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第四章 刑事の元へ、仲間が集う
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その部屋は『彼』のために整えられた。年を経て艶を増した木目の板壁に、落ち着いた間接照明の明かり。微かに流れるバッハは、先日コレクションされたばかりの年代物のレコード盤だ。
会社の役員室としても、十分に広すぎる部屋だった。
そのやや奥まった場所に据えられたアンティークの木製デスクが重厚な存在感を主張している。
そしてさらに訪れた人の目を引くのは、部屋の主が椅子に掛けたとき最も美しく見られるよう配置された、幅が2メートル以上はあるだろう巨大な水槽だ。
水草がほとんど隙間なくびっしりと植え込まれ、眩しいほどのライトが鮮やかなグリーンと、アクセントに添えられた紫色の葉を映し出している。その水草の森を、可愛らしい小さな熱帯魚が群をなして横切った。
「……なーんかあんまり面白くないんだよねこの企画」
部屋の主がPCの画面から顔を上げ、あくび混じりに伸びをする。革張りの回転椅子がきいと軋むその音に、男はびくりと身を縮めた。
「つかそもそも何? この集客予想。うちの儲け出ないよねこれ。なんでこんな仕事受けるの?」
「申し訳ありません……その……お父様の事務所からのご紹介でして……」
主の機嫌を損ねないよう、控えめに断れない仕事だと告げる。主はちっと舌打ちした。
「面倒くさいなあ。あの人も、支援者だからって安請け合いしないで欲しいよね」
男は曖昧に頷いた。下手に同意すればまた、父親を侮辱したと思われる。
惜しみなく金をかけて整えられた部屋の主は、そのすっきりとした頬の線に、未だ幼さすら残る若者だった。
ボタンダウンのシャツにカーディガンというラフな服装ではあったが、そのすべてが、やはり庶民には一生縁のないであろう高級ブランドで固められていた。シャツから覗く手首の時計は、数百万円もする限定ものだ。
気怠げにデスクに片肘をついて、再び画面を見やる。小振りな顔にはやや大きすぎる瞳を猫のように細め、またひとつあくびを漏らした。
その主の顔色を伺うように、主よりいくらか年長の男、伊武はおずおずと口を開いた。
「……その、多少実入りは少ないですけど、駅ビルの商業施設と周辺の商店街の共同主催ですし、最悪赤字になるようなことは……」
「お前もさあ、ボランティアでやってんじゃないんだから、頭使おうよ」
頼りない部下に対して上司が掛ける言葉としては、至極ありきたりなものだ。
だが、取り立てて厳しい台詞ではなく、むしろのんびりとしたその口調に隠された気配を感じ取った伊武の背筋に、冷たいものが流れる。
とっさには気の利いた改善策が浮かばない。
空白の一秒が気の遠くなるような長い時間に感じられる。水槽の濾過装置のモーター音が不気味に耳に触れる。
これ以上この主の機嫌を損ねたらいけない。
焦りで乾いた唇をようやくこじ開け、顔を上げた伊武は、目の前の主とまともに目が合った。
主はにっと歯を見せ、爽やかに笑う。
「……お前さあ、いらなくね? ただのゴミじゃん」
声にならない悲鳴を上げた伊武を、デスクの上に置かれたスマホのコール音が救った。
すかさず電話に出た主は、先程まで発していた殺気が嘘のように上機嫌で応じる。
「あー紗矢さん? うん、大丈夫、暇してるよ。え? うん判った、すぐ行く。うんうん、後で。
あ! あの服着てきてよ、俺あれ好き、谷間エロいし……ははは、ジョークだって、紗矢さんは何着ても可愛いっしょ? うん、じゃね」
笑顔で通話を終えデスクから立ち上がった主に、伊武はすかさずジャケットを取り差し出した。
短い通話の間に別室の同僚にコールし、車を回させてある。
彼の行動を一瞬でも遮断してはならないことを、伊武は誰よりもよく理解していた。この上司に仕える部下として、伊武は十分に有能なのだ。
小走りで先回りして扉を開け、主を通す。ジャケットに袖を通し悠々と歩を進める主が、ふと気づいたように足を止めた。
「……なんか、飽きちゃったなあ」
また背筋が凍り付いた伊武に目もくれず、主は前髪が気になるのか、指先で何度も弄びながら振り返った。
室内を一瞥すると、あっさりと言い放つ。
「水槽、もういらないや。それから壁もさあ、もっと明るい感じのに変えといてよ。そうだなあ……あの表参道のブラン・ド・ノワールみたいなテイストでよろしく」
「……はい、すぐ手配します」
主の要求がたとえどんな難題であっても構わなかった。
仕事を与えられた、それは彼がゴミとして処理されなかったことを意味していたからだ。
車のドアを閉める間際、主はついでのように確認した。
「ああ、あのイベントはちゃんと仕切っておいてよね。うちで唯一実入りのいい企画なんだからさ」
地下の駐車場から走り出したレクサスが、出口を曲がり消え去るまで、伊武は最敬礼で見送った。
大きく息をついてようやく人心地のついた伊武だったが、数秒の休息ののち踵を返すと、ふたたびエレベーターへと向かった。急いで部屋の主が命じた模様替えを手配しなければならない。
主は気が短く、そして気紛れだ。
あれだけの内装を整えるのに通常どのくらいの工期が必要なのか、そんな常識的な理屈は、彼には通用しない。
彼が遅いと感じる時までに、役員室の内装を彼好みに整えられなければ、また自分の首が、文字通りの意味で危険に晒される。
主のいなくなった役員室に足を踏み入れた。無駄に広すぎる室内に軽やかなガヴォットが虚しく流れ続けている。水槽を照らし出す真白いライトが不快に明るい。
伊武は無機質に身体を動かし、水槽の中の命を維持している電源をすべて落とした。
業者が水槽を撤収するまでの短い間にも、か弱い熱帯魚は死んでいき、水草は枯れていくだろう。
でもそんなことは、この部屋の主、河原崎尚毅には関心はない、尚毅に囚われた自分にも関係ないのだ。
ふと作業の手を止め、スマホを取り出しコールする。
電話に出た相手に、一片の感情も添えずに指示を出した。
「ああ、出来る限り早急に次回の『オーディション』の予定を入れておいてくれ。そうだ、『新規の参加者の募集』もだ。『スカウト』にいくら支払ってもいい。
……ああ聞いてる。『ライバル』も動いているようだが、それは気にしなくていい。『会長』も動いてくれている」
幼い頃、生き物を飼うことが好きだった。川で捕らえたザリガニが死んでしまったときは、泣きながら庭の片隅に埋め手を合わせた。そんな記憶を、今、伊武は思い出すこともなかった。
会社の役員室としても、十分に広すぎる部屋だった。
そのやや奥まった場所に据えられたアンティークの木製デスクが重厚な存在感を主張している。
そしてさらに訪れた人の目を引くのは、部屋の主が椅子に掛けたとき最も美しく見られるよう配置された、幅が2メートル以上はあるだろう巨大な水槽だ。
水草がほとんど隙間なくびっしりと植え込まれ、眩しいほどのライトが鮮やかなグリーンと、アクセントに添えられた紫色の葉を映し出している。その水草の森を、可愛らしい小さな熱帯魚が群をなして横切った。
「……なーんかあんまり面白くないんだよねこの企画」
部屋の主がPCの画面から顔を上げ、あくび混じりに伸びをする。革張りの回転椅子がきいと軋むその音に、男はびくりと身を縮めた。
「つかそもそも何? この集客予想。うちの儲け出ないよねこれ。なんでこんな仕事受けるの?」
「申し訳ありません……その……お父様の事務所からのご紹介でして……」
主の機嫌を損ねないよう、控えめに断れない仕事だと告げる。主はちっと舌打ちした。
「面倒くさいなあ。あの人も、支援者だからって安請け合いしないで欲しいよね」
男は曖昧に頷いた。下手に同意すればまた、父親を侮辱したと思われる。
惜しみなく金をかけて整えられた部屋の主は、そのすっきりとした頬の線に、未だ幼さすら残る若者だった。
ボタンダウンのシャツにカーディガンというラフな服装ではあったが、そのすべてが、やはり庶民には一生縁のないであろう高級ブランドで固められていた。シャツから覗く手首の時計は、数百万円もする限定ものだ。
気怠げにデスクに片肘をついて、再び画面を見やる。小振りな顔にはやや大きすぎる瞳を猫のように細め、またひとつあくびを漏らした。
その主の顔色を伺うように、主よりいくらか年長の男、伊武はおずおずと口を開いた。
「……その、多少実入りは少ないですけど、駅ビルの商業施設と周辺の商店街の共同主催ですし、最悪赤字になるようなことは……」
「お前もさあ、ボランティアでやってんじゃないんだから、頭使おうよ」
頼りない部下に対して上司が掛ける言葉としては、至極ありきたりなものだ。
だが、取り立てて厳しい台詞ではなく、むしろのんびりとしたその口調に隠された気配を感じ取った伊武の背筋に、冷たいものが流れる。
とっさには気の利いた改善策が浮かばない。
空白の一秒が気の遠くなるような長い時間に感じられる。水槽の濾過装置のモーター音が不気味に耳に触れる。
これ以上この主の機嫌を損ねたらいけない。
焦りで乾いた唇をようやくこじ開け、顔を上げた伊武は、目の前の主とまともに目が合った。
主はにっと歯を見せ、爽やかに笑う。
「……お前さあ、いらなくね? ただのゴミじゃん」
声にならない悲鳴を上げた伊武を、デスクの上に置かれたスマホのコール音が救った。
すかさず電話に出た主は、先程まで発していた殺気が嘘のように上機嫌で応じる。
「あー紗矢さん? うん、大丈夫、暇してるよ。え? うん判った、すぐ行く。うんうん、後で。
あ! あの服着てきてよ、俺あれ好き、谷間エロいし……ははは、ジョークだって、紗矢さんは何着ても可愛いっしょ? うん、じゃね」
笑顔で通話を終えデスクから立ち上がった主に、伊武はすかさずジャケットを取り差し出した。
短い通話の間に別室の同僚にコールし、車を回させてある。
彼の行動を一瞬でも遮断してはならないことを、伊武は誰よりもよく理解していた。この上司に仕える部下として、伊武は十分に有能なのだ。
小走りで先回りして扉を開け、主を通す。ジャケットに袖を通し悠々と歩を進める主が、ふと気づいたように足を止めた。
「……なんか、飽きちゃったなあ」
また背筋が凍り付いた伊武に目もくれず、主は前髪が気になるのか、指先で何度も弄びながら振り返った。
室内を一瞥すると、あっさりと言い放つ。
「水槽、もういらないや。それから壁もさあ、もっと明るい感じのに変えといてよ。そうだなあ……あの表参道のブラン・ド・ノワールみたいなテイストでよろしく」
「……はい、すぐ手配します」
主の要求がたとえどんな難題であっても構わなかった。
仕事を与えられた、それは彼がゴミとして処理されなかったことを意味していたからだ。
車のドアを閉める間際、主はついでのように確認した。
「ああ、あのイベントはちゃんと仕切っておいてよね。うちで唯一実入りのいい企画なんだからさ」
地下の駐車場から走り出したレクサスが、出口を曲がり消え去るまで、伊武は最敬礼で見送った。
大きく息をついてようやく人心地のついた伊武だったが、数秒の休息ののち踵を返すと、ふたたびエレベーターへと向かった。急いで部屋の主が命じた模様替えを手配しなければならない。
主は気が短く、そして気紛れだ。
あれだけの内装を整えるのに通常どのくらいの工期が必要なのか、そんな常識的な理屈は、彼には通用しない。
彼が遅いと感じる時までに、役員室の内装を彼好みに整えられなければ、また自分の首が、文字通りの意味で危険に晒される。
主のいなくなった役員室に足を踏み入れた。無駄に広すぎる室内に軽やかなガヴォットが虚しく流れ続けている。水槽を照らし出す真白いライトが不快に明るい。
伊武は無機質に身体を動かし、水槽の中の命を維持している電源をすべて落とした。
業者が水槽を撤収するまでの短い間にも、か弱い熱帯魚は死んでいき、水草は枯れていくだろう。
でもそんなことは、この部屋の主、河原崎尚毅には関心はない、尚毅に囚われた自分にも関係ないのだ。
ふと作業の手を止め、スマホを取り出しコールする。
電話に出た相手に、一片の感情も添えずに指示を出した。
「ああ、出来る限り早急に次回の『オーディション』の予定を入れておいてくれ。そうだ、『新規の参加者の募集』もだ。『スカウト』にいくら支払ってもいい。
……ああ聞いてる。『ライバル』も動いているようだが、それは気にしなくていい。『会長』も動いてくれている」
幼い頃、生き物を飼うことが好きだった。川で捕らえたザリガニが死んでしまったときは、泣きながら庭の片隅に埋め手を合わせた。そんな記憶を、今、伊武は思い出すこともなかった。
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