34 / 36
「1986年 岡崎恭介」act-7 <真実>
しおりを挟む
その週末。岡崎とユウは、見知らぬ商店街を歩いていた。活気付くにはまだ早い時間らしく、立ち食いの蕎麦屋とモーニングを売りにする喫茶店以外、ほとんどの店のシャッターが閉まっている。
誰から聞いたのか、彼女は小田急線沿線にある、この町の産婦人科に予約を入れていた。閑散とした通りに、ユウの靴音だけが小さく響いている。
その病院は、ちょうど商店街を抜けたところにあった。
細長いビルとビルの間に建つそれは、外壁がところどころ剥げ少し陰鬱な感じがするが、看板に刻まれた『女医』という赤い文字が少しだけ岡崎を安堵させた。
扉を押して中に入ると、ユウは受付に向かい、岡崎は待合室のソファに腰を下ろした。斜め向かいに、お腹の大きな眼鏡をかけた女性が一人座わっている。目の前にはテレビがあり、料理番組が小さな音でかかっていた。
ユウはすぐにやって来て岡崎の隣に座った。眼鏡の女性が、ちらりと二人を盗み見る。岡崎はテレビ画面から視線をはずし、ユウの耳元に顔を近づけ、そして小声で聞いた。
「ユウちゃんは料理できるの?」
「得意だよ」
「本当に?信じられないなあ」
岡崎のからかうような口調に、ユウは少し自慢げに言い返した。
「お母さんが料理好きで、いろいろ教わったから」
「いいお母さんだね」
岡崎がそう言った時、待合室のドアが開いた。若い看護婦が顔を覗かせ、事務的な声でユウの名を呼ぶ。
「ヒライユミさん、こちらにどうぞ」
その言葉は、全ての時間の流れを一瞬のうちに停止させ、巨大な腕で頭を鷲掴みにされたかのような衝撃を岡崎に与えた。
ユウがゆっくりと立ち上がる。
部屋を出る瞬間、岡崎を振り返った彼女の唇が “行ってくるね” と動いた。
その全てがスローモーションのように岡崎の目に映り、バタンと閉められたドアの音だけが、現実を叩きつけるかのように大きく響いた。
岡崎は、言葉にならない声をあげ立ち上がり、ドアを開け廊下に出た。看護婦に肩を抱かれたユウの後姿が遠目に一瞬だけ見え、突き当たりの部屋にスッと吸い込まれて消えた。岡崎は、はじかれたように受付に飛び込んだ。
「ヒライの身内のものですが、先程の受付表を見せてもらえませんか?」
年老いた看護婦が、怪訝そうな表情でユウの記入した受付表を岡崎に渡した。
目眩にも似た感覚が岡崎を襲い視界が歪んだ。
—ユウは、由美という名だったのか—
彼女の『平井』という名字は別れた妻の旧姓だ。そして生年月日に記された数字は、たった一度しか誕生日を祝ってあげられなかった自分の娘、岡崎由美のものであった。
岡崎は受付表を看護婦に返し待合室に戻ると、ソファに座わりつぶれるほど硬く目を閉じた。
誰から聞いたのか、彼女は小田急線沿線にある、この町の産婦人科に予約を入れていた。閑散とした通りに、ユウの靴音だけが小さく響いている。
その病院は、ちょうど商店街を抜けたところにあった。
細長いビルとビルの間に建つそれは、外壁がところどころ剥げ少し陰鬱な感じがするが、看板に刻まれた『女医』という赤い文字が少しだけ岡崎を安堵させた。
扉を押して中に入ると、ユウは受付に向かい、岡崎は待合室のソファに腰を下ろした。斜め向かいに、お腹の大きな眼鏡をかけた女性が一人座わっている。目の前にはテレビがあり、料理番組が小さな音でかかっていた。
ユウはすぐにやって来て岡崎の隣に座った。眼鏡の女性が、ちらりと二人を盗み見る。岡崎はテレビ画面から視線をはずし、ユウの耳元に顔を近づけ、そして小声で聞いた。
「ユウちゃんは料理できるの?」
「得意だよ」
「本当に?信じられないなあ」
岡崎のからかうような口調に、ユウは少し自慢げに言い返した。
「お母さんが料理好きで、いろいろ教わったから」
「いいお母さんだね」
岡崎がそう言った時、待合室のドアが開いた。若い看護婦が顔を覗かせ、事務的な声でユウの名を呼ぶ。
「ヒライユミさん、こちらにどうぞ」
その言葉は、全ての時間の流れを一瞬のうちに停止させ、巨大な腕で頭を鷲掴みにされたかのような衝撃を岡崎に与えた。
ユウがゆっくりと立ち上がる。
部屋を出る瞬間、岡崎を振り返った彼女の唇が “行ってくるね” と動いた。
その全てがスローモーションのように岡崎の目に映り、バタンと閉められたドアの音だけが、現実を叩きつけるかのように大きく響いた。
岡崎は、言葉にならない声をあげ立ち上がり、ドアを開け廊下に出た。看護婦に肩を抱かれたユウの後姿が遠目に一瞬だけ見え、突き当たりの部屋にスッと吸い込まれて消えた。岡崎は、はじかれたように受付に飛び込んだ。
「ヒライの身内のものですが、先程の受付表を見せてもらえませんか?」
年老いた看護婦が、怪訝そうな表情でユウの記入した受付表を岡崎に渡した。
目眩にも似た感覚が岡崎を襲い視界が歪んだ。
—ユウは、由美という名だったのか—
彼女の『平井』という名字は別れた妻の旧姓だ。そして生年月日に記された数字は、たった一度しか誕生日を祝ってあげられなかった自分の娘、岡崎由美のものであった。
岡崎は受付表を看護婦に返し待合室に戻ると、ソファに座わりつぶれるほど硬く目を閉じた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
シャウトの仕方ない日常
鏡野ゆう
ライト文芸
航空自衛隊第四航空団飛行群第11飛行隊、通称ブルーインパルス。
その五番機パイロットをつとめる影山達矢三等空佐の不本意な日常。
こちらに登場する飛行隊長の沖田二佐、統括班長の青井三佐は佐伯瑠璃さんの『スワローテールになりたいの』『その手で、愛して。ー 空飛ぶイルカの恋物語 ー』に登場する沖田千斗星君と青井翼君です。築城で登場する杉田隊長は、白い黒猫さんの『イルカカフェ今日も営業中』に登場する杉田さんです。※佐伯瑠璃さん、白い黒猫さんには許可をいただいています※
※不定期更新※
※小説家になろう、カクヨムでも公開中※
※影さんより一言※
( ゚д゚)わかっとると思うけどフィクションやしな!
※第2回ライト文芸大賞で読者賞をいただきました。ありがとうございます。※
復讐するは彼にあり~超獣戦線~
板倉恭司
ライト文芸
そう遠くない未来の日本。
黒田賢一は、理由もわからぬまま目の前で両親を殺され、自らも命を落とす。だが賢一は、冥界にて奇妙な姿の魔王と取り引きし、復讐のため現世に舞い戻る。人も獣も超えた存在・超獣として──
疎遠になった幼馴染の距離感が最近になってとても近い気がする 〜彩る季節を選べたら〜
若椿 柳阿(わかつばき りゅうあ)
ライト文芸
「一緒の高校に行こうね」
恋人である幼馴染と交わした約束。
だが、それを裏切って適当な高校に入学した主人公、高原翔也は科学部に所属し、なんとも言えない高校生活を送る。
孤独を誇示するような科学部部長女の子、屋上で隠し事をする生徒会長、兄に対して頑なに敬語で接する妹、主人公をあきらめない幼馴染。そんな人たちに囲まれた生活の中で、いろいろな後ろめたさに向き合い、行動することに理由を見出すお話。
ちょっと待ってよ、シンデレラ
daisysacky
ライト文芸
かの有名なシンデレラストーリー。実際は…どうだったのか?
時を越えて、現れた謎の女性…
果たして何者か?
ドタバタのロマンチックコメディです。
あなたがわたしにくれたもの
ありしあ
ライト文芸
「こんな人生つまらない」
白瀬樹の心臓には爆弾がある。高校一年生にして、残り一年しか生きられないという爆弾が。
家族を失い、残された樹の人生はただ死を待つだけのつまらない人生だった。
だが、そんな中──。
「隣の部屋に越してきました。柊冬雪と言います」
異例の時期に転校してきた女子生徒、柊冬雪が近づいてきた。
初めて会うはずなのに、食の好みから、好きなものまで当ててくる冬雪に困惑しながらも、繰り広げられる非日常に、樹は──。
裏切りの扉 非公開にしていましたが再upしました。11/4
設樂理沙
ライト文芸
非の打ち所の無い素敵な夫を持つ、魅力的な女性(おんな)萌枝
が夫の不始末に遭遇した時、彼女を襲ったものは?
心のままに……潔く、クールに歩んでゆく彼女の心と身体は
どこに行き着くのだろう。
2018年頃書いた作品になります。
❦イラストはPIXTA様内、ILLUSTRATION STORE様 有償素材
2024.9.20~11.3……一度非公開 11/4公開
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる