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1.覚醒

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 白い霧のような視界の中、人影がゆらりと揺れている。

「――――」

 誰かに何かを話しかけられているようだったが、うまく聞き取れない。
 鉄男てつおは自分の身に一体何が起こっているのかと、必死に思い出そうとあがく。だが、うまく体を動かすことができない。重い鉛のような瞼を何度も瞬かせる。すると、徐々にその輪郭がはっきりと映し出された。

「もう、大丈夫だよ」

 目の前には、白衣を着た男性がいた。
 辺りを見回すと、白いカーテンに包まれていた。左を向くと一面に窓がある。想像する限り、どこかの病院の病室だろう。

「ここ……は?」
「私の病院です。私は野崎のざきと言います。あなたの主治医ですよ」

 落ち着き払った太い声。温和な顔つきだが、白衣の下に着たYシャツにかっちりとしたネクタイ姿は、威厳と品格を感じさせられる。
 どこかで……?
 ぼんやりとした記憶の底で、何かが浮かび上がる。

「気分はどうですか?」
「あ……」
「まだ、うまく喋れないようですね、無理もない。きみは二年間も眠っていたのだからね」
「に、ねん?」
「ゆっくりでいいですよ。少しずつよくなっていきましょう」

 そう言うと、看護師に何かを指示をし、首を縦に頷くかせると、病室を出て行った。

「あ……せんせ……」

 一体何があったのか、病気なのか怪我なのか、何の説明もなく、鉄男は混乱したまま看護師に血圧や体温を測られるていく。点滴はまだ外せないと言われ、繋がれた腕をうっとうしく気にしているところへ、病室のドアが遠慮がちにそっと開かれた。

「てっちゃん」

 聞き慣れた声と見慣れた顔。

「……まもる

 その返事に守はパッと顔を輝かせる。その後ろから、ひょっこりと覗き込むように顔を出したのは、

「お久しぶりです、かな? 鉄男さん」

 守の幼なじみのめぐみだった。自分に何があったのかはまだ分からないでいたが、二人はお見舞いに来てくれたのだと理解し、鉄男はかすかに微笑んだ。すると、

「てっちゃん、お母さんだよ」

 一番、奥に鉄男の母がいた。守がベッドまで鉄男の側へと優しく手を引く。母は涙ぐんでしまい、何も喋れない。

「……母さん、さっき聞いたけど、俺、二年間も……」

 鉄男には、つい昨日まで一緒に生活していた感覚だ。だが、本当に二年も意識なく眠っていたというのであれば、どれだけの心配と苦労をかけただろうか。今この状態の母を見て胸が締めつけられる。

「まだよく思い出せないけど……辛い思いさせてごめん、母さん」
「――っ、鉄男」

 喉に詰まらせていた物が取れるよう、母の口から言葉がドッと押し出る。

「いいのっ、いいのっ、鉄男が何か悪いことした訳じゃないのよっ」
「そうだよ、てっちゃん。まだ思い出せてないみたいだけど、ゆっくりでいいよ」
「そうね、今はゆっくり休んでたくさん食べて体力つけて。それからでいいわよ、ね?」

 守とめぐみが元気づけるよう励ますが。だが、鉄男は白い天井を仰ぎ見ながら、気持ちを焦らす。

「あぁ、まだ頭がどうも……でも、母さん、色々困ってるだろ? ホントに大丈夫なのか?」

 母親はさり気なく目元を拭い、

「そりゃあ少しは……でも、守くんとめぐみさんが優しくしてくれてたから、大丈夫だったよ」
「……そうか、二人ともありがとうな。感謝するよ」

 そう、礼を述べながらも、鉄男は重い面持ちで天井を見つめたままだ。

「そんな大したことしてないよ、てっちゃん」
「そうか、大したことはしてないのか」
「あ、あのな、言葉通りに受け取るんじゃないっ」
「じゃあ、何したんだ?」
「えと、そうだ! カボチャを半分に包丁で切ってあげたよ!」
「…………」
「何か言ってくれよ、てっちゃん!」

「もう、漫才してないで」と、めぐみのツッコミに、母親もクスリと笑みをごぼす。その場にほんの少し笑いが広がった。

「あの、ちょっと鉄男のことお願いね」

 と言って、母は病室の外へと出て行く。何の用か、めぐみは察したが、あえてついて行かなかった。
 病室には三人だけになる。

「守……」
「うん」
「……二年前、何があったんだ?」

 守とめぐみは、やはり聞いてきた。と、顔を見合わす。目覚めてから徐々に頭もしっかりしてきて、今この状況を鉄男は知りたがっている。

「オレたち、三人で釣りに行ったのは思い出せる? てっちゃんのボートでさ」
「あぁ、思い出せる。三人で海釣りに行って……俺のボートが故障した。それで一晩、流されて、どっかの島に……」
「それ、違うよ、てっちゃん」
「違うって?」

 天井を見上げていた鉄男は、訝しむよう守の方に顔を向ける。

「ボート、故障なんてしてないよ」
「そうよ、島なんかにも流されてないし」

 と、守とめぐみは言う。しかし、

「それじゃ、何で俺、こんなことに……」

 鉄男は理解できず、記憶の淵を辿る。が、記憶違いだとは思えない。

「てっちゃん、まだ思い出せてないんだろうけど……あの日、大きなクルーザーがオレたちのボートと衝突したんだ。それで三人とも海に投げ出されて。すぐさまクルーザーの人達に救助されて、オレとめぐみは無事だったけど、てっちゃんだけ怪我して意識が戻らなくなったんだ……」
「……生きてたのか、二人とも」
「うん、なんかオレとめぐみだけ助かって……てっちゃんだけこんな目に……」

 少しばかり罪悪を感じつつ、守とめぐみはうつむく。
 だが、鉄男の「生きていたのか」というのは、ボートと衝突してという意味ではなかった。

「そのクルーザーに乗ってたのって、ここの野崎病院の院長?」
「なんで知って? てっちゃん」

 守は鳩が鉄砲玉を食らったように目を丸くする。そんな天然でオーバーリアクションをとった守を押しのけて、

「そうなのよ、クルーザーに乗ってたのはここの病院の院長先生とその娘さん。鉄男さん、さっき院長先生から話聞いたの?」
「いや、何も」

「じゃあ、どうして分かったの?」めぐみも守と同様のリアクションになる。

「……俺には分かるんだ……」

 守とめぐみは丸くなった鳩の目を突き合わす。そこへ、

「守くん、めぐみさん、これ飲んで」

 自販機で買ったジュースを両手に抱えて母が病室へと戻って来た。

「あぁ、そんなお構いなく。あたしたちはそろそろ帰りますから」めぐみは遠慮しながらも、差し出された缶ジュースを有難く頂く。

「それじゃあ、てっちゃん。今日は色々話し過ぎたみたいだから、ゆっくり休んでね」と、母を振り返り、「送りますか?」鉄男の様子を窺いながら母は、「どうしようかしら」

「俺なら大丈夫だよ。守、母さんを頼む」
「うん、任せて。じゃ、また来るから」
「お大事に、鉄男さん」
「鉄男、また明日来るわね」と、三人は病室を出て行った。かと思えば、再びノックなしにドアが開かれる。

「てっちゃん、言い忘れたけど、オレ、めぐみと結婚したから。今後、そのつもりでよろしく!」

 思わずガバッと起き上がろうとした鉄男だが、二年間、床の上だった体では無理だった。

「むぅ……」

 守にしてやられた鉄男は、少々悔しがった。
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