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序章 刑事、獣と出会う
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感傷に浸るのも束の間、目の前のシャッターが軽い音をたてて動き始めた。
思った通り、那臣が陣取った場所は、ぴったり自動ドア前だった。まだドアは開かれていない。ガラスの向こう側、開店前の準備に忙しく立ち働く書店スタッフの姿を、しばし眺める。
ほどなくスタッフの一人がドアに近づいてきて、床近くにあるロックを外し、手でドアを開けてくれた。
「お待たせいたしました、いらっしゃいませ」
にこやかに挨拶する若い女性スタッフに、那臣も会釈を返す。
すれ違いさま彼女の鼻が僅かにひくつき、頬の筋肉が強張るのが見て取れた。
昨日も朝から焼酎をどれだけ空けたのか覚えていない。相当酒臭いだろう。おまけにここ数日、髭もろくに剃っていなかった。朝一番でシャッター前に並ぶ酔っぱらいの不審人物、我ながら怪しすぎる。
苦笑しつつも那臣は、一瞬も躊躇しなかった。
通い慣れた店内の棚の林を、最短距離で縫うように、児童書スタッフおすすめ棚へ向かって最速の早足で駆け抜ける。
三カ所ある店内入り口のなかで、最も目的地に近いドアを選んだ。視界に敵影なし。マッピングは完璧。お宝はもう目の前だ。
果たして児童書コーナーのささやかなおすすめ棚に、求め焦がれたそれはあった。
よく見知ったイラストの表紙に、那臣はそっと手を伸ばす。
触れても幸せな幻は消えない。
ハードカバーの表紙を開くと、その内側には、覚えのある城ノ内ナツメのサインがしっかりと刻まれていた。
「無職万歳……!」
感動のあまりうっかり漏らした恥ずかしい呟きを、可愛らしい悲鳴が遮った。
「ぁあああっっっっっ!」
驚いた那臣は思わずびくりと飛び上がった。
半回転して、背を棚にしたたかに打ち付ける。
潰されたカエルのように棚に貼り付いた那臣を指さしたまま、悲鳴の主は呆然と立ちすくんでいた。
中学生くらいの小柄な少女だ。
ツインテールという髪型か、少し色素の薄い淡い黒の髪を二つに分けて、耳より上の高い位置で結わえている。グレイのジャンパースカートにボレロ、濃紺のベレー帽という、このあたりでは見かけない制服だ。膝下の半端な長さのスカートから、これまた半端な長さのソックスを覗かせている。古風なデザインの制服が、私立の名門女子校をイメージさせた。
大きなリュックを背負い、そのほかにも重そうなボストンバッグと、某テーマパークの紙袋を右肘にかけてぶら下げている。地方から修学旅行で上京したのかもしれない。
見開かれた大きな瞳が、みるみるうちにじわりと潤んでいく。
その瞳も、淡く不思議な色をしていた。今は泣き出しそうに歪んでいたが、きっと整った顔立ちをしているのだろう。那臣は一瞬で、そこまで彼女の観察を終えた。
そして、震える指先がさすものが、自分の手にある本であることも、とうに判っていた。
軽く息をつき、少女に向けて笑顔を作ってみせる。
「もしかして、これ、狙って来たんだ?」
こくこくと首を縦に振ってみせる。つられて二房の髪がさらりと踊る。
愛らしい唇から、はきと小気味よい返事が返ってきた。
「ゆうべホテルでツイッターを見てましたら、フォローしてた店員さんのツイートを見つけまして……。
あの、わたし、名古屋から修学旅行で東京に来てるんです。今日は自由行動の日じゃないんですけど、その、どうしても……」
「どうしても城ノ内ナツメ先生のサイン本が欲しかった、で、こっそり抜け出してきたって訳か」
少女の台詞を那臣は引き継いだ。さっきより深く、ぶんぶんと首を縦に振って同意する姿が微笑ましい。
「開店と同時にダッシュしてきたんですけど……間に合いませんでした」
「そうか……正面の入り口から来たんだな? あそこから入ると、児童書コーナーは判りづらいから……初めての客には不利だったかもなあ」
しょんぼりとうなだれる少女に、那臣は本を差し出した。
無職大人の特権を最大限利用して獲得した秘宝ではあったが、ここは無職大人として、前途有望な若人に譲るべきものだろう。
「どうぞ、買ってくるといい」
「ええっ?」
落っこちるのではないかと心配になるほど目を剥いた少女が、今度は、首と両手をちぎれそうに激しく横に振る。
「ダメです! おじ……お兄さんが先に着いたんですから、これはお兄さんのものです!」
わざわざ言い直すあたりが可笑しかった。実際、那臣はもう三十をとうに超えているのだから、中学生の彼女からしたら立派なおじさんだろう。わざと軽めの台詞で返してやる。
「おじさんはもう年を取り過ぎてるからな。本来の読者層である君が持っていてくれた方が、城ノ内先生も喜ぶだろう」
「でも、お兄さんも欲しかったんですよね? 先生のサイン本」
純粋でいたいけな瞳にじっと見つめられて、嘘を返せるはずもない。恥ずかしさに赤面しながらも、正直な言葉を選ぶ。
「……今の君より小さい頃……二十年以上前からのファンだからね。機会があれば手に入れたかった、その程度だよ。
『赤い谷の秘宝』はもちろん、ヴァルナシア旅行団シリーズは全巻持ってるし……内緒だけど、もう一セット、保存用の分まである。三冊も持ってても仕方ないさ」
「わたしも三セット持ってますよ! 普段用と保存用と将来用」
「将来用?」
「はい、いつかヴァルナシア旅行団を読んで欲しいひとが出来たら、全巻揃えてプレゼントしたくて!」
那臣の人生で初めて他人へ暴露した秘密に、同志である少女はがっつりと食いついてきた。先程までの沈んだ表情が嘘のように、瞳を輝かせる。
「彼氏とか、かな?」
我ながらオヤジ風味の発言だ。同僚の女性に言おうものなら、セクハラだと責められかねない台詞を、少女はむしろ嬉しそうに受け止め、頷く。
「人が好きな本って、その人そのものだと思うんです。今のわたしって、ほとんどがヴァルナシア旅行団で出来てますから。
自分が選んで、自分を選んでくれたひとに知って欲しいなあって」
まじりけのない、きれいな笑顔だと思った。汚れ汚し合う腐臭の海に溺れ、沈みゆく自分とは違う。
でもよかった。
那臣の心が、安堵と、ささやかな充足感で満ちていく。
自分は今、この少女から目を逸らさないでいられる。
大人の垢にまみれ、おまけに大人の事情で人生終了宣言を食らった酔っ払いのおっさんにも、それくらいのご褒美があったっていいだろう。
那臣は、改めて本を少女に差し出した。
「いいね、それ。じゃ、やっぱりこの本は君に譲るよ。将来のパートナーに見せてあげるといい」
「いえ、ダメです」
少女はきっぱりと即答し、人差し指を立てて眉根を寄せた。
「順番を守らないと、セ・リカに叱られますよ」
「……そりゃ確かに……怖いな」
旅行団の『クラス委員』、セ・リカに叱られる。それはヴァルナシア旅行団愛読者にとって、「言うことを聞かない子は怖い鬼が来て食べちゃうぞ」、と同じくらいの制止力を秘めているものだ。
那臣も思わず首をすくめ、背筋を伸ばして気を付けの姿勢を取ってしまった。
その瞬間、少女がくるりと踵を返した。
軽やかに数歩駆け出すと、振り返って微笑んでみせる。
「もうわたし行かないと。品川発十一時七分の新幹線で名古屋に帰るんです。乗り遅れちゃいます」
那臣は慌てて少女に向かって手を伸ばした。
「お、おい、ちょっと待てよ!」
「お兄さんとお話できてよかったです。
『我らの旅路に幸多からんことを!』」
旅立ちの日、心通わせた人たちとの別れの時に旅行団の皆がするように、とびきりの笑顔で手を振り、少女は走り去っていった。
少女は足が速く、あっという間に雑踏へと姿を消した。残された那臣は、しばし呆然と立ち尽くすしかなかった。
思った通り、那臣が陣取った場所は、ぴったり自動ドア前だった。まだドアは開かれていない。ガラスの向こう側、開店前の準備に忙しく立ち働く書店スタッフの姿を、しばし眺める。
ほどなくスタッフの一人がドアに近づいてきて、床近くにあるロックを外し、手でドアを開けてくれた。
「お待たせいたしました、いらっしゃいませ」
にこやかに挨拶する若い女性スタッフに、那臣も会釈を返す。
すれ違いさま彼女の鼻が僅かにひくつき、頬の筋肉が強張るのが見て取れた。
昨日も朝から焼酎をどれだけ空けたのか覚えていない。相当酒臭いだろう。おまけにここ数日、髭もろくに剃っていなかった。朝一番でシャッター前に並ぶ酔っぱらいの不審人物、我ながら怪しすぎる。
苦笑しつつも那臣は、一瞬も躊躇しなかった。
通い慣れた店内の棚の林を、最短距離で縫うように、児童書スタッフおすすめ棚へ向かって最速の早足で駆け抜ける。
三カ所ある店内入り口のなかで、最も目的地に近いドアを選んだ。視界に敵影なし。マッピングは完璧。お宝はもう目の前だ。
果たして児童書コーナーのささやかなおすすめ棚に、求め焦がれたそれはあった。
よく見知ったイラストの表紙に、那臣はそっと手を伸ばす。
触れても幸せな幻は消えない。
ハードカバーの表紙を開くと、その内側には、覚えのある城ノ内ナツメのサインがしっかりと刻まれていた。
「無職万歳……!」
感動のあまりうっかり漏らした恥ずかしい呟きを、可愛らしい悲鳴が遮った。
「ぁあああっっっっっ!」
驚いた那臣は思わずびくりと飛び上がった。
半回転して、背を棚にしたたかに打ち付ける。
潰されたカエルのように棚に貼り付いた那臣を指さしたまま、悲鳴の主は呆然と立ちすくんでいた。
中学生くらいの小柄な少女だ。
ツインテールという髪型か、少し色素の薄い淡い黒の髪を二つに分けて、耳より上の高い位置で結わえている。グレイのジャンパースカートにボレロ、濃紺のベレー帽という、このあたりでは見かけない制服だ。膝下の半端な長さのスカートから、これまた半端な長さのソックスを覗かせている。古風なデザインの制服が、私立の名門女子校をイメージさせた。
大きなリュックを背負い、そのほかにも重そうなボストンバッグと、某テーマパークの紙袋を右肘にかけてぶら下げている。地方から修学旅行で上京したのかもしれない。
見開かれた大きな瞳が、みるみるうちにじわりと潤んでいく。
その瞳も、淡く不思議な色をしていた。今は泣き出しそうに歪んでいたが、きっと整った顔立ちをしているのだろう。那臣は一瞬で、そこまで彼女の観察を終えた。
そして、震える指先がさすものが、自分の手にある本であることも、とうに判っていた。
軽く息をつき、少女に向けて笑顔を作ってみせる。
「もしかして、これ、狙って来たんだ?」
こくこくと首を縦に振ってみせる。つられて二房の髪がさらりと踊る。
愛らしい唇から、はきと小気味よい返事が返ってきた。
「ゆうべホテルでツイッターを見てましたら、フォローしてた店員さんのツイートを見つけまして……。
あの、わたし、名古屋から修学旅行で東京に来てるんです。今日は自由行動の日じゃないんですけど、その、どうしても……」
「どうしても城ノ内ナツメ先生のサイン本が欲しかった、で、こっそり抜け出してきたって訳か」
少女の台詞を那臣は引き継いだ。さっきより深く、ぶんぶんと首を縦に振って同意する姿が微笑ましい。
「開店と同時にダッシュしてきたんですけど……間に合いませんでした」
「そうか……正面の入り口から来たんだな? あそこから入ると、児童書コーナーは判りづらいから……初めての客には不利だったかもなあ」
しょんぼりとうなだれる少女に、那臣は本を差し出した。
無職大人の特権を最大限利用して獲得した秘宝ではあったが、ここは無職大人として、前途有望な若人に譲るべきものだろう。
「どうぞ、買ってくるといい」
「ええっ?」
落っこちるのではないかと心配になるほど目を剥いた少女が、今度は、首と両手をちぎれそうに激しく横に振る。
「ダメです! おじ……お兄さんが先に着いたんですから、これはお兄さんのものです!」
わざわざ言い直すあたりが可笑しかった。実際、那臣はもう三十をとうに超えているのだから、中学生の彼女からしたら立派なおじさんだろう。わざと軽めの台詞で返してやる。
「おじさんはもう年を取り過ぎてるからな。本来の読者層である君が持っていてくれた方が、城ノ内先生も喜ぶだろう」
「でも、お兄さんも欲しかったんですよね? 先生のサイン本」
純粋でいたいけな瞳にじっと見つめられて、嘘を返せるはずもない。恥ずかしさに赤面しながらも、正直な言葉を選ぶ。
「……今の君より小さい頃……二十年以上前からのファンだからね。機会があれば手に入れたかった、その程度だよ。
『赤い谷の秘宝』はもちろん、ヴァルナシア旅行団シリーズは全巻持ってるし……内緒だけど、もう一セット、保存用の分まである。三冊も持ってても仕方ないさ」
「わたしも三セット持ってますよ! 普段用と保存用と将来用」
「将来用?」
「はい、いつかヴァルナシア旅行団を読んで欲しいひとが出来たら、全巻揃えてプレゼントしたくて!」
那臣の人生で初めて他人へ暴露した秘密に、同志である少女はがっつりと食いついてきた。先程までの沈んだ表情が嘘のように、瞳を輝かせる。
「彼氏とか、かな?」
我ながらオヤジ風味の発言だ。同僚の女性に言おうものなら、セクハラだと責められかねない台詞を、少女はむしろ嬉しそうに受け止め、頷く。
「人が好きな本って、その人そのものだと思うんです。今のわたしって、ほとんどがヴァルナシア旅行団で出来てますから。
自分が選んで、自分を選んでくれたひとに知って欲しいなあって」
まじりけのない、きれいな笑顔だと思った。汚れ汚し合う腐臭の海に溺れ、沈みゆく自分とは違う。
でもよかった。
那臣の心が、安堵と、ささやかな充足感で満ちていく。
自分は今、この少女から目を逸らさないでいられる。
大人の垢にまみれ、おまけに大人の事情で人生終了宣言を食らった酔っ払いのおっさんにも、それくらいのご褒美があったっていいだろう。
那臣は、改めて本を少女に差し出した。
「いいね、それ。じゃ、やっぱりこの本は君に譲るよ。将来のパートナーに見せてあげるといい」
「いえ、ダメです」
少女はきっぱりと即答し、人差し指を立てて眉根を寄せた。
「順番を守らないと、セ・リカに叱られますよ」
「……そりゃ確かに……怖いな」
旅行団の『クラス委員』、セ・リカに叱られる。それはヴァルナシア旅行団愛読者にとって、「言うことを聞かない子は怖い鬼が来て食べちゃうぞ」、と同じくらいの制止力を秘めているものだ。
那臣も思わず首をすくめ、背筋を伸ばして気を付けの姿勢を取ってしまった。
その瞬間、少女がくるりと踵を返した。
軽やかに数歩駆け出すと、振り返って微笑んでみせる。
「もうわたし行かないと。品川発十一時七分の新幹線で名古屋に帰るんです。乗り遅れちゃいます」
那臣は慌てて少女に向かって手を伸ばした。
「お、おい、ちょっと待てよ!」
「お兄さんとお話できてよかったです。
『我らの旅路に幸多からんことを!』」
旅立ちの日、心通わせた人たちとの別れの時に旅行団の皆がするように、とびきりの笑顔で手を振り、少女は走り去っていった。
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