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第四章 刑事の元へ、仲間が集う
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窓の外をいくつもの黒い影が勢いよく通り過ぎた。どうやらカラスの群れのようだ。
ここ警視庁本庁舎は皇居や日比谷公園に近いせいか、窓から野鳥の姿もよく見ることができる。
いたって普段通りの光景だが、なにやら縁起が悪い予感がして、那臣は軽く首を振った。
「……どうしました参事官、腹の調子でも?」
無意識に胃のあたりを撫でていたらしい。「ああ、なんでもないよ」と苦笑する。
ゆっくり朝飯を食う暇もなく呼び出され、部屋の掃除をしてくれている同僚に、まさか朝っぱらからみはやが出してきたフルーツ、ホイップクリーム山盛りのパンケーキを食べ過ぎて、胃がもたれちまった、とは言えまい。
デスクを雑巾がけしながら、市野瀬が心配そうに那臣の横顔を伺っている。
人懐こい柴犬を思わせるその表情に、那臣はもう一度大丈夫、と笑みを浮かべてみせた。
まだ何か言いたげな市野瀬に代わって、斜め前のデスクでパソコンのケーブルを繋いでいた名波が、ぼそりと呟く。
「……いかに図太い館参事官とはいえそろそろ胃に来てるんじゃないですか?……いろいろとありましたし、ね」
寡黙で飄々とした印象しかなかった名波は、その実かなり毒を吐く人物だったらしい。
いったんその重そうな口を開けば、河原崎一派は容赦なく一刀両断。そしてそんな阿呆どもに手玉に取られた那臣もさらなる阿呆と切り捨てる。
とはいうものの、口ほど那臣のことを安く踏んではいないらしい。
前々から内心、河原崎一派、そして風見鶏の警察上層部には相当な不満を抱いていたようで、那臣が一連の殺人・失踪事件について包括的に捜査したいと刑事部長に直訴し、本庁舎の一角にささやかながらその拠点を設けたとき、那臣の下にと自分から手を挙げて加わってくれたのだという。所轄時代の部下だった市野瀬も当然のように引き連れて、だ。
今日は朝から三人で、拠点として使わせてもらうことになった小さな会議室の掃除である。
「こいつ、飯奢ってもらった奴にすぐ懐くんです。参事官のことも忠犬ハチ公みたいに慕ってるようですけど、何かいいもの食わせてやったんですか」
「……もう随分と前、捜査続きの徹夜明けに、パンと缶コーヒー買って差し入れた覚えはありますけどね。その程度でそこまで慕ってもらっていたとは光栄ですよ」
「あれは自分、じーんと染みました! 感激でした!」
「餌付け成功でしたね。じゃ今度は焼き肉でも食わせてやってください、一生涯忠犬になりますから。ちなみに自分はうっかりカツ定食わせまして……まあこう見えていろいろ使える奴なんで、重宝してますよ」
身も蓋もないコメントに、那臣は頬をひきつらせた。
那臣が『オーディション』という情報をもたらして数日。新宿と高輪の二つの殺人事件、そして各地の失踪事件が関連している可能性が浮上し、それまで独自に動いていたそれぞれの捜査本部や所轄の警察署が急速に連携を取り始めていた。
新宿中央署の捜査本部に本庁捜査一課の班長として投入されていた名波と、新宿中央署刑事課の捜査員市野瀬の二人を那臣のチームに加えることが出来たのも、関連事件を俯瞰的に捜査する必要があると刑事部上層部も認めざるを得ない状況になってきたからだろう。
この流れの裏には、倉田による工作があった。あちこちの反河原崎派、または中立様子見派とみられる知人友人に、派閥人事に興味がなく、裏を勘ぐることのない純朴な者には直球で「おたくの事件と関連があるのでは」と告げ捜査を促し、また自尊心が高く出世のチャンスを虎視眈々と狙っていそうな者には、それとわからないよう関わりを臭わせる重要情報を流すなど、人を見ながら手を変え品を変え、この短期間で「一連の事件の中心に『オーディション』あり」という雰囲気を作り上げていったのだ。
恭士が所属する新宿の殺人事件捜査本部では、久保田管理官の判断により、もっとも早い時期から強盗あるいは怨恨という線に加え、『オーディション』に関わる何らかのトラブルについても捜査を開始していた。
被害者原口莉愛のSNSでの会話に加え、殺害前には、店内において他のキャバ嬢を遠ざけ、客と何かの打ち合わせをしていたようだとの証言も得ている。すでにその客を追って動き始めているとのことだった。
甲高いコール音とほとんど同時に、名波が内線を取る。短く応対し受話器を置いた。
「市野瀬、参事官がお出かけだ。お前、荷物持ちに付いてけ」
「はいっ」
市野瀬が弾かれたように立ち上がりジャケットを羽織る。
やおら名波は那臣に、ちらりともの言いたげな視線を寄越した。どうやらあまり好んで参上したくない用件だろう予想はつく。
「……誰からですか」
「三好参事官です。黒塗りだらけのノリ弁報告書をくれてやるから取りにこい、だそうです」
思わず吹き出してしまった。
肩を震わせる那臣に、また名波が呆れた様子で毒を吐く。
「そうやって呑気にウケてるから、あんな連中になめられるんでしょうが」
「呑気ですみませんね。まあ海苔が乗ってるのは承知の上なので、有り難く食わせてもらいますよ」
「……海苔の隙間から見えてる飯も本物だか」
名波は寄りすぎた眉間のしわを指先でもみ、また作業に戻った。
一連の事件について捜査することを認められ、拠点と部下を与えられはしたものの、今の那臣に許された仕事はあくまですべての事件を違う面から洗い出す、補充的な捜査の権限のみであった。
見方を変えれば、組織は一連の事件の捜査の主流に那臣を置くことを阻止し、形ばかりのわずかな部下を付け、本庁舎の一室に押し込めたともいえる。
今の状態に河原崎勇毅の意向がどれだけ反映されているかは判らない。だが警察上層部に未だ勇毅腹心の元部下が何人も存在することを考えると、彼らが、事件の核心からできるだけ那臣を遠ざけようと謀ってくるだろう予想はつく。
一連の事件に関して、所轄に設置された各捜査本部などから上がってくる情報は、本庁では刑事部の三好参事官が収集管理し、連絡調整にあたることとなっていたが、この三好参事官、尊敬する人物は河原崎勇毅と公言してはばからない人物だ。那臣の捜査に好意的な協力をするとはとうてい思えない。
上衣に袖を通す那臣の隣では、市野瀬が、目をきらきらさせながら直立不動で待機している。
まるでこれから散歩に連れて行ってもらえる子犬のようだ。
その背中に、名波が面倒くさそうに声援を飛ばした。
「いいか市野瀬。あの机上ファーマーに何か仕掛けられたら、お前盾になって止めろよ。実家のお袋さんあてに、遺族弔意金の手配はしてやるから」
「はい! 不肖市野瀬翼巡査部長、サボテンと差し違えても、参事官をお守りします!」
とうとう堪えきれず那臣は爆笑した。
三好参事官は自称ナチュラリストで、早期退職後天下り先で数年稼ぎ、退職金で田舎に土地を買って農業をはじめる予定らしいのだが、その手のパンフレットや文献を積み上げるばかりで、未だプランターで野菜を育てたことすらないというのがもっぱらの噂だ。
「自然っていいよねえ」と、デスクサイドに置かれた手のひらサイズのサボテンをうっとり愛でる様子を思い浮かべると、ツボに入った笑いが止まらない。
那臣は呼吸困難に陥り、涙を流して笑い続けている。
その様子を窺いながら、また名波が肩をすくめて吐き捨てた。
「こんなお気楽人間を揃ってイビリにかかるとか……我が社の上層部もどんだけ暇なのやら」
ここ警視庁本庁舎は皇居や日比谷公園に近いせいか、窓から野鳥の姿もよく見ることができる。
いたって普段通りの光景だが、なにやら縁起が悪い予感がして、那臣は軽く首を振った。
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無意識に胃のあたりを撫でていたらしい。「ああ、なんでもないよ」と苦笑する。
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デスクを雑巾がけしながら、市野瀬が心配そうに那臣の横顔を伺っている。
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まだ何か言いたげな市野瀬に代わって、斜め前のデスクでパソコンのケーブルを繋いでいた名波が、ぼそりと呟く。
「……いかに図太い館参事官とはいえそろそろ胃に来てるんじゃないですか?……いろいろとありましたし、ね」
寡黙で飄々とした印象しかなかった名波は、その実かなり毒を吐く人物だったらしい。
いったんその重そうな口を開けば、河原崎一派は容赦なく一刀両断。そしてそんな阿呆どもに手玉に取られた那臣もさらなる阿呆と切り捨てる。
とはいうものの、口ほど那臣のことを安く踏んではいないらしい。
前々から内心、河原崎一派、そして風見鶏の警察上層部には相当な不満を抱いていたようで、那臣が一連の殺人・失踪事件について包括的に捜査したいと刑事部長に直訴し、本庁舎の一角にささやかながらその拠点を設けたとき、那臣の下にと自分から手を挙げて加わってくれたのだという。所轄時代の部下だった市野瀬も当然のように引き連れて、だ。
今日は朝から三人で、拠点として使わせてもらうことになった小さな会議室の掃除である。
「こいつ、飯奢ってもらった奴にすぐ懐くんです。参事官のことも忠犬ハチ公みたいに慕ってるようですけど、何かいいもの食わせてやったんですか」
「……もう随分と前、捜査続きの徹夜明けに、パンと缶コーヒー買って差し入れた覚えはありますけどね。その程度でそこまで慕ってもらっていたとは光栄ですよ」
「あれは自分、じーんと染みました! 感激でした!」
「餌付け成功でしたね。じゃ今度は焼き肉でも食わせてやってください、一生涯忠犬になりますから。ちなみに自分はうっかりカツ定食わせまして……まあこう見えていろいろ使える奴なんで、重宝してますよ」
身も蓋もないコメントに、那臣は頬をひきつらせた。
那臣が『オーディション』という情報をもたらして数日。新宿と高輪の二つの殺人事件、そして各地の失踪事件が関連している可能性が浮上し、それまで独自に動いていたそれぞれの捜査本部や所轄の警察署が急速に連携を取り始めていた。
新宿中央署の捜査本部に本庁捜査一課の班長として投入されていた名波と、新宿中央署刑事課の捜査員市野瀬の二人を那臣のチームに加えることが出来たのも、関連事件を俯瞰的に捜査する必要があると刑事部上層部も認めざるを得ない状況になってきたからだろう。
この流れの裏には、倉田による工作があった。あちこちの反河原崎派、または中立様子見派とみられる知人友人に、派閥人事に興味がなく、裏を勘ぐることのない純朴な者には直球で「おたくの事件と関連があるのでは」と告げ捜査を促し、また自尊心が高く出世のチャンスを虎視眈々と狙っていそうな者には、それとわからないよう関わりを臭わせる重要情報を流すなど、人を見ながら手を変え品を変え、この短期間で「一連の事件の中心に『オーディション』あり」という雰囲気を作り上げていったのだ。
恭士が所属する新宿の殺人事件捜査本部では、久保田管理官の判断により、もっとも早い時期から強盗あるいは怨恨という線に加え、『オーディション』に関わる何らかのトラブルについても捜査を開始していた。
被害者原口莉愛のSNSでの会話に加え、殺害前には、店内において他のキャバ嬢を遠ざけ、客と何かの打ち合わせをしていたようだとの証言も得ている。すでにその客を追って動き始めているとのことだった。
甲高いコール音とほとんど同時に、名波が内線を取る。短く応対し受話器を置いた。
「市野瀬、参事官がお出かけだ。お前、荷物持ちに付いてけ」
「はいっ」
市野瀬が弾かれたように立ち上がりジャケットを羽織る。
やおら名波は那臣に、ちらりともの言いたげな視線を寄越した。どうやらあまり好んで参上したくない用件だろう予想はつく。
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肩を震わせる那臣に、また名波が呆れた様子で毒を吐く。
「そうやって呑気にウケてるから、あんな連中になめられるんでしょうが」
「呑気ですみませんね。まあ海苔が乗ってるのは承知の上なので、有り難く食わせてもらいますよ」
「……海苔の隙間から見えてる飯も本物だか」
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今の状態に河原崎勇毅の意向がどれだけ反映されているかは判らない。だが警察上層部に未だ勇毅腹心の元部下が何人も存在することを考えると、彼らが、事件の核心からできるだけ那臣を遠ざけようと謀ってくるだろう予想はつく。
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まるでこれから散歩に連れて行ってもらえる子犬のようだ。
その背中に、名波が面倒くさそうに声援を飛ばした。
「いいか市野瀬。あの机上ファーマーに何か仕掛けられたら、お前盾になって止めろよ。実家のお袋さんあてに、遺族弔意金の手配はしてやるから」
「はい! 不肖市野瀬翼巡査部長、サボテンと差し違えても、参事官をお守りします!」
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「自然っていいよねえ」と、デスクサイドに置かれた手のひらサイズのサボテンをうっとり愛でる様子を思い浮かべると、ツボに入った笑いが止まらない。
那臣は呼吸困難に陥り、涙を流して笑い続けている。
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