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第二章

3 彼女はあやふやな口約束をした

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 城壁を越えると賑やかな町並みが広がっていた。正面の通りはなだらかな登りで、丘の上にもう一つの城壁。そこに王城の尖塔が一際高くそびえている。

 ようやく、ここまで辿り着いた。旅の目的からするとまだまだこれからだが、最初の関門はくぐり抜けることが出来たと、フィルナーナは思った。



 あの夜、隣の部屋にいた二人も襲撃を受けていた。クリスティーネが助けに入ったこともあり、撃退には成功したが、流石に大きな騒ぎになってしまった。

 このまま此処に留まると憲兵に捕まってしまうかもしれない。迷惑料を押し付けるようにして宿を出た。昼のうちに調達した馬は無事で、馬舎に繋いだままであった。

 幸いに見咎められる事は無く、街を離れる事が出来た。

 ネートンから二日ほど北上のち、東に折れる。更に二日進むと農村が見え始め、次第に街道沿いに宿や酒場が増えはじめた。様々な店が軒を連ねるようになっていき、最終的には、ほぼ一日がかりで王都外壁に到達した。

 ホルムヘッドの説明によると、ハイルナックは二重の城壁に囲まれた都市で、北側は森林と平原が広がっていて狩猟場。南側は内海に面しており、港町が広がっている。東西は主に農地で、主要な街道が通っており、このような巨大な宿場町が形成されている、という事だった。

 母国フレイアは国土の殆どが山岳地帯なので、街の規模は大きくなりづらい。始めは物珍しさも相まって街の様子を眺めていたが、なかなか城壁に辿り着かないので、最後の方には少し疲れてしまった。

 やっとの事で辿り着いた西門は、ほぼ開け放たれていた。衛兵はいるものの、それ程厳重な警備はされておらず、何事もなく中に入ることが出来た。王城や庁舎、貴族の館などはほぼ全て内壁内にあり、そこの出入りは流石に厳しい。外壁側は商業地が多く、出入りの規制が厳しすぎると経済が停滞してしまうという理由で、平時はゆったりしている。

 全く警戒していない、という訳ではない。怪しい人物や過度な武装をしている人間には、衛兵が話しかけるし、荷が多いと検査もされる。宿に泊まっても怪しい人物は通報されるし、場合によっては身分証明や、滞在目的を問われる事もあるそうだ。



 城壁内に入ると、早々に宿を決めた。ホルムヘッドは早速、実家に向かうことになった。

「たぶん、今夜は帰らない。明日は適当に観光でもしていてくれ」

 そう言い残すと、一人馬に乗って内壁の方へ去っていった。



 内心、焦っていた。フレイアを発ってから、一ヶ月近く経過している。出発した時は雨季だった季節は、もうすぐ太陽が最も暑い月、炎陽節を迎えようとしていた。

 当たり前だが、戦況は全くわからない。出発直前の見立ては「持って三ヶ月」だった。ここから母国の王都まで、まともに歩けば一ヶ月はかかる。馬を併用したとしても軍隊の足だと同じ程度か、最悪もう半月ほどの時間を見なければならない。即座に軍を動かせる見込みは低いので、準備期間も必要だ。諸々勘案すると、動くのは少しでも早い方が良い。

「三ヶ月」の見立ては、かなり確度が高い。というのも、三ヶ月……今から二ヶ月後には、季節は秋を迎える。フレイアは山国なので、冬の訪れが早い。既に王国南部をほぼ制圧されている状態なので、農地の面積が三分の二に減少している。収穫は今からだが、取れ高は確実に減少し、食糧事情は急速に悪化すると予想されている。

 他にも、降雪が早いと行軍の妨げになる。そうなれば援軍の到着が遅れることになる。味方の士気を維持するのもその辺りが限界だろう、という予測だった。

 なんとか期限内に援軍を連れて戻る。一日でも早く。

 考えれば考えるほど焦ってしまう。長旅で身体は疲れていたが、この日も寝付けない夜を過ごすことになった。



    *



 明け方になってようやく寝付いたせいか、目が覚めた時にはもう日が高くなっていた。

 起き上がると、窓から外を眺めていたリウィーが振り返り、にこやかに「おはよー」と挨拶をよこした。

「おはよう、ございます。今の刻限って」

「んー、もうすぐ正午かな。今日はいい天気だよ」

 けらけらと笑っている。ハイルナックまでの旅の間に懐かれたというか、仲良くなったと思う。よく笑いかけてくれる。彼女なりに気遣ってくれているのだろう、努めて明るく振る舞ってくれているのが良く分かる。その笑顔にずいぶん助けられていた。

「起こしてくれたら、良かったのに」

「トカゲがさー、寝かせとけって。疲れてるだろうから、ってさ」

 リウィーは相変わらず、クリスティーネの事をトカゲと呼ぶ。そういった蔑称のような呼び方自体、初めて耳にしたので最初はずいぶんと戸惑ったが、この旅の間にそこには悪意がない事を理解した。どちらかと言うと照れ隠しなのだろう。呼ばれる方も、どこか楽しそうにしている。そういう間柄にはちょっと憧れもする。だからといって、自分もそう呼ぶ事は、流石に一生無理そうだけど。

「クリスは?」

「この下でクレッドとじゃれ合ってるよ」

 剣の訓練をしている、という事らしい。庭があったのでそこだろう。

「顔を洗って、朝ごはんにしようかー」

「……お昼ごはんですね」

「朝ごはん兼昼ごはんだねー」

 少女は楽しそうに笑うと、窓から下の二人に呼びかけていた。



 服を着替え、髪を整える。翼を隠す為の外套も忘れず着用する。ようやく習慣づいてきた。屋内で外套を着るのはちょっとおかしいし、この所暑いので大変だ。けれど、まだ出来るだけ目立たないほうが良いと、クリスティーネに言われていた。

 殆ど半裸なトカゲはいいけどね、とリウィーは笑っていた。確かに露出度が高いと思う。胸周りは革製の鎧を身に着けているが、腕は肩からむき出し、足も大腿部が見えている。お腹の部分も丸見え。鍛えられた戦士の肉体と鱗のせいであまり目を引かないが、手足も長く胸も大きい。鼻も高く、目も切れ長だが凛とした雰囲気で美しい。髪が短いのが残念だ。もう少し伸ばして綺麗に手入れをして、着るものを着たら誰もが振り返るだろう。



 着替えを終えると、一緒に下へ降りた。一階が酒場で二階が宿、という形式の店だ。

 クレッドとクリスティーネが既に席についていた。ホルムヘッドの姿は見えなかった。

「ホルムヘッドは?」

 席につきながら、一応確認する。

「まだ、だな。夜も戻ってこなかった」

 予想通りの返答が返ってきた。わかってはいたものの、焦燥感を感じてしまう。

 彼が悪いわけではないし、能力がないわけでもない。むしろ、交渉や折衝は非常に優秀で、ずいぶん助けられている。博識で、物事を洞察する力も高い。持っている知識と今見聞きして知り得た事をかけ合わせ、確度の高い仮説を立てる。なかなか出来る事ではない。

 今の状況から最も確率が高く、最も効率の良い方法を選んでくれており、その中で最大限に努力してくれている事だろう。礼を言う事はあっても文句を言うなど、とんでもない。

 そう、理解している。わかっている、のだけれども。

 彼は、自然体というか、のんびり屋というか、自他共に認める「面倒くさがり」なのだ。公平に見れば仕事は出来るし、むしろ早い方だろう。だけど、言動や態度のせいでそう見えない。損な性格だと思う。

 理解している。わかっている。……のだけれども。

 早く帰ってきて、と願わずにはいられない。



「今日、この後どうする?」

 リウィーが適当に料理を注文している間に、クレッドが問いかけてきた。

「どう、とは」

 連絡を待つ、以外に思い浮かばず、首を傾げた。

「昨日、観光とか言ってただろ。あれはつまり、戻ってくるのは早くても夕暮れ以降という意味。今日の昼間はやることがない」

「そうですね。でも、流石に観光という気分にはなれません」

「わかるけどさ。宿にいても気が滅入るだけだし。気分転換に」

 言いたいことはわかっている。気を遣ってくれているのも。けれど。

「追手は」

「大丈夫でしょうね」

 クリスティーネが口を挟んだ。

「もし襲われるとしたら昨晩だった。こなかった事を考慮すると、ネートンで追手の主戦力は全滅させたと見ていいわ」

 宿で襲撃を受けた時、彼女は五人、討ち取っている。クレッドが一人。一人に逃げられたので、合計七人。予備戦力がいたとしても、それ以上残っているとは思えない。また、クリスティーネの抑止力としての存在は大きい。追手もこれ程の戦士が護衛についた事は想定外だろう。少ない戦力では分が悪いと判断するだろうし、彼らの任務を考えると無理をして全滅するより、情報を持ち帰るほうが重要だろう。説明はそういった内容だった。

 それでも躊躇する。気休めに出掛けるなど、許されるのだろうか。

「……そうね。私の故郷は内陸で、海を見たことがないの。港の方に散歩でもどうかしら」

 考えあぐねているのを見かねたのか、そんな提案をされた。

 海。そう言えば、まともに見たことはない。空から遥か遠くに見ることはよくあったが、近くで見たり海水に触ったり、という経験はない。少し気持ちが傾いた。

「じゃあ決定! ご飯食べよう!」

 どこからどこまで聞いていたのか、少女が料理を運びながら話を締めくくった。この店は、対面台の席カウンターで注文と支払いを済ませ、席までは客自身が運ぶという決まりになっている。この仕組みも昨晩初めて経験した。店員が少ない店なら、合理的だと思う。

 店内を見て思った。こういう何でもない経験が、国に帰って落ち着いたら役に立つのかもしれない。少し強引ではあるがそう納得し、周りの気遣いを受け入れることにした。



 街中を南に向かう。四半刻も歩くと南門に到着した。城門は少し高い位置にあった。門前から見下ろすように、大きな港町が広がっており、その向こう側に海が見えた。

「私の国では『海は大きい湖』というけど、そのままね」

 クリスティーネが感想を述べた。聞けば、故郷の近くに大きな湖があるそうだ。

 フレイアは、湖と呼べる大きさのものは少なく、池か泉が多い。レナリアの海は内海だが、大きさとしてはそれらとは比べるまでもない。今までに見た最も大きなものの、十倍でもきかないほどだろう。

「凄く大きいですね……! もう少し、近くに行ってみてもよいですか」

 フィルナーナは、思いの外、興奮している自分に気づいていなかった。クレッドが嬉しそうに同意した。



 緩やかに下る道の先に、商店や市場が並んでいる。昨日は気づかなかったが、街は活気に満ちていた。

 進んでいくと不思議な匂いが鼻についた。何とも形容し難い、嗅いだことのない香りだった。表情に出ていたのか、リウィーが袖を引っ張りながら「これが『磯の香り』というやつだよ」と自慢げに言った。

「海水とか塩の匂いだよ。海の近くにくると匂うんだよ」

「違うわね。磯の香りの正体は、魚や水草、藻などの腐敗臭よ」

 得意そうに解説していた所を、クリスティーネが一刀両断。

「な、なんでわかるのさ。トカゲだって海は初めてでしょ」

「私の国は湿地帯が多いし、広い湖はあると言ったでしょう。手入れがされていない水場では、こういう匂いがするものよ」

「うっ……で、でも海は大体匂うけど、湖は匂わないよ!?」

「それは小さい湖だからでしょう。海や大きい湖だと波が発生するから、水草が岸に打ち上げられる。放置されると匂いを出す。特に港があって漁をしていると、網に引っかかった水草を辺りに捨てたりするから、匂いがきつくなるのね」

 完璧に論破された少女の反論は、ただの罵倒になっていた。



 宥めながらしばらく歩くと、目の前が大きく開けた。

 堤防と浜、そして海。目の前の浜には漁船が並べられており、そこでは大勢の人が働いていた。魚を運ぶ者、網を修繕している者、船を掃除する者。東側は少し離れた場所から波止場になっており、商船や、遠くに軍用船が見えた。この内海の西端では最大の港で、貿易としても海上交通としても起点であり、終点でもあるそうだ。

 浜に降りる。リウィーが走り出し、クリスティーネがそれについていった。

 潮風に舞う髪を抑えながら、海を眺めた。遠くに見える水平線が、青く煙っている。

「とても、広いですね」

 初めて間近で見た海に、他の感想が浮かばなかった。

「ここから西に行けば、泳いだり出来る場所があるんだけど、流石に今日は難しいな」

 クレッドが少し残念そうだ。

 首を横に振る。

 確かに、時間も、気持ちにも余裕がない。けれど、海を見る事ができた。天気は良いし、陽の光を反射した波打ち際が、キラキラと美しい。

「充分です。次に来る時の楽しみが出来ます」

 此方の様子を伺っているのが、目の端に見えた。照り返す日差しに、目を細めた。

「そうか。なら、次は是非……あっと、翼を見せちゃいけないんだっけ。あと、濡れたら駄目だった、かな?」

 慌てたような顔が、微笑ましい。

「お忍びは今だけですよ。それに、私達の翼は濡れても大丈夫です。……こう見えて、泳ぎは得意なのですよ?」

 そうなのか、と、照れたような顔。心が、暖かくなる。

「――だから、いつか。楽しみにしていますね」

 笑った。何の保証もない、あやふやな口約束だけど。今はこれを大切にしたい。

 戻ってきたリウィーが何故か機嫌が悪くなっていた理由は、その時のフィルナーナには、わからなかった。
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