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第四章
1 彼女は想いを口にした
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夜の間降り続けた雨は、日が昇る頃にはすっかりと上がっていた。雨の雫が残る中、太陽の光を受け、カルデラ内の森林は輝きを放つ。
そんな清々しさとは正反対に、アポソリマ王城内は重苦しい空気に包まれていた。
昨晩、城が襲撃された。多数の死傷者と目撃者。強襲の事実を隠すことは不可能だった。
しかし、フェルディナン四世が崩御した事は秘された。
上層階にいた者は殆ど殺され、生き残ったのはフィルナーナと旅の仲間達だけだった。
前後の対策を話し合うために、この事実を三名に打ち明けた。政務を取り仕切る老宰相と、フレイア正規軍の将軍。将軍補佐官の三人だ。この緊急事態に夜を徹して善後策が話し合われた。国王は夜襲による心労から急病となり、臥せっているという事にした。併せてフィルナーナを緊急的に摂政とし、朝一番でこの事を周知した。
非常に苦しい言い訳ではあるが、崩御した事実を認めれば一気に士気が崩壊してしまいかねない。上層階の遺体を処理した兵士や、片付けを行った侍女から様々な噂が漏れたが、強弁するしかなかった。
その日も敵軍は朝から攻撃を仕掛けてきた。
積極的に攻めてくるわけではなく、舌戦で暗殺の事実を触れて回った。
この事を予想していたホルムヘッドの進言により、フィルナーナは前線に赴き、崩御の事実を否定し士気高揚に勤めた。
王の死を隠し、父を失った悲しみに浸る間もなく、目まぐるしい一日が過ぎさった。
翌日も、その翌日も、同じ事が繰り返された。
王陛下は生きているのか。レナリアは動いてくれているのか。間に合うのか。
そんな声が日に日に高まっていった。
そんな折り、リウィーが五人で話したいことがあると言い出した。
忙しいのは事実だったが、それは自分にとっても大切な時間だ。今や気を許して話が出来る相手は、旅を共にした仲間達だけだった。
残務を追えてから客間に集まった。寝台がある部屋は久しぶりに見た気がした。あの日以来、自室に戻っていない。睡眠も執務室でしばらく目を閉じた程度だ。
足元がおぼつかない様子を見て「疲れている時にごめんね」と、リウィーは申し訳無さそうにしていた。
「大丈夫、です。私も、みなさんと話がしたいと思っていました」
「ちゃんと休んでる? 少しは眠らないと」
はい、と返して微笑んだ。無理矢理の作り笑いだが。今は眠ろうとしても、眠れない。
「それより、話というのは」
「ああ、うん。ちょっとね、様子を見に行ったほうが良いと、思うんだ。レナリアの」
援軍がどこまで来ているか、確かめるべきだと言っているのだろう。
アポソリマの民は、本当に援軍が来るのかと疑心暗鬼になっている。所在が確認できれば、不安を払拭できるはずだ。道案内によって進軍速度の向上も期待できる。
問題は、誰が行くのか。クリスティーネやクレッドは、今や貴重な戦力だ。ここで抜けられると遊撃隊が一つ崩壊する事に等しい。兵士も戦力は一人でも多いほうがよいし、一般市民を行かせるわけにもいかない。その事が表情に出ていたのか、少女は陽気に言った。
「私一人で行くよ」
「けど、それは」
「私達の誰かが行くしか無いでしょ。トカゲやクレッドは、頑張って貰わないと、駄目だし。ヒゲは……悪いけど足手まといかな。一人のほうが早いし安全」
確かに、単独で行く方が効率は良い。彼女は元々、集団戦には参加していないし、早さ、隠密性は最も優れているだろう。とはいえ、全く危険が無いとは言い切れない。
狼に変身する者達に察知されたとしたら。一人では、太刀打ちできないだろう。
それに、もしかすると。……でも、もしそうだとしたら、それで良いのかもしれない。
そこまで考えた時、手を握られた。
「絶対、帰ってくるから。約束する」
フィルナーナは自分の心を恥じた。一瞬だけ、帰ってこないかも、と思った。その方が良いとすら、考えたのだ。
「わかりました。お願いします」
握り返した手に、謝罪の意を込めた。手は、もう少しだけ強く、握り返された。
「それから、さ。狼に変身する。あれについては、たぶん大丈夫だよ」
どこか言いよどんでいる。何のことだろう。
「あの。ここに着く前に、私と戦ってた。同じぐらいの背格好の。
この前の、夜。来てた。話をしたよ。それでね、私の、姉なんだ。双子の」
やはり、そうか。以前見た時にそうではないかと感じていた。名前も知っていたし、他人の空似にしては似すぎている。周りを見たが、皆大体、同じような反応だった。
「あの、だから。同じ、一族なんだ。フィナの、お父さんを。
その、黒髪の女も。たぶん同じ一族。……私と」
「狼の民」
ホルムヘッドが補足した。リウィーは小さく頷いた。
表情から胸の内を想像し、いたたまれない気持ちになった。
「そう、でしたか。お姉様が、向こう側に。それは辛い事ですね」
「それ、だけ?」
それだけ、とは。何か、おかしな事を言ってしまったのだろうか。
「えっと。私も。変身できるんだよ? 狼に。敵が、そうだろうと分かってて。
黙ってたし。もっと早く打ち明けてたら、お父さんも、もしかしたら」
「そんなわけあるか」
クレッドが即座に否定した。
「あれは、知っていればどうにかなるってものじゃない。完全に、俺の力不足だ」
「私達の、ね」
クリスティーネが訂正した。
「あの時点で、襲撃はある程度予想できていた。フレイアの兵士も厳重に警戒していた。貴女一人の身の上話で結果は変わると思うのは、思い上がりね」
「ぐ、この……トカゲのクセに」
顔を真っ赤にして震えていた。反論しようとして言葉がないようだ。クリスティーネが、それを見てわざとらしく笑った。
そうか。ずっと苦しんでいたのだ。秘密にして、葛藤していたのだと思うと、切なくなった。小さな体を、そっと抱きしめた。
「話してくれて、ありがとうございます」
少女は一瞬、身体を強張らせたが、直ぐに力を抜き、身体を預けてくれた。少しだけ泣いていた。その頭を、そっと撫でた。
「うん、ありがとう。聞いてくれて。だからね、狼になれば大丈夫。絶対に追いつかれないよ」
今晩、このまま発つつもりだ、変身する所を見てほしいと、囁くように言われた。
もう、秘密は無しにしたいから。
変身といっても服まで変化するわけではない。狼の姿になると荷物を持てないので、服や必要な道具を袋に入れて、身体にくくりつけてほしいとお願いされた。
僅かな準備時間を空けて、フィルナーナとクリスティーネの前で、少女は変身した。白く、美しい狼がそこにいた。既に袋に詰めてあった荷物を、指定された通りに身体に結びつけた。
少しだけ、名残惜しそうに頬を寄せると、白い狼は闇の中に消えていった。
*
それからも、忙しい日々は続いた。
ガスティールの攻撃は連日、止まらない。この日も、遊撃部隊と正門防衛部隊に十数名の死者が出た。やるべき事は山のようにある。まともな食事を摂る暇もなく、ついには真っ直ぐ歩く事すら困難になった。側近や侍女たちが身を案じ、休むよう促してきた。一人で食堂の机に座る。固形物は胃が受け付けず、重湯のような粥を、皿半分だけ無理矢理流し込んだ。
上層階にある自室に戻る気力すらわかず、一階の空いた部屋に寝台を用意してもらった。
疲れた。頭が重い。目を閉じる。……眠れない。
一人でいると、あの瞬間を思い出す。無心になれない。振り払うために、別の事を思い浮かべようとする。そうすると、これから先の事を考えずにはいられなくなる。
眠らないと。今、私が倒れてしまったら。今度こそ、フレイアは。
思考が頭の中で渦を巻き、ますます眠れなくなる。考えるのを止めようと、耳に入る音に集中する事にした。
――誰かが、廊下を歩く音。
――扉を閉める音。
――秋の、虫の声が聞こえる。
――風の音。風を切る音。
今は、風は吹いていない。この部屋は、北側の庭に近い場所にある。そこに誰かいる。
旅に出てから、よく聞くようになった気がする。初めはどこか頼りなく。日が経つにつれ、鋭さを増していった。
フィルナーナは起き上がると、そっと部屋を抜け出した。
月明かりの中、一人、剣を振っている男がいた。
ヒュン、ヒュンと、小気味の良い響き。時に緩やかに、時に鋭い、唄のような律動。音だけで、誰が振るっているのか、分かった。
翼も、鱗も持たない戦士。
目を閉じ、聞き入る。剣が空を斬る時の、風の揺れを感じる。
強さとか技術はよくわからないが、風の揺れからなんとなく違いがわかる。
上手く表現する事はできないが、空を斬る「良い風」は、力強さでも、速さでも、正確さでもない。何かはわからないが、彼の剣にはそれがある。
風が止んだ。剣を鞘に収める音。目を開けると、クレッドが此方に向かって歩いていた。
「フィナ? どうした、大丈夫か?」
人がいる時は、ぎこちない敬語か、あまり喋らない。旅の仲間だけの時は、道中の話し方になる。本人は、意識していないだろうけど。
「お疲れ様」
問いには答えず、鍛錬を労う。こんな時に、こんな時だからこそ、少しでも強くあろうとしている、この人を。
「眠れないのか?」
「少し、寝ました」
嘘だ。眠れない。けど、こう言わないと心配させるだけだ。どう捉えられたのかわからなかったが、彼は何も言わず、腰に下げていた布で汗を拭った。少しだけ、沈黙が流れた。
「もう、三日くらい経ったか。どこまで行ったかな」
狼の少女。無理をしていなければ、いいけど。
「白い狼か。俺、見た事ないんだよな。どんなだった?」
「……綺麗、でした」
真っ白な体毛。しなやかな身体。すらっと伸びる鼻筋に、しっとりとした黒い鼻鏡。目の色は元のまま、右が緑で左が青の、オッドアイ。
「俺にも見せてくれたら良かったのに。俺だけだろ、見たこと無いの」
「彼女は、リウィーは。貴方だけには、見られたくなかったのでしょう」
何故、と問われた。
鈍感な人だ、と思った。
リウィーのそれが、どういうものなのかは、わからない。ただの好意なのか、憧憬なのか。本物の恋なのか。
自分の気持も、よくわからない。淡い気持ちは、ある。さりとて、それが本物だったとしても、とても許される立場ではない。
この戦争がどうなるのかわからないが、運命は。いや、使命は、決まっている。個人の色恋など、入り込む余地はない。
もう、秘密は無しにしたいから。
ふと、声が聞こえた気がした。
この人に、あえて伝えていない事がある。秘密というほどの物ではないのかもしれないが、知られたくないと思い、伝えていなかった。言ったから何が変わるわけではないけど。今を逃したら、自分の口から伝えることは出来なくなる気がした。
「少し、お話したいことがあります」
暦は、夏の終りを告げている。山では一足早く秋が訪れ、風はやがて来る長い冬の気配を運んでいた。
忍んで、元の部屋に戻った。侍女とすれ違ったが、何も言われなかった。
足元が定まらず、部屋に戻ると寝台に横になるよう促された。クレッドは枕元に椅子おき、そこに腰を降ろした。
「フレイアと……私と、レナリアの事、です」
横になってから、ゆっくりと話した。
あの日、レナリア王カフェルと、どういった話をしたのか。父に手渡した書状に、どういった内容が記されていたのか。
自分が死ねば、この話はなかった事になる。
生きていても、表面上は大使として。実質人質として、レナリアに送られることになる。
そのうち、レナリア王家の者か、有力者か。誰かと恋に落ちたことにして、結婚する。
フレイアにはレナリア軍が常駐し、内在戦力の強化に務め、対南国家の最前線になる。表向きは、風の民と嵐の民との戦争。実質、レナリアとガスティールの代理戦争は、長く続くことになるだろう。
そういった話だ。
ホルムヘッドは、この事を知っている。けど、私は貴方には、知られたくなかった。
それを察して、言わないでいてくれたのだと思う。
最後に、ごめんなさい、と付け足した。
「謝る必要はないよ。説明しなくちゃいけない事、でもないだろうし。
けど、何故今、俺にこの話を?」
「秘密は、無しにしたい……から」
彼は、リウィーと同じか、と呟いた。
「俺は、別にないかな。秘密にしている事」
ああ、でも、と付け足し、子どもの頃の話を始めた。レイラルという島国の生まれであることや、家族が事故で死に、身を立てる為に一人でレナリアに来たこと。使用人をしながら、騎士を目指したことなどを話してくれた。
「これって、身の上話か。秘密でも何でもないかな」
そう言って、微笑んだ。暗くて顔は見えないが、そんな気がした。
腕を伸ばし、手を探り当て、そっと握った。
「大丈夫だよ。そんな話、聞いても聞かなくても。変わらない」
変わらない。でも、国は変わっていく。変わらないと、生き残れない。
「俺はさ、騎士になりたかった。王様に仕えて、手柄を立てて。でも、いつからか、俺は騎士にはなれないって思った。
王様に仕えるより、友達を助けたい。仲間の為に働きたい。そう思うようになった。
……今は、君を守るために。戦いたい」
フィルナーナは、思った。それこそ、本物の。あるべき姿ではないか、と。
その精神を持つ者こそ。
「貴方は……もう、騎士、だと思います」
少し照れた感じで、そうかな、と返事が返る。
「騎士、か。そうか」
何度か繰り返し、確認するかのように呟く。
「――うん。なら俺は、フィナを守る騎士だな。
戦争が続くとしても。死なせやしない。守るよ。俺が、ずっと」
嬉しい、と思った。純粋に、嬉しかった。
それが現実的ではないとしても。それを願うことが、我儘だとしても。
ありがとうございます、と、言葉が溢れた。
戦争は、続く。大国に翻弄され、どちらかが滅びるまで。
その時が来るまで。守って。くれる。
そう、なのか。それでいいのか。
私は、何も出来ないのか。守られる事しか、出来ないのか。
心の中で、何かが、噛み合ったような気がした。
「風の民と……嵐の民は、昔は一つの国だった、といいます。兄弟、のようなもの」
感じたことを、少しずつ言葉にする。
「ガスティールは、風の民を。レナリアは、嵐の民を。滅ぼそうと、するのかもしれません。でも」
本当に、そうなるのか。それは、受け入れるしか、無いのか。
――違う。
大国の思惑に、ただ屈するだけで、良いはずがない。
思い通りには、させない。
負けるわけには、いかない。
「でも。そうは、させません」
父は、もういない。二人の兄も。姉達の、行方はしれない。
――誰が?
「……私が。私が必ず、止めてみせます」
これが、彼の想いに報いる事になるのかは、わからない。
けれど。これしか、ない。
想いが噛み合い、形になった気がした。
大切な人の前で、言葉にする。
「これは、私の誓いです」
具体的な道筋は、まだ見えない。しかし、目指すべき頂きは、見えた気がした。
クレッドは、そうか、と何度も頷いた。
「なら、俺も誓う。フィナがその想いを忘れない限り。俺は貴女の騎士でいる事を、誓う」
嬉しかった。
お互いに人生を掛けた事を、誓い合う。普通の男女なら、求婚しあい、受け入れあうようなものだろう。
それでも、結ばれる事は決して無い。背負っているものが、それを許さない。
だからこそ。この誓いで、心だけでも結ばれたような気がした。
安心すると、視界がぼやけた。ゆっくりと、意識が落ちていく。
まどろみの中で、フィルナーナは夢を見た。
そんな清々しさとは正反対に、アポソリマ王城内は重苦しい空気に包まれていた。
昨晩、城が襲撃された。多数の死傷者と目撃者。強襲の事実を隠すことは不可能だった。
しかし、フェルディナン四世が崩御した事は秘された。
上層階にいた者は殆ど殺され、生き残ったのはフィルナーナと旅の仲間達だけだった。
前後の対策を話し合うために、この事実を三名に打ち明けた。政務を取り仕切る老宰相と、フレイア正規軍の将軍。将軍補佐官の三人だ。この緊急事態に夜を徹して善後策が話し合われた。国王は夜襲による心労から急病となり、臥せっているという事にした。併せてフィルナーナを緊急的に摂政とし、朝一番でこの事を周知した。
非常に苦しい言い訳ではあるが、崩御した事実を認めれば一気に士気が崩壊してしまいかねない。上層階の遺体を処理した兵士や、片付けを行った侍女から様々な噂が漏れたが、強弁するしかなかった。
その日も敵軍は朝から攻撃を仕掛けてきた。
積極的に攻めてくるわけではなく、舌戦で暗殺の事実を触れて回った。
この事を予想していたホルムヘッドの進言により、フィルナーナは前線に赴き、崩御の事実を否定し士気高揚に勤めた。
王の死を隠し、父を失った悲しみに浸る間もなく、目まぐるしい一日が過ぎさった。
翌日も、その翌日も、同じ事が繰り返された。
王陛下は生きているのか。レナリアは動いてくれているのか。間に合うのか。
そんな声が日に日に高まっていった。
そんな折り、リウィーが五人で話したいことがあると言い出した。
忙しいのは事実だったが、それは自分にとっても大切な時間だ。今や気を許して話が出来る相手は、旅を共にした仲間達だけだった。
残務を追えてから客間に集まった。寝台がある部屋は久しぶりに見た気がした。あの日以来、自室に戻っていない。睡眠も執務室でしばらく目を閉じた程度だ。
足元がおぼつかない様子を見て「疲れている時にごめんね」と、リウィーは申し訳無さそうにしていた。
「大丈夫、です。私も、みなさんと話がしたいと思っていました」
「ちゃんと休んでる? 少しは眠らないと」
はい、と返して微笑んだ。無理矢理の作り笑いだが。今は眠ろうとしても、眠れない。
「それより、話というのは」
「ああ、うん。ちょっとね、様子を見に行ったほうが良いと、思うんだ。レナリアの」
援軍がどこまで来ているか、確かめるべきだと言っているのだろう。
アポソリマの民は、本当に援軍が来るのかと疑心暗鬼になっている。所在が確認できれば、不安を払拭できるはずだ。道案内によって進軍速度の向上も期待できる。
問題は、誰が行くのか。クリスティーネやクレッドは、今や貴重な戦力だ。ここで抜けられると遊撃隊が一つ崩壊する事に等しい。兵士も戦力は一人でも多いほうがよいし、一般市民を行かせるわけにもいかない。その事が表情に出ていたのか、少女は陽気に言った。
「私一人で行くよ」
「けど、それは」
「私達の誰かが行くしか無いでしょ。トカゲやクレッドは、頑張って貰わないと、駄目だし。ヒゲは……悪いけど足手まといかな。一人のほうが早いし安全」
確かに、単独で行く方が効率は良い。彼女は元々、集団戦には参加していないし、早さ、隠密性は最も優れているだろう。とはいえ、全く危険が無いとは言い切れない。
狼に変身する者達に察知されたとしたら。一人では、太刀打ちできないだろう。
それに、もしかすると。……でも、もしそうだとしたら、それで良いのかもしれない。
そこまで考えた時、手を握られた。
「絶対、帰ってくるから。約束する」
フィルナーナは自分の心を恥じた。一瞬だけ、帰ってこないかも、と思った。その方が良いとすら、考えたのだ。
「わかりました。お願いします」
握り返した手に、謝罪の意を込めた。手は、もう少しだけ強く、握り返された。
「それから、さ。狼に変身する。あれについては、たぶん大丈夫だよ」
どこか言いよどんでいる。何のことだろう。
「あの。ここに着く前に、私と戦ってた。同じぐらいの背格好の。
この前の、夜。来てた。話をしたよ。それでね、私の、姉なんだ。双子の」
やはり、そうか。以前見た時にそうではないかと感じていた。名前も知っていたし、他人の空似にしては似すぎている。周りを見たが、皆大体、同じような反応だった。
「あの、だから。同じ、一族なんだ。フィナの、お父さんを。
その、黒髪の女も。たぶん同じ一族。……私と」
「狼の民」
ホルムヘッドが補足した。リウィーは小さく頷いた。
表情から胸の内を想像し、いたたまれない気持ちになった。
「そう、でしたか。お姉様が、向こう側に。それは辛い事ですね」
「それ、だけ?」
それだけ、とは。何か、おかしな事を言ってしまったのだろうか。
「えっと。私も。変身できるんだよ? 狼に。敵が、そうだろうと分かってて。
黙ってたし。もっと早く打ち明けてたら、お父さんも、もしかしたら」
「そんなわけあるか」
クレッドが即座に否定した。
「あれは、知っていればどうにかなるってものじゃない。完全に、俺の力不足だ」
「私達の、ね」
クリスティーネが訂正した。
「あの時点で、襲撃はある程度予想できていた。フレイアの兵士も厳重に警戒していた。貴女一人の身の上話で結果は変わると思うのは、思い上がりね」
「ぐ、この……トカゲのクセに」
顔を真っ赤にして震えていた。反論しようとして言葉がないようだ。クリスティーネが、それを見てわざとらしく笑った。
そうか。ずっと苦しんでいたのだ。秘密にして、葛藤していたのだと思うと、切なくなった。小さな体を、そっと抱きしめた。
「話してくれて、ありがとうございます」
少女は一瞬、身体を強張らせたが、直ぐに力を抜き、身体を預けてくれた。少しだけ泣いていた。その頭を、そっと撫でた。
「うん、ありがとう。聞いてくれて。だからね、狼になれば大丈夫。絶対に追いつかれないよ」
今晩、このまま発つつもりだ、変身する所を見てほしいと、囁くように言われた。
もう、秘密は無しにしたいから。
変身といっても服まで変化するわけではない。狼の姿になると荷物を持てないので、服や必要な道具を袋に入れて、身体にくくりつけてほしいとお願いされた。
僅かな準備時間を空けて、フィルナーナとクリスティーネの前で、少女は変身した。白く、美しい狼がそこにいた。既に袋に詰めてあった荷物を、指定された通りに身体に結びつけた。
少しだけ、名残惜しそうに頬を寄せると、白い狼は闇の中に消えていった。
*
それからも、忙しい日々は続いた。
ガスティールの攻撃は連日、止まらない。この日も、遊撃部隊と正門防衛部隊に十数名の死者が出た。やるべき事は山のようにある。まともな食事を摂る暇もなく、ついには真っ直ぐ歩く事すら困難になった。側近や侍女たちが身を案じ、休むよう促してきた。一人で食堂の机に座る。固形物は胃が受け付けず、重湯のような粥を、皿半分だけ無理矢理流し込んだ。
上層階にある自室に戻る気力すらわかず、一階の空いた部屋に寝台を用意してもらった。
疲れた。頭が重い。目を閉じる。……眠れない。
一人でいると、あの瞬間を思い出す。無心になれない。振り払うために、別の事を思い浮かべようとする。そうすると、これから先の事を考えずにはいられなくなる。
眠らないと。今、私が倒れてしまったら。今度こそ、フレイアは。
思考が頭の中で渦を巻き、ますます眠れなくなる。考えるのを止めようと、耳に入る音に集中する事にした。
――誰かが、廊下を歩く音。
――扉を閉める音。
――秋の、虫の声が聞こえる。
――風の音。風を切る音。
今は、風は吹いていない。この部屋は、北側の庭に近い場所にある。そこに誰かいる。
旅に出てから、よく聞くようになった気がする。初めはどこか頼りなく。日が経つにつれ、鋭さを増していった。
フィルナーナは起き上がると、そっと部屋を抜け出した。
月明かりの中、一人、剣を振っている男がいた。
ヒュン、ヒュンと、小気味の良い響き。時に緩やかに、時に鋭い、唄のような律動。音だけで、誰が振るっているのか、分かった。
翼も、鱗も持たない戦士。
目を閉じ、聞き入る。剣が空を斬る時の、風の揺れを感じる。
強さとか技術はよくわからないが、風の揺れからなんとなく違いがわかる。
上手く表現する事はできないが、空を斬る「良い風」は、力強さでも、速さでも、正確さでもない。何かはわからないが、彼の剣にはそれがある。
風が止んだ。剣を鞘に収める音。目を開けると、クレッドが此方に向かって歩いていた。
「フィナ? どうした、大丈夫か?」
人がいる時は、ぎこちない敬語か、あまり喋らない。旅の仲間だけの時は、道中の話し方になる。本人は、意識していないだろうけど。
「お疲れ様」
問いには答えず、鍛錬を労う。こんな時に、こんな時だからこそ、少しでも強くあろうとしている、この人を。
「眠れないのか?」
「少し、寝ました」
嘘だ。眠れない。けど、こう言わないと心配させるだけだ。どう捉えられたのかわからなかったが、彼は何も言わず、腰に下げていた布で汗を拭った。少しだけ、沈黙が流れた。
「もう、三日くらい経ったか。どこまで行ったかな」
狼の少女。無理をしていなければ、いいけど。
「白い狼か。俺、見た事ないんだよな。どんなだった?」
「……綺麗、でした」
真っ白な体毛。しなやかな身体。すらっと伸びる鼻筋に、しっとりとした黒い鼻鏡。目の色は元のまま、右が緑で左が青の、オッドアイ。
「俺にも見せてくれたら良かったのに。俺だけだろ、見たこと無いの」
「彼女は、リウィーは。貴方だけには、見られたくなかったのでしょう」
何故、と問われた。
鈍感な人だ、と思った。
リウィーのそれが、どういうものなのかは、わからない。ただの好意なのか、憧憬なのか。本物の恋なのか。
自分の気持も、よくわからない。淡い気持ちは、ある。さりとて、それが本物だったとしても、とても許される立場ではない。
この戦争がどうなるのかわからないが、運命は。いや、使命は、決まっている。個人の色恋など、入り込む余地はない。
もう、秘密は無しにしたいから。
ふと、声が聞こえた気がした。
この人に、あえて伝えていない事がある。秘密というほどの物ではないのかもしれないが、知られたくないと思い、伝えていなかった。言ったから何が変わるわけではないけど。今を逃したら、自分の口から伝えることは出来なくなる気がした。
「少し、お話したいことがあります」
暦は、夏の終りを告げている。山では一足早く秋が訪れ、風はやがて来る長い冬の気配を運んでいた。
忍んで、元の部屋に戻った。侍女とすれ違ったが、何も言われなかった。
足元が定まらず、部屋に戻ると寝台に横になるよう促された。クレッドは枕元に椅子おき、そこに腰を降ろした。
「フレイアと……私と、レナリアの事、です」
横になってから、ゆっくりと話した。
あの日、レナリア王カフェルと、どういった話をしたのか。父に手渡した書状に、どういった内容が記されていたのか。
自分が死ねば、この話はなかった事になる。
生きていても、表面上は大使として。実質人質として、レナリアに送られることになる。
そのうち、レナリア王家の者か、有力者か。誰かと恋に落ちたことにして、結婚する。
フレイアにはレナリア軍が常駐し、内在戦力の強化に務め、対南国家の最前線になる。表向きは、風の民と嵐の民との戦争。実質、レナリアとガスティールの代理戦争は、長く続くことになるだろう。
そういった話だ。
ホルムヘッドは、この事を知っている。けど、私は貴方には、知られたくなかった。
それを察して、言わないでいてくれたのだと思う。
最後に、ごめんなさい、と付け足した。
「謝る必要はないよ。説明しなくちゃいけない事、でもないだろうし。
けど、何故今、俺にこの話を?」
「秘密は、無しにしたい……から」
彼は、リウィーと同じか、と呟いた。
「俺は、別にないかな。秘密にしている事」
ああ、でも、と付け足し、子どもの頃の話を始めた。レイラルという島国の生まれであることや、家族が事故で死に、身を立てる為に一人でレナリアに来たこと。使用人をしながら、騎士を目指したことなどを話してくれた。
「これって、身の上話か。秘密でも何でもないかな」
そう言って、微笑んだ。暗くて顔は見えないが、そんな気がした。
腕を伸ばし、手を探り当て、そっと握った。
「大丈夫だよ。そんな話、聞いても聞かなくても。変わらない」
変わらない。でも、国は変わっていく。変わらないと、生き残れない。
「俺はさ、騎士になりたかった。王様に仕えて、手柄を立てて。でも、いつからか、俺は騎士にはなれないって思った。
王様に仕えるより、友達を助けたい。仲間の為に働きたい。そう思うようになった。
……今は、君を守るために。戦いたい」
フィルナーナは、思った。それこそ、本物の。あるべき姿ではないか、と。
その精神を持つ者こそ。
「貴方は……もう、騎士、だと思います」
少し照れた感じで、そうかな、と返事が返る。
「騎士、か。そうか」
何度か繰り返し、確認するかのように呟く。
「――うん。なら俺は、フィナを守る騎士だな。
戦争が続くとしても。死なせやしない。守るよ。俺が、ずっと」
嬉しい、と思った。純粋に、嬉しかった。
それが現実的ではないとしても。それを願うことが、我儘だとしても。
ありがとうございます、と、言葉が溢れた。
戦争は、続く。大国に翻弄され、どちらかが滅びるまで。
その時が来るまで。守って。くれる。
そう、なのか。それでいいのか。
私は、何も出来ないのか。守られる事しか、出来ないのか。
心の中で、何かが、噛み合ったような気がした。
「風の民と……嵐の民は、昔は一つの国だった、といいます。兄弟、のようなもの」
感じたことを、少しずつ言葉にする。
「ガスティールは、風の民を。レナリアは、嵐の民を。滅ぼそうと、するのかもしれません。でも」
本当に、そうなるのか。それは、受け入れるしか、無いのか。
――違う。
大国の思惑に、ただ屈するだけで、良いはずがない。
思い通りには、させない。
負けるわけには、いかない。
「でも。そうは、させません」
父は、もういない。二人の兄も。姉達の、行方はしれない。
――誰が?
「……私が。私が必ず、止めてみせます」
これが、彼の想いに報いる事になるのかは、わからない。
けれど。これしか、ない。
想いが噛み合い、形になった気がした。
大切な人の前で、言葉にする。
「これは、私の誓いです」
具体的な道筋は、まだ見えない。しかし、目指すべき頂きは、見えた気がした。
クレッドは、そうか、と何度も頷いた。
「なら、俺も誓う。フィナがその想いを忘れない限り。俺は貴女の騎士でいる事を、誓う」
嬉しかった。
お互いに人生を掛けた事を、誓い合う。普通の男女なら、求婚しあい、受け入れあうようなものだろう。
それでも、結ばれる事は決して無い。背負っているものが、それを許さない。
だからこそ。この誓いで、心だけでも結ばれたような気がした。
安心すると、視界がぼやけた。ゆっくりと、意識が落ちていく。
まどろみの中で、フィルナーナは夢を見た。
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