そもそも用事がねえしなあ」
午後の日差しを受けてそびえ立つ建物を、やや眩しげに眺めてみる。
同じ東京駅近くでも、官庁街の人々には、宮仕え同士それなりの親近感がなくはない。
しかし、仕立ての良さそうな洒落たスーツを着こなし、億単位の金を操る、超のつく大企業に勤める人々は、どこか別世界の住人に思えてしまう。
「そうですか? こちらのカフェ、スルガ珈琲店のパンケーキは超有名なんですよ? 東京駅近インスタ映えスイーツ、堂々三位ランクイン。女子なら一度は訪れたいスポットです。
ちなみにパンケーキはトッピングなしのプレーンが千三百円、オリジナルのカップ&ソーサーでいただくスルガブレンドコーヒーは七百円です。
SNSでいいねを買うなら、海外絶景スポットと比べて、庶民女子でも十分手の届く投資の部類かと」
渋さを増した顔の名波を促し、みはやはカフェの扉を開けた。那臣は苦笑しつつ後に続く。
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