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坊ちゃま、私笑ってました?

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「私……笑ったこと、ありませんでしたか?」
「ないよ! エリィの馬鹿! 初めて見たよ!!」

 ――よく笑いもしない女と結婚しようなどと思いましたね……?
 さすがにそれは言葉にださないでおいたけれど、クラウス様は私をそれはそれは強く抱きしめてきた。
 求婚してきた割に、クラウス様の見てきた未来の惨事に関わる全ての憂いが払拭されるまでは、とクラウス様は決して私に触れようとはされなかった。
 彼があの日見た恐ろしい記憶がそうさせるのだろう。「エリィをもう壊したくない」そう仰っていた。

 遠い記憶のなかの両親に抱きしめられたのが最後だった。
 ――こんな風に誰かに強く抱きしめられたことなんて、なかった。一人で立たなければならなかった。誰かに体重を預けるだなんて、望んではならないことだった。

 クラウス様は「エリィの馬鹿」とかなんとかぼやきながら、私の肩口に顔を埋めてその腕を緩めようとはしない。
 その腕は、いつかの今にも折れそうな枝のような面影は全くなくて、厚く硬く引き締まった胸板を、服越しに感じた。
 私はそっと腕を、クラウス様の背中に回した。あぁ、もう手が回らない。こんなに大きくなられたんだ。死の影に怯えていた少年はもういないんだ。

 ――ん、でも何か震えてらっしゃるような……?

「坊ちゃま」
「……なに。っていうか、その呼び方もうやめてくんない?」
「閨事のご経験は?」
「は!? ある訳なくない!? 久しぶりに会ったていうのにエリィ何言ってんの!?」
「でも……、公爵家のご子息ともなればそういったご教育もあるでしょう?」
「断るに決まってるよね!? 僕エリィ以外の女が触れてくるなんて、想像しただけで気持ち悪くて、影も残らないほど焼き尽くしそうなんだけど」

 そうなのか……。確かにクラウス様は簡単にやってのけそうだ。聞き方を間違ったな。うーん、それでは質問を変えよう。

「では、女性との交際経験は? 学園では何人くらいと?」
「ある訳ないでしょ!? ……ねぇ、エリィ。さっきから僕のこと怒らせようとしてるの……?」

 クラウス様は私の頬を両手でつかむと、おでこを突き合わせるようにして、低い声でそう呟いた。
 まつ毛の触れそうな距離で、琥珀色の瞳で射抜かれるように、睨みつけられた。
 長い学園生活で、そんなこともあるかもしれないと、心の準備をしていたのだけど……。怒りにも似た真剣な眼差しは、私の邪推をはっきりと咎めるものだった。
 なんだろう、胸の奥に温かい想いが溢れる。湯が沸きあがるときのような、蒸気を漂わせ熱を増す、この温かい想いの正体は。

「そうですか」

 今度は私にもはっきりと、唇が弧を描いたのがわかった。
 ――そっか、クラウス様も私だけなのか。ふふふ。

 そうしてクラウス様を見上げると、クラウス様から、ぐ、と息を飲む音がして、目元に朱が走ったなと思った瞬間と同時だった。私の唇に柔らかくて熱いものが押し当てられたのは。

「ん……」
「エリィ、エリィ……!」

 性急に押し当てられた口づけに、目を閉じることもできなかった。
 でも触れたそこが熱くて、雷にうたれたかのようだ。
 ただの触れたという感触以外の、経験したことのない、触れ合い。
 ただ、なんだか、胸の奥から温かい想いが、蓋をしようとしてもどうしようもなく溢れてきて、苦し気に閉じられたクラウス様のまつ毛を見つめていた。
 何度も角度を変えて合わせられるそれに、呼吸を求めて口を開けると、すぐにぬるりと舌が差し入れられた。
 ――こ……これは……!
 私は慌てて、抱き寄せていたクラウス様の背中を叩く。タップ、タップ!

「ぼ、坊ちゃま……! 朝、まだ朝ですっ」

 そう、なんでこんな早朝にお戻りになったのかわかりませんけど、私水汲みに出てたんです。これからお洗濯もしなくちゃなんです!
 キラキラと朝陽にはためくお洗濯タイムなんです! 私の楽しみがっ。

「ん? やだ、ようやくこんなに可愛いエリィに触れることができるようになったのに」
「えぇっ!? まさかこのまま最後まで致す気ですか? こんなに明るいのに?」
「……この世から朝という概念を消す?」

 ――朝という概念とは一体。消えるものでしたか、それは。

「はい、これからでもいいです」

 ――まぁ女は度胸か。
 恥じらったところで、この世が暗闇の世界になるよりは。
 そう私が速やかに腹を括ったところで、「ぶはっ!」と、クラウス様が噴出した。
 くつくつと肩を震わせ、顔を右手で覆い、堪えきれないといった風に笑い出す。

「くくくっ、冗談だよ。この国を陽の光も差さないところにはしないよ。そのために頑張ってきたんだから」
「そうですか。お洗濯できなくなるので、それは助かります」
「洗濯!? そういう話なの?」
「えぇ。更地でベーコンは作れない。そういう話です」

 そういうと、今度は私からクラウス様に口づけた。
 クラウス様がぐ、とまた息を飲む音がするのを、閉じた瞼の外で感じた。

 ――あなたがどんな艱難辛苦を乗り越えたのかは知ることができません。きっと聞いても私には教えてはくれないのでしょう?
 でも、私があなたに触れたい。愛しい。あなたの望みを叶えてあげたい。これはそういう話なんです。
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