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第四章
5 戦士は彼女を守り、髭男は走った
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凄まじい咆哮が謁見の間に轟いた。魂を鷲掴みにされたような感覚が、クレッドを襲った。
頭ははっきりしているが、体に力が入らない。聞いたことがある。
フレイア・レナリア連合軍の勝利は決定的なものになったと、報告が入った。
兵士達が沸き立つ。我が軍の姿を一目見ようと、広間を出たところにある南向きの窓に殺到する。フィルナーナの顔を見て、勝利の喜びを分かち合おうとした。
咆哮が聞こえたのは、その時だった。
回りにいた兵士達が次々に崩れ落ちる。膝をつき、ひどい者は倒れ込んでいた。
二度目だからか、前よりは症状が軽い。何とか口を動かし、あらん限りの声を出した。
「来るぞ!」
何が、とまでは息が続かなかったが、言うまでも無い。敵が、来る。
それは直ぐに現実となった。灰色の影が次々と階段を駆け上り、窓際や入口付近にいた兵士に飛びかかっていった。狼だ。数はそれほど多くない。十かそこらだと思う。周辺を固めていた兵士は、三倍以上いる。
けれども、勝利に浮足立った瞬間にあの咆哮。数拍の間に、十数名の兵士が絶命、あるいは戦闘能力を失った。
悲鳴と怒号。一気に混乱に陥った。
灰色の狼が、王女目掛けて飛びかかってきた。
何とか体制を立て直すと、剣を突き出した。狙い違わず、一撃で倒すことが出来た。
玉座の前に立ち塞がり、仲間に大丈夫かと呼びかける。フィルナーナと、ホルムヘッドの返事が返ってくる。リウィーの返事がない。そう言えば少し前、窓の外を見に行ったはずだ。戻ってきていないのか。窓際にいるのか。確認する余裕はなかった。
見渡すと、既に乱戦状態に陥っていた。深手を負って喚く者。立ち直り、武器をとって戦う者。倒れた仲間を助け起こそうとする者。広間の外も混沌としていた。
その中を、黒い影が歩いている。
長い黒髪。薄手の服。手には何も持たず、足元は素足。無感情な目。あの女だ。
「何をしに来た? 戦は、もう決着がついただろう」
出来るだけ時間を稼ぎたかった。奇襲を受けたとは言え、ここには精鋭が揃っている。数も、倒れた者を差し引いても、互角以上だ。時を稼げば、形勢は逆転するはずだ。
「まだ、終わっていない」
ケネアは一本の指で、後ろにいる翼の姫を指した。
「殺せば、続けられる」
謁見の間で防備を固めていたのは正解だった。ここだから、敵は強襲するしか無かった。
個室にいたら暗殺されていただろう。
「続かない。もう終わりだ」
「問答をするつもりは、ない」
影がさらに踏み出す。後少し、時間を稼ぎたい。
「ケネア、だったな。だとしても、順番が違うだろう」
動きが止まる。数拍おいて、ああ、と答える。
「クレッド。そうだったな」
応じた。自分に対してどれ程の拘りを持っているのかは、わからない。だが、これでしばらくは引き付ける事が出来るはずだ。
突然、動いた。腕による刺突。盾で受け止める。交差気味に剣を横に振るう。期待はしていない。下がるか、受け止められるか。
左腕で受け止められた。構わず、押す。少しでも動きを止める。回りの仲間が、味方が反応してくれた。同じ遊撃隊、義勇兵から防衛に志願してくれた傭兵が、右側から斬撃を加える。察した兵士が、左側から槍を振るった。
両腕は塞いでいる。ケネアは後ろに飛び退き、躱した。
「囲め! 無理はするな!」
短い指示に反応し、左右から挟み込むように移動してくれた。
自らは防御に重点を置く。剣は鋭く。掴まれないように注意する。盾で死角を作るな。
頭の中で反芻しながら、攻防を続ける。
ケネアは、確かに強い。個人の戦闘力で見れば、クリスやマラーナをも凌駕するだろう。
けど、戦えない相手ではない。
あの夜とは条件が違う。部屋も広い。明るさも、まだ十分にある。味方の人数も多い。
踏み込み過ぎた兵が手傷を負って下がったが、その頃には周辺の戦いも優勢に傾いていた。包囲の輪に一人、二人と加わっていった。五人で取り囲んだ。これなら倒せる。
それを見て、何を思ったのか。女は突然、我が身を覆っていた布を引き裂いた。大振りな乳房が、顕になる。
次の瞬間。全身が、総毛立った。
本能が、目の前の女に対して恐れを抱いていた。
両手を床についたその姿は、一瞬の間をあけて変貌した。全身が黒い体毛で覆われる。体格も、何倍にも膨れ上がる。数拍の後。そこにいたのは、巨大な黒い狼だった。
目が、血のように赤い。全身から、禍々しい雰囲気がただよっている。
低い唸り声。圧倒的な存在感。
黒狼はそこにいるだけで、歴戦の戦士をも怯ませる雰囲気を身にまとっていた。
吼えた。あの咆哮だ。すぐ近くにいた為、正面で聞いてしまった。精神を集中するが、耐えきれず膝をついてしまった。
動いた。静止状態から爆発的な加速を見せたかと思うと、近くにいた兵士が崩れ落ちるように倒れた。一瞬で喉を食いちぎられていた。床に血溜まりを作り、兵士は絶命した。
「うおおぉぁぁぁ!」
雄叫びを上げた。動かない体を奮い立たせる。何とか立ち上がると、黒狼に向かって突進した。恐れはあるが、戦わなければやられる。今動かなければ、全員殺される。そう感じた。声に反応して、傭兵や他の兵士達も正気に戻った。
まだやれる。
接近して剣を振るった。振り切る前に、姿がかき消えた。兵士の槍撃が加わるが、掠りすらしなかった。
この狼は速度が尋常ではない。元々驚異的な速さだったが、狼の姿ではそれを越える。目で捉えられず、予測も出来ない。
攻撃力も高い。力強さは増し、前肢の爪は刀剣のようで、牙の威力は想像もつかない。槍を噛み砕き、皮の鎧を紙のように切り裂く。また一人、兵士が倒れた。右肩を噛み砕かれ、絶命はしていないものの、もう起き上がることは出来ないだろう。
兵士を助けようと斬りかかった。黒狼は一端大きく後ろに跳ねて間合いを取ると、値踏みするかのような視線を向けてきた。
あの時と、同じ目だ。淡々としている。感情が見えない。
これは、この狼にとっては只の作業なのか。
ホルムヘッドが兵士の元に走り、引きずって距離をとった。二人を守るように間に入る。
この狼は、はっきり言って、一対一で勝てる相手ではない。剣や槍では取り囲んでも当たらないのだから、一人の攻撃が当たるわけがない。
攻撃が当たらなければ、倒す事はできない。
けれど。だからといって、引くわけにはいかない。負けるわけには、いかない。
一人で無理ならば。
少しずつ、移動する。声を出して注意を引く。
後少しだけ、俺の方を見ろ。
此方に向かって一直線に突進してくる。剣を水平に構え、まっすぐ走る。ぶつかりあう手前で、またも姿を見失った。体の右側に衝撃。体当たりを食らった。倍はあろうかと言う体格だ。金属製の鎧を着ているにも関わらず、あっけなく弾き飛ばされた。ぶつかられた勢い、床に叩き付けられた衝撃で剣が手から離れ、広間の隅に飛んでいった。
「射て!」
傭兵の声が響いた。
いつの間にか灰狼を一掃した兵士達が、弓矢を手に取り囲んでいた。
誤射を覚悟した、一斉射撃。何本もの矢が黒い体を捉えた。
これならば。
――数瞬の後。大半の矢は、刺さること無く下に落ちた。確実に、当たっていたのに。
黒い体は、防御力も尋常ではなかった。
黒狼が周りを見た。無傷の兵士は少ないものの、十名以上残っている。
クレッドは、狼の目線を追った。その先にはフィルナーナがいた。
ケネアは、見据えた先に向かって突撃した。
間に割って入った。剣は、無い。盾では、止められない。
絶望的な決意が、脳裏をよぎった。
盾を投げつけた。同時に、腰から短剣を引きぬく。腕を広げ、狼に抱きつく。
刹那、重い何かがのしかかってきたかと思うと、左肩に激痛が走った。牙は金属製の肩当てを、たやすく噛砕いていた。
構わずに短剣を突きたてた。手応えはあった。
*
フィルナーナに出来る事は、殆どなかった。
黒狼の強さは桁違いだった。自分の援護程度では、却って周りの足を引っ張ってしまう。
逃げた所で逃げ切れるものではない。ただ、邪魔にならないように距離を取る事しかできなかった。
兵士達が一斉に矢を射る。ほとんど通用していない。
狼と目が合った。
クレッドが、飛び込んでくる。
盾を投げつけた。躱した。両手を広げる。左肩に噛み付いた。
それが目に入った時、祈った。
風の神の名を冠する、高位の祝福。
「ラフリアーナの投擲」は、王族でも使えた者は極稀で、風の祝福の中では最高位の絶技とされている。
成功どころか、挑戦したことすらない。
しかし、今。一度、たった一度で良いから。風の神に、祈った。
心の中で何かが動いた気がした。力が湧きあがり、翼から分離していくような錯覚に陥った。風が、自らの真上に真空の槍を形成した。
力量に見合わない祝福を行使したフィルナーナは、それだけでも激しく消耗した。
肩で息をしながら、黒狼を見定める。
残った気力を振り絞り、そのまま真っ直ぐに、腕を振り下ろした。
超音速で打ち出された投げ槍が、瞬きをする間もないうちに狼の体を貫いた。
*
ホルムヘッドは我が身の無力さを嘆いた。何も出来ない。盾の変わりになることすら。
右肩を食い破られた兵士を、助けようとした。無理矢理引きずり、距離を取る。
皮の鎧の肩当てが千切れきれず、かろうじて繋がり、背中側にぶら下がっていた。出血が激しい。服も、白い翼も朱に染まっていた。
治療するにも道具がない。技術もない。聞きかじりの知識しか持ち合わせていない。
短剣を使って、肩当てを切り離した。ついでに自分の服の袖を裂き、当て布にする。傷口を押さえる。この程度しか出来ない。
兵士は、布を左の手で抑えた。顔で、もういい、と言っている。
頷くと、傍らに投げ捨てていた槍を掴んだ。
戦況は――?
クレッドが黒狼と戦っている。いくら強くなったとはいえ、あれと一対一で勝てるはずがない。援護が必要だ。
助けに入った所で何の足しにもならない事は、十分に承知している。この場にいる誰よりも、戦いでは役に立たないだろう。それでも、何もしないわけにはいかない。
顔を上げたホルムヘッドは、その瞬間を見た。
肩に、牙を突きたてられるクレッド。
抱きかかえるようにして、短剣を突きたてたクレッド。
膝を折り、倒れそうになるクレッド。
全ては、細切れに、ゆっくりと。目に焼きついた。
叫んだ。そこに向かって走り出す。刹那、轟音と共に光の筋が見えた気がした。
それは黒い体を突き抜けた。ケネアは音にならない叫び声をあげると、のけぞるようにしてそこから離れた。
崩れ落ちそうだったクレッドは、その場に踏みとどまった。血が吹き出ている。
離れていても傷の状態がわかった。あれは。
――致命傷だ。
我が身の鈍足さを、これほど呪った事はなかった。
*
何かが光った気がした。
体にのしかかっていた重みが消えた。倒れそうだった体を、なんとか支える。金属製の重い鎧が恨めしかった。左肩と胸に激痛が走った。だが、傷を確認している暇はない。目の前には、巨大な黒い狼の姿があった。狼は此方を見てはいなかった。視線の先にはフィルナーナがいた。怒りと、殺意に満ちた目を向けていた。彼女は肩で息をしながらこちらを見ている。もう、動く気力も体力もない。そんな感じだった。
今にも飛びかからんばかりの勢い。体を沈め、飛び出す体勢になっている。クレッドは右手に残っていた最後の武器を振り上げると、それに飛びかかった。
巨大な獣と揉み合いになる。もう、戦法も何もない。残っている力を振り絞り、体力と精神力を全て継ぎこんで短剣を振るうだけだった。抵抗もすさまじい。爪や牙で攻撃をうけたが、痛みは感じなかった。
体が弾き飛ばされた。床に打ちつけられる。すでに限界を越えていた。
黒狼の体を再び矢が貫いた。より近距離からの一斉射撃。
続けて、兵士の一人が風の祝福を行使した。突風がその体を吹き飛ばす。床に叩きつけられ、二、三度転がると狼は動かなくなった。数拍の後、元の姿に戻っていく。
ホルムヘッドは走った。槍は捨てた。後二歩の所で、足を止めた。
向こう側。人の形に戻った女が、ゆっくりと立ちあがっていた。
驚愕。そして、恐怖。
(本当に……人間か?)
一糸まとわぬ姿。全身を赤黒く染めている。どれが自分の血で、どれが返り血なのかわからない位に。口から血を吐き出す。それは、自らの血か、噛みついた時の相手の血か。
もう、戦える状態ではないはずだ。なのに、その目に宿っていたのは。
背筋が凍るほどの殺気。動く事ができなかった。
「フィル……ナーナ」
呟き。ホルムヘッドにも、聞こえた。
ケネアは、謁見の間に背を向けた。追うものは、いなかった。
思い出したかのように、クレッドの傍らに跪く。左の肩当ては完全に砕け、首の部分も大きな亀裂。左胸部には穴が空き、血が吹き出ている。素手で、穴を塞ぐ。
――こんな事をしても、意味はない。
わかっている。わかっていたが、何もしないわけにはいかない。
――もう、助からない。
ホルムヘッドの頭脳は、冷酷に事実を告げていた。
諦められない。どうすればいい。どうすれば。
「クレッド! クレッド!」
フィルナーナは、何度もその名を呼んだ。あらん限りの大声で。何回も、何回も。
聞こえているのか、聞こえていないのか。目は、すでに焦点があっていなかった。
手を握ると、ほんの少しだけ反応があった。僅かだが、握り返してきたのがわかった。
「クレッド! しっかりして!
まだ、これからでしょ!? 私の戦いは、これからなの!
私を、ずっと、守ってくれるって、そう言ったじゃない!」
必死の呼びかけに、クレッドが、何か言おうとしていた。
口元に耳を近づけた。クレッドは、そうだな、と言った。
「俺は、フィナを……守る、んだ」
それが、最後の言葉になった。
ガスティール混成軍は壊滅した。兵力の半分は撤退、残りは投降か、討ち死にを選んだ。
戦いはフレイア・レナリア連合軍の勝利に終った。この戦いに参加した者の、四分の一が帰らぬ人となった。
――この日、アポソリマに例年よりも早い雪が降った。
頭ははっきりしているが、体に力が入らない。聞いたことがある。
フレイア・レナリア連合軍の勝利は決定的なものになったと、報告が入った。
兵士達が沸き立つ。我が軍の姿を一目見ようと、広間を出たところにある南向きの窓に殺到する。フィルナーナの顔を見て、勝利の喜びを分かち合おうとした。
咆哮が聞こえたのは、その時だった。
回りにいた兵士達が次々に崩れ落ちる。膝をつき、ひどい者は倒れ込んでいた。
二度目だからか、前よりは症状が軽い。何とか口を動かし、あらん限りの声を出した。
「来るぞ!」
何が、とまでは息が続かなかったが、言うまでも無い。敵が、来る。
それは直ぐに現実となった。灰色の影が次々と階段を駆け上り、窓際や入口付近にいた兵士に飛びかかっていった。狼だ。数はそれほど多くない。十かそこらだと思う。周辺を固めていた兵士は、三倍以上いる。
けれども、勝利に浮足立った瞬間にあの咆哮。数拍の間に、十数名の兵士が絶命、あるいは戦闘能力を失った。
悲鳴と怒号。一気に混乱に陥った。
灰色の狼が、王女目掛けて飛びかかってきた。
何とか体制を立て直すと、剣を突き出した。狙い違わず、一撃で倒すことが出来た。
玉座の前に立ち塞がり、仲間に大丈夫かと呼びかける。フィルナーナと、ホルムヘッドの返事が返ってくる。リウィーの返事がない。そう言えば少し前、窓の外を見に行ったはずだ。戻ってきていないのか。窓際にいるのか。確認する余裕はなかった。
見渡すと、既に乱戦状態に陥っていた。深手を負って喚く者。立ち直り、武器をとって戦う者。倒れた仲間を助け起こそうとする者。広間の外も混沌としていた。
その中を、黒い影が歩いている。
長い黒髪。薄手の服。手には何も持たず、足元は素足。無感情な目。あの女だ。
「何をしに来た? 戦は、もう決着がついただろう」
出来るだけ時間を稼ぎたかった。奇襲を受けたとは言え、ここには精鋭が揃っている。数も、倒れた者を差し引いても、互角以上だ。時を稼げば、形勢は逆転するはずだ。
「まだ、終わっていない」
ケネアは一本の指で、後ろにいる翼の姫を指した。
「殺せば、続けられる」
謁見の間で防備を固めていたのは正解だった。ここだから、敵は強襲するしか無かった。
個室にいたら暗殺されていただろう。
「続かない。もう終わりだ」
「問答をするつもりは、ない」
影がさらに踏み出す。後少し、時間を稼ぎたい。
「ケネア、だったな。だとしても、順番が違うだろう」
動きが止まる。数拍おいて、ああ、と答える。
「クレッド。そうだったな」
応じた。自分に対してどれ程の拘りを持っているのかは、わからない。だが、これでしばらくは引き付ける事が出来るはずだ。
突然、動いた。腕による刺突。盾で受け止める。交差気味に剣を横に振るう。期待はしていない。下がるか、受け止められるか。
左腕で受け止められた。構わず、押す。少しでも動きを止める。回りの仲間が、味方が反応してくれた。同じ遊撃隊、義勇兵から防衛に志願してくれた傭兵が、右側から斬撃を加える。察した兵士が、左側から槍を振るった。
両腕は塞いでいる。ケネアは後ろに飛び退き、躱した。
「囲め! 無理はするな!」
短い指示に反応し、左右から挟み込むように移動してくれた。
自らは防御に重点を置く。剣は鋭く。掴まれないように注意する。盾で死角を作るな。
頭の中で反芻しながら、攻防を続ける。
ケネアは、確かに強い。個人の戦闘力で見れば、クリスやマラーナをも凌駕するだろう。
けど、戦えない相手ではない。
あの夜とは条件が違う。部屋も広い。明るさも、まだ十分にある。味方の人数も多い。
踏み込み過ぎた兵が手傷を負って下がったが、その頃には周辺の戦いも優勢に傾いていた。包囲の輪に一人、二人と加わっていった。五人で取り囲んだ。これなら倒せる。
それを見て、何を思ったのか。女は突然、我が身を覆っていた布を引き裂いた。大振りな乳房が、顕になる。
次の瞬間。全身が、総毛立った。
本能が、目の前の女に対して恐れを抱いていた。
両手を床についたその姿は、一瞬の間をあけて変貌した。全身が黒い体毛で覆われる。体格も、何倍にも膨れ上がる。数拍の後。そこにいたのは、巨大な黒い狼だった。
目が、血のように赤い。全身から、禍々しい雰囲気がただよっている。
低い唸り声。圧倒的な存在感。
黒狼はそこにいるだけで、歴戦の戦士をも怯ませる雰囲気を身にまとっていた。
吼えた。あの咆哮だ。すぐ近くにいた為、正面で聞いてしまった。精神を集中するが、耐えきれず膝をついてしまった。
動いた。静止状態から爆発的な加速を見せたかと思うと、近くにいた兵士が崩れ落ちるように倒れた。一瞬で喉を食いちぎられていた。床に血溜まりを作り、兵士は絶命した。
「うおおぉぁぁぁ!」
雄叫びを上げた。動かない体を奮い立たせる。何とか立ち上がると、黒狼に向かって突進した。恐れはあるが、戦わなければやられる。今動かなければ、全員殺される。そう感じた。声に反応して、傭兵や他の兵士達も正気に戻った。
まだやれる。
接近して剣を振るった。振り切る前に、姿がかき消えた。兵士の槍撃が加わるが、掠りすらしなかった。
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兵士を助けようと斬りかかった。黒狼は一端大きく後ろに跳ねて間合いを取ると、値踏みするかのような視線を向けてきた。
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これは、この狼にとっては只の作業なのか。
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これならば。
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刹那、重い何かがのしかかってきたかと思うと、左肩に激痛が走った。牙は金属製の肩当てを、たやすく噛砕いていた。
構わずに短剣を突きたてた。手応えはあった。
*
フィルナーナに出来る事は、殆どなかった。
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狼と目が合った。
クレッドが、飛び込んでくる。
盾を投げつけた。躱した。両手を広げる。左肩に噛み付いた。
それが目に入った時、祈った。
風の神の名を冠する、高位の祝福。
「ラフリアーナの投擲」は、王族でも使えた者は極稀で、風の祝福の中では最高位の絶技とされている。
成功どころか、挑戦したことすらない。
しかし、今。一度、たった一度で良いから。風の神に、祈った。
心の中で何かが動いた気がした。力が湧きあがり、翼から分離していくような錯覚に陥った。風が、自らの真上に真空の槍を形成した。
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肩で息をしながら、黒狼を見定める。
残った気力を振り絞り、そのまま真っ直ぐに、腕を振り下ろした。
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*
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肩に、牙を突きたてられるクレッド。
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それは黒い体を突き抜けた。ケネアは音にならない叫び声をあげると、のけぞるようにしてそこから離れた。
崩れ落ちそうだったクレッドは、その場に踏みとどまった。血が吹き出ている。
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――致命傷だ。
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体が弾き飛ばされた。床に打ちつけられる。すでに限界を越えていた。
黒狼の体を再び矢が貫いた。より近距離からの一斉射撃。
続けて、兵士の一人が風の祝福を行使した。突風がその体を吹き飛ばす。床に叩きつけられ、二、三度転がると狼は動かなくなった。数拍の後、元の姿に戻っていく。
ホルムヘッドは走った。槍は捨てた。後二歩の所で、足を止めた。
向こう側。人の形に戻った女が、ゆっくりと立ちあがっていた。
驚愕。そして、恐怖。
(本当に……人間か?)
一糸まとわぬ姿。全身を赤黒く染めている。どれが自分の血で、どれが返り血なのかわからない位に。口から血を吐き出す。それは、自らの血か、噛みついた時の相手の血か。
もう、戦える状態ではないはずだ。なのに、その目に宿っていたのは。
背筋が凍るほどの殺気。動く事ができなかった。
「フィル……ナーナ」
呟き。ホルムヘッドにも、聞こえた。
ケネアは、謁見の間に背を向けた。追うものは、いなかった。
思い出したかのように、クレッドの傍らに跪く。左の肩当ては完全に砕け、首の部分も大きな亀裂。左胸部には穴が空き、血が吹き出ている。素手で、穴を塞ぐ。
――こんな事をしても、意味はない。
わかっている。わかっていたが、何もしないわけにはいかない。
――もう、助からない。
ホルムヘッドの頭脳は、冷酷に事実を告げていた。
諦められない。どうすればいい。どうすれば。
「クレッド! クレッド!」
フィルナーナは、何度もその名を呼んだ。あらん限りの大声で。何回も、何回も。
聞こえているのか、聞こえていないのか。目は、すでに焦点があっていなかった。
手を握ると、ほんの少しだけ反応があった。僅かだが、握り返してきたのがわかった。
「クレッド! しっかりして!
まだ、これからでしょ!? 私の戦いは、これからなの!
私を、ずっと、守ってくれるって、そう言ったじゃない!」
必死の呼びかけに、クレッドが、何か言おうとしていた。
口元に耳を近づけた。クレッドは、そうだな、と言った。
「俺は、フィナを……守る、んだ」
それが、最後の言葉になった。
ガスティール混成軍は壊滅した。兵力の半分は撤退、残りは投降か、討ち死にを選んだ。
戦いはフレイア・レナリア連合軍の勝利に終った。この戦いに参加した者の、四分の一が帰らぬ人となった。
――この日、アポソリマに例年よりも早い雪が降った。
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