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三十四.一人じゃない

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 仕事を終えると、玲子れいこは風呂場でシャワーヘッドを睨み付けた。右手を蛇口にかけて身を構える。
 あとは心の準備だけだ。決心がつけば、気合を入れるのみである。数秒後、意を決して「えいっ!」と蛇口を思いっ切りひねった。勢いよく飛び出した冷水を全身へと浴びる。

 ヒャ────ッ

 里見さとみ家の母屋全体に、玲子の悲鳴にも似た叫び声が響き渡る。台所に立ち、のんびりとジャガイモの皮を剥いている祖母に祖父が、

「あやつは何をやっとるんじゃ?」
みそぎ。鎮魂行法するんじゃて。じゃけん、今日は私が代わりに肉じゃが炊くの。あぁ、そんなんせんでもええから、玲子には神職やのうてお婿さんもろうてほしいわぁ。あたしね、はよぅ家事引退したいの」
「禊はそういう意味じゃなかろうて。あの玲子の持つ能力を高めて、自己制御が行えるようにするための修行じゃろ。玲子もやっと自分で自分の事をちゃんと考えるようになったんじゃのぅ」
「あれなら、あたしも持っとったけど、何の役にも立たんかったわ」
「ばーさんや、玲子のあれはな、あんたのとは桁がちがう。比べもんにもならん。……ジャガイモ、もっとようけ炊いとってくれ」

 祖母は黙り、ジャガイモを剥く手を止めると、ニンジンの皮をピーラーっで剥く作業へと移った。
 玲子は二回目の悲鳴を上げると、「さむさむさむっ」と呪文を唱えるように風呂場から出て来ると、

「ちょっと拝殿行って来るー。夕飯先食べててー」

 と、玄関の外へ向かった。
 外を出ると、秋風が冷えた体に吹きつける。冷え切った体に冷えた風が吹きつけても、急激な温度差はそれほど感じなかった。玲子の身と心はすでに引き締まっていた。
 拝殿に入ると安座し、大祓詞おおはらへのことばを暗唱する。
 正剛と一緒に何度、奏上しても覚えられなかったものだ。それを、ものの三日間で暗記してみせた。玲子の集中力はただ事ではなかった。
 続けて呼吸法に入ると、やがて徐々に無念無想の世界へと入っていく。これまでになく深い深いところへと。

 ──どれくらいの時間が経っただろうか。
 目を開くと、いつのまにか真っ暗になっていた。拝殿へ入った時には、まだ夕日は沈んでいなく薄っすら空がオレンジ色に染まっていたはずだ。
 玲子は一瞬、どこか遠い果ての世界にでも来たのではないかという感覚に陥った。
 光一つない暗闇に焦りと動揺を感じて心臓が鼓動する。その音だけが暗闇の中でやたら大きく聞こえる。
 拝殿に電気はない。懐中電灯を持って来るという事は、頭からすっかり抜け落ちていた。今宵は三日月で月明りはほとんど出ていない。しばらくすれば徐々に目が慣れてくるだろうが、それまで玲子にはとても大きな不安が襲ってくる。

 ──あれは子供の頃の話だ。

 境内で兄とかくれんぼをして遊んでいた時の事。兄のちょっとした悪戯だった。
 境内に一人置いてけぼりにされてしまい、玲子が気づいた時には辺り一面はもう真っ暗闇になっていたのだ。
 何もみえなくて、お化けさもえみえなくて、怖くて一人泣いたものだった。
 右に左に前へ後ろへと、さ迷ったと思う。家へと続く雑木林の道をひたすら求めて──ピタリと足を止めれば手の平によく覚えのある感触。それは、目生神社で一番大きな御神木である桜の木。
 それにずっとしがみついて誰かが見つけに来てくれるのを待っていた。すると、小さな蠟燭ろうそくの灯りと共に雑木林から祖父が迎えに来てくれたのだった。
 あの時、祖父の姿を見つけた時の気持ちはよく覚えている。目からこぼれる涙が恐怖から安堵のものへと変わったのも束の間、蠟燭の灯りをフッと消された時の、地獄へと落とされた気持ちはきっと一生忘れないだろう──

(じいちゃんめっ)

 思い出したら憎みたくなった。けれど、同時にその後の記憶が鮮明に蘇る。蝋燭の灯りを消した祖父は、こう言ったのだった。

 ──何だ、玲子。暗がりが怖いのか?

 祖父は、さもおかしそうに笑った。

 ──夜が訪れば暗くなる。当たり前じゃ。何をそんなに怖がる?

 そして、続けてこうも言った。

 ──どんなに暗くても、朝が来れば必ず明るくなる。ほれ、何も怖くないじゃろ?

 そうして、祖父と一緒に手を繋いで歩いた真っ暗な帰り道は、ちっとも何も怖くはなかった。

(あの時は、じいちゃんと一緒だったからだ)

 もう子供じゃないから、誰も見つけには来てくれない。一人でこの闇が広がる道を歩いて帰らなくてはいけない。前がみえない。何もみえない。

(一人だとやっぱ怖い)

 けれど、みえないだけで道はある。桜の木を道しるべに方向を確認しながら、一歩ずつ進んでいく。

(大人になると一人かぁ……)

 一人は不安だ。誰か一緒に歩いてくれる人が欲しい。と思ったところで、工藤が頭に横切りそうになったのを瞬殺して、梨奈りな正剛せいごうを頭にいっぱいに浮かべた。その時──チラッと光るものが視えた。
 とても小さくて。闇の中で儚く光るそれは、あの工藤の邪気の中に視た由衣子の霊魂を彷彿とさせられた。

(……由衣子、待ってて。必ず助けてあげるから)

 そこへ、もう一つの光が現れた。
 二つ並んだ小さな光。それはまるで……嫌な感じに胸がざわつく。

(そんな……二人共々、一緒になんて……っ)

 二つの光がフッと消えかかる。
 玲子は両腕を必死に伸ばして、二つの光を逃がすまいと掴み取ろうとする。

「──いかせるかっ」

 グニッ
 捕らえたそれは、ニャーゴと苦しそうに鳴いた──ミケちんだ。門灯がついた母屋の玄関から祖母がやって来る。

「ミケや、晩は外へ出ちゃイカンよ。……玲子は何しよん? 晩ご飯、はよぅ食べな、冷めるで」

 玲子は滑り込みセーフをした野球選手のようなポーズをとっていた。そうか、猫になれば見つけに来てもらえるのだ。と、思いつく。
 今のは──ただの幻だ。
 けれど、今あの二人は暗い闇の中で眠っているのだろう。闇に心と体を囚われ、何もみえないまま、動けず、前へ歩けなくなっている。そしてこのまま、もっと暗く深い闇の底へと沈んでゆく──そんな事には絶対にさせやしない。
 玲子は目の前を真っ直ぐに見つめ、立ち上がった。
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